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龍女は女体のまま成仏したのか? 第1章

法華経の提婆達多品(古い版では宝塔品)には、「龍女」というキャラクターが登場する。
生物の種類としては龍であり、8歳の女の子だ。
彼女は、仏の姿に変身してその場にいる人々を驚かせる。

日蓮教学ではこの【法華経における龍女成仏】を、女性成仏の根拠として重要視する。
【龍女がその場で仏に変身した=女人がその身そのままで成仏できた】
と主張するわけだ。

しかし、法華経を読んでも読んでもそうは書いていない…
日蓮大聖人は本当のことを言っているのか。嘘を言っているのか。

「女性が女性の身体を持ったままで即身成仏すること」、これは長いので「女体成仏」と呼ぶことにする。
今回は「法華経は女体成仏を説いているのか?」がテーマである。

日蓮大聖人の主張

大聖人は遺文の中で次のように主張している。

霊山会上の砌には…五障の龍女は蛇身をあらためずして仏になる

【現代語訳】
霊鷲山会の時、…五障を持つ龍女は、蛇の姿のまま仏となる。

撰時抄

龍女が成仏此れ一人にあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生をゆるすようなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏なり。挙一例諸と申して龍女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。

【現代語訳】
龍女が成仏したことは、彼女一人に限ったことではなく、すべての女性の成仏を表しているのだ。法華経以前の諸々の小乗経典では、女性の成仏は許されていない。諸々の大乗経典では成仏や往生が許されているように見えるが、身の変化を経た成仏であり、一念三千の成仏ではないため、有名無実の成仏である。例として挙げた龍女の成仏は、末法の世における女性の成仏と往生の道を切り開いたものなのだ。

開目抄

【他の経典では、女人成仏のためには男性への変身や転生が必要になる。しかし、法華経では女体成仏できるのだぞ!】と。
日蓮大聖人はそのように主張している。

何が問題なのか

「法華経に女体成仏が説かれている」という主張は、以下2つの観点で問題になる。

(1) 仏の性別問題

そもそもの話、【仏=三十二相を備える=男根を備える】というのが仏教である。
言葉の定義上、「女性の仏」は成り立たない。
「男性の母親」や「マイナスの正の数」が定義上成り立たないのと同類の話だ。

法華経の当該箇所にも、次のように明記されている。
登場した龍女が仏になった個所である。

女の言わく、
「汝が神力を以って、我が成仏を観よ。復、此れよりも速かならん。」
当時の衆会、皆龍女の、忽然の間に変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相、八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る。

【現代語訳】
龍女が言った
「あなたの神通力で、私が成仏する様子を見てください。しかも、それはあなたの予想よりも速く行われるでしょう。」
その時、その場にいた集まりの人々は皆、龍女が突然の間に変わり、男性の姿となり、菩薩の行いを完全に備え、即座に南方の無垢の世界に向かい、宝の蓮華の上に座って、完全な悟りを成し遂げるのを見たのだ。彼女は三十二相と八十種好の特徴を備え、十方のすべての衆生のために、妙法を広く説き始めた。

妙法蓮華経 提婆達多品第十二

龍女は男性の姿になり、三十二相を備えたと法華経にも明記されている。
三十二相を備えるということは、男根を備えるということだ。男に変身するということだ。
変身して性別も変わっているのだから、女体成仏ではない。
法華経に明記されていることなので、これにて議論は落着した。
だから、これ以上の話をする必要はない。

…ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。
日蓮門下的には、そこで引き下がるわけにいかないのだ。
龍女が女体成仏していなければ、日蓮大聖人の言葉がウソになってしまう。
彼らは「龍女が女性のまま成仏した」と主張するために、法華経の提婆達多品をくまなく読む。
すると、抜け道になりそうな記述があるではないか!
それが次の話である。

(2) すでに悟っていた疑惑

「龍女が仏になった」のではなく、「実は、仏が龍女の姿をとっていたのだ」といった見方だ。
これは、条件付きだが法華経から導出できる余地がある。
文殊菩薩が龍女を紹介する場面だ。

智積菩薩、文殊師利に問いて言わく、
「此の経は甚深微妙にして、諸経の中の宝、世に希有なる所なり。頗し衆生の勤加精進し、此の経を修行し、速かに仏を得る有りや不や。」
文殊師利の言わく、
「裟竭羅龍王の女有り。年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説の甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って、諸法を了達し、刹那の頃に於いて、菩提心を発して不退転を得たり。弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶、赤子の如し。功徳具足して、心に念い口に演ぶること、微妙広大なり。慈悲仁譲、志意和雅にして、能く菩提に至れり。」

【現代語訳】
智積菩薩が文殊菩薩に尋ねて言った
「この経典は非常に深遠で微妙であり、数多くの経典の中でも宝のような存在で、世の中でも非常に稀なものです。もし衆生が努力し精進を重ね、この経典を修行すれば、速やかに仏を得ることができる者がいるでしょうか?」

文殊菩薩が答えて言った
「サーガラ龍王の娘がいます。彼女はまだ8歳ですが、智慧が優れており、衆生のあらゆる性質や行いをよく理解しています。彼女は陀羅尼を得ており、諸仏が説いた深遠な教えをすべて受け持つことができます。また、深く禅定に入り、あらゆる法を理解しています。刹那の瞬間に菩提心を発し、不退転の境地に達しました。彼女は弁才に優れ、何の障りもなく衆生を慈しむ心は、まるで赤子を愛する母のようです。功徳をすべて備え、心で思い、口で説くことは微妙で広大です。彼女は慈悲に満ち、志は穏やかで優雅であり、すでに悟りに至ることができました。」

妙法蓮華経 提婆達多品第十二

この後に龍女が登場するのだが、「能く菩提に至れり」という表現が重要だ。
特に「至れり」の「り」が大事である。

品詞分解をすれば以下の通りだ。

・能く  (できる)
・菩提に (悟りに)
・至れ  (至る)
・り   (既に~した)

【既に悟りに至っていた】ということは、【龍女は登場する前からすでに仏であった】ということだ。

これをもって、彼らは女体成仏を主張する。
「女身のままの仏」の実例が法華経にあるじゃないか、と。
女性のまま即身成仏できるじゃないか、と。

やや強引ではあるものの、確かにその主張も成り立ち得る。
しかし、それは前述の通り「条件付き」での話だ。
条件は「妙法蓮華経の訓読に限るならば」である。

誤字解析時 検証会

訓読によれば「龍女がすでに仏だった」が成り立ち得る。
では、そもそも訓読は正しいのか?と。
その検証である。

漢文の妙法蓮華経

「能く菩提に至れり」に対応する漢文は「能至菩提」の4文字である。
この4文字のどこにも、「既に~した(完了)」を意味する文字が存在していない。

以下のように、「已(すでに)」や「矣(~した)」のような語が付与されていれば、完了の意味も成り立つだろう。

「能至菩提」
「能至菩提

しかし、そのような文字が入っていない。
当該箇所は散文であり、4文字制限もない。
ゆえに「已」や「矣」を付与できなかったのではない。
【元の文に完了の意味なんてないから訳出しなかった】
ただそれだけのシンプルな話だろう。

「完了を示す語はどこにもないのに、訓読した者が勝手に付与した」というのが事実だと思われる。

正法華経や梵本に当たると、このことが裏付けられる。

正法華経

正法華経を見てみよう。

溥首答曰:
「龍王有女厥年八歲,聰明智慧與眾超異,發大道意志願弘廣,性行和雅而不倉卒,便可成佛。」

【現代語訳】
普賢菩薩が答えた:
「龍王には娘がおり、彼女は8歳です。聡明で智慧が他の者に勝り、大道を発心し、心と誓願は広大です。性格は穏やかで優雅であり、落ち着いています。すぐに仏となることができます。」

正法華経 七寶塔品

「能至菩提」に相当するのは「便可成佛」である。
妙法華と同様、正法華にも完了を意味する語はどこにもない。

梵本

次に、梵本を見てみる。
「能至菩提」や「便可成佛」に相当するのは以下の箇所である。

sā samyaksaṃbodhimabhisaṃboddhuṃ samarthāṃ|

【日本語訳】
彼女は正しい悟りを得ることができるだろう。

saddharmapuṇḍarīkasūtram stūpasaṃdarśanaparivartaḥ
https://www.dsbcproject.org/canon-text/content/54/468

サンスクリットは知識が不足しているが、足りない頭で頑張って品詞分解すれば以下となる。

sā         人称代名詞 単数・女性・主格 「彼女は」
samyaksaṃbodhim  名詞 単数・対格 「完全な悟りを」
abhisaṃboddhuṃ  動詞 不定詞形(時制の指定なし) 「悟ることを」
samarthāṃ     形容詞 単数・女性・対格(時制の指定なし) 「能力がある」

astiなどの語が付与されていれば、過去の意味になる。
しかし、そういったワードもない。
梵文でも、過去や完了の意味を表す個所が一つもないということだ。

結論

妙法蓮華経の漢文・正法華経の漢文・梵文をそれぞれ見てきたが、いずれにも過去や完了の意味を表す語が無いことを確認した。

妙法蓮華経の訓読にのみ、「り」という完了助動詞が付与されている。
普通に考えれば、後世の何者かが勝手に付け加えたということだろう。

漢文・梵本によれば「菩提に至れり(既に悟っていた)」との解釈をすることはできない。
龍女は既に仏だったのではなく、女性修行者だったということだ。
そして、龍女が仏になるためには三十二相を備えた男性に変化せねばならない。

法華経を素直に読めば、そこに女体成仏が説かれていないことは明白である。

この件は2年前くらいに私も悩んでいた。
悩んだのは、日蓮門下的な都合からだ。
「五障の龍女は蛇身をあらためずして仏になる」が日蓮大聖人の言葉なので、そこに沿うように解釈せねばならないわけだ。

そのために残された唯一の道は、上記の通りで「既に仏だった」という解釈だ。
ここまで検討した通り、残念ながらその道も断たれてしまった。

ゆえに、現時点では「法華経は女人の即身成仏を説いていない」と結論せざるを得ない。

異論反論があれば、ぜひ学びたいです。
もちろん、経文を根拠としてくださいね。宜しくお願い致します。

さらばうあー!

後日談はこちら


当初「龍女は即身成仏したのか?」というタイトルだったが、タイトルを改めた。
私が問題にしているのは「女体のままの成仏なんて法華経に書かれてないよ」という点なので。
現世で速やかに成仏できる点については、最初から何の異論も出していない。

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