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屍蝋
あるゆるものは言語によって表現され、それが最も効率的で、高度なものだと信じられてきた。
いつからか、自分の世界への認識が言語情報に依存していた。言葉、活字、隅から隅まで読み尽くして。脳に映る現代は情報の渦で、日々新しい情報が更新され、古い情報もアップデートされる。人伝に聞いた噂、マスメディアの報じるニュース。
情報の処理能力がその人間を規定するようなものだと言っても過言では無い。情報から予測して、思考して、行動する。知らぬ内に予測に基づく社会が完成していた。
この言語偏重の世の中に不満が無いかと言われれば無いわけでは無いが、現状こうするしかないのだろう。全世界の人間が以心伝心で通じ合えるのであれば話は別だろうが。
確かに言語化能力は大事だし、社会でも必要だろう。生涯での躓きを減らすためにも、長いセンテンスをきっちりと言えるようにならないといけない。しかし、1から10まで言語化してしまっては面白みに欠けてしまう。
対話では相手の沈黙を読み取って、ただ寄り添う。それだけで理解していると言えるだろう。全て説明されて理解した気になっている内は、理解したとは言えない。
どれだけ友達がいても孤独感が消えないのはそこに原因がある。ただ理解して欲しい。何も言わないで寄り添ってくれたらいい。明確に言語化してアドバイスをくれたところで、それはなんの特効薬にもならない。欲しいのは理解と共感であって、解決策ではない。
絵とか音楽とか言語以外にも気持ちを表現するツールはあったけれど、専らそういうものに才がなければ、本気で挑んだことも無いものだから。気づけば言語に惹かれていた。
自分にはこれしかないと、そう思った。自分の言語偏重はここから来ている。
思えば、自分は絵単体、音楽単体から読み取れる感情が少ないから言語に頼りっきりなのかもしれない。物語とセットになっている、考察など含めての音楽。歴史的背景、事前知識を必要とされる絵画。これらでないと心を動かされない自分の心の寂しさに悲しくなる。
けれど言語がない世界の方が嫌だろう。
その世界の人達の精神生活は遠い狩猟民族の時代と差異は無いだろう。
言語によって感動もせず、叡智を知らず、触発されず、人間以上の超越世界を知らず、高揚を知らず、愛を感じず。さらには歴史を知ることもない。
自分はそんな世界で生きるのならば死んだ方がましだとすら思う。それは人間的な生活では無いし、知的生命体としての生き様ではないはず。
私たちもうずっと互いのこと
好きじゃなくていいでしょう
私は幸せになれるのよ ここじゃない所でも
文章しかない割に文章が下手なのはお許しください。自分語りが入ってしまってすいません。
新学期、受験、就活、色んなことあると思いますが無理せず頑張っていきましょう。決して無理せずに。皆さんの健康を祈っています。