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チンゲン革命(5)

前回までのあらすじ
とんでもない大金を集めて建築された正本堂。日蓮正宗の重要イベントである御開扉も正本堂で執り行われるのであった。そこで少年若本が聞いたものとは…?

御開扉の行列待ちで、私は日蓮正宗と創価学会の微妙な関係を認知することになった。

当時、私は東京に住んでいたのだが、大石寺は静岡県の富士宮である。正直、交通の便は悪い。

電車で行くとすこぶる面倒くさそうなのだが、私たち一家はバスだった。
団体貸し切りだったと記憶している。
バスだったためか、交通の便の悪さを感じた記憶があまりない。

「そんなら交通の便が悪いとか書くなよ」という話なのだが、それはそれ。これはこれ。申し訳ないけど、電車で行く気にはなかなかなれないよ。私くらいになると、八王子の牧口記念会館でさえも遠くて行きたくない。信濃町は近いじゃないかって?快速が停まらないからダメだ。そもそも家から一歩でも外に出るのが面倒くさい。

むしろ、交通の便よりも到着してから正本堂に入るまでの方が大変だった。
とにかく待たされるのよ。
ディズニーランドという巨大宗教施設があるよね?
あの手のテーマパークって、オープンしたてのアトラクションが物凄い行列を作るでしょ?
イニシャルトークするけど、ピーさんのハニーハントとか物凄く混んでたよね。
あれはだいたい2列で並ぶのだが、御開扉の待ち行列は4列とかで。
本当に文字通り長蛇だったのよ。

その頃の日蓮正宗創価学会なんて、信徒の数がとんでもないことになってるからね。
まあ並ぶ並ぶ。ファストパスを導入してくれや。

で、待っている間は周囲の色々な会話の声が聞こえてくるわけだ。
その中で唯一覚えている言葉がある。
「あそこは学会じゃないから…」
というものである。

細かい表現までは思い出せないが、ご婦人の声だったのは覚えている。
嫌悪とまではいかないものの、やや含みのある言い方だった。

まだ6歳かそこらの頃合の私は「日蓮正宗=創価学会」という理解をしていた。
しかし、それが微妙に異なるらしいことをこの時に知ったのだ。

①日蓮正宗には、創価学会以外の組織があること
②その組織は、創価学会と仲が良くないこと

この2つを私は認知したのだが、②の方が問題である。
②を気にするということは、このクソガキの年齢ですでに「敵味方」のような区別をしていたということである。
もう少し詳しく書くと、「敵味方を正しく区別し、敵に与するような思考を避けていた」ということだ。
正確には、そういった思考になるような環境に置かれていた、ということだろう。

「敵に与しないように考える」という程度なら、学校や会社の人間関係の中で誰もが経験することだ。
これは「敵に与するような思考を避ける」と同義だが、この「特定の思考を避ける回路」が宗教と結びつくと、かなり厄介だ。
すでに心理学などで分析されているのかも知れないが、自分なりに整理したいので、詳しく書いておく。
今にして思うと、極めて不健全で危険な思考パターンだったと思う。

例えばこんな感じである。
勤行をすると「雨曼陀羅華」という一句が出てくる。
これは「うーまんだらけ」と発音することになっている。
漢文を読める今は「雨 曼陀羅 華(曼陀羅の華を雨らせる)」と理解できる。
つまり、意味で区切るならば「うー、まんだら、け」である。

しかし、そんなクソガキの頃合いに漢文など読めるわけもない。
テレビか何かでキャリアウーマンなどの言葉を見聞きしていたのだろう。
「ウーマンだらけ」に思えてしまうのだ。

だから、勤行の時に「雨曼陀羅華」を読むと、スーツを着たご婦人が大量発生している様子をイメージしてしまうのだ。
しかし、読経中にそんなことを思うのは仏法的に物凄く悪いことな気がしているので、「いやいやダメだ」とばかりにその雑念を振り払うのだ。

それは経典にのみあるのではない。
創価学会の第2代会長の戸田城聖は丸眼鏡をかけているのだが、これが「キテレツ大百科」の勉三さんの眼鏡にそっくりなのだ。

勉三さん ※プライバシー保護のため、画像の一部を加工しています。

やはり、そんなことを思うのは何だか不謹慎で罰当たりな気がして、
「いやいやダメだ、そんなことを思っちゃダメだ。戸田先生と勉三さんは絶対に異なる人物だ!」
と、思考の上書きを試みるわけだ。

ここに書いたのは、比較的に品の良いケースだ。
これ以上は書かないが、もっと下品な思考になりかねない罠がたくさんあったのだ。

そして、人間というのは「やってはいけない」と思うとやりたくなってしまう。
「思ってはならないことを思いそうになる」→「いやいやダメだと打ち消す」→「思ってはならないことを思いそうに…」というループである。

そんなことが1日に何度も生じる。

思想良心の自由が保障された現代日本において、何らかの思考を頻繁に打ち消そうとする。
これだけでもだいぶ頭がおかしいのだが、そこでは終わらない。

日蓮ついて1ミリでも変なことを言われたと感じると、黙っていられないのだ。
学校の歴史の授業で教員が「日蓮は」と言えば、「日蓮大聖人と呼ぶべきですよ」と抗議する。

こちらは子どもなので、教員が怖くて抗議できないこともある。
そんな時は、抗議しなかった自分を何日も何日も悔やむのだ。
そして、「他人の謗法発言に抗議できなかったことによる罰」に怯えるわけだ。
しかも、このプロセスが無意識のうちに発動するのだから恐ろしい。

もっと恐ろしいのは「他者の謗法発言を訂正せねば罰が当たる」などと、誰からも聞いていないことだ。

確かに、当時の日蓮正宗創価学会の文脈において、「謗法」や「罰」というワードは頻繁に出てきたのは事実だ。
また、大聖人は謗法を諫めたし、私たちも謗法を回避すべきだという教育も受ける。

しかし、「他者の謗法発言を訂正せねば罰が当たる」とは誰も言っていないのだ。
それなのに、謗法や罰と言ったワードからの連想をエスカレートさせ、ありもしないジンクスを自ら生み出してしまうのだ。

その強迫観念の由来は一体どこにあるのだろうか?

1つは、そもそもの話で日蓮に原因があると言える。
世の中の不幸と謗法とを結びつけ、時には堕地獄とまで言って脅迫じみた警告をする。
また、その日蓮の主張を厳格化して煮詰めたような教学体系を持つ日蓮正宗創価学会にも原因があるだろう。

ただ、私は日蓮正宗創価学会だけが強迫観念の原因とは思わない。

この世に日蓮正宗創価学会があろうとなかろうと、
「理由をこじつけることで安心する層」が世の中には存在しているのだ。
この層の人間こそは、日蓮正宗創価学会を増長させた最大の要因だと思っている。

理由のこじつけというのは、
「病気になったのは祈りが足りないから」とか、
「就職が上手くいったのはご本尊のおかげ」といった類の処理方法のことである。

事故を起こしても、ケガが小さければ「御本尊様に守られてるね」とこじつけるわけだ。
あるいは日蓮遺文で言えば「正しい教えを信じていれば、死相が黒くならない」とかである。

「自分の幸不幸の理由を、宗教的な要素に結び付けたい人たち」が一定数存在しているのだ。
おそらく、これらの人々の多くは、何かしらの宗教にハマるか騙されるかして生きている。
半ば騙されていると分かっていても構わないのだろう。
「騙されるリスク」よりも、「嘘でも良いから理由がハッキリする安心感」を優先しているということだ。

「何かしらの宗教」というのは、新興宗教に限らない。
伝統的な宗派でも、そういったユーザーを食い物にしているケースがある。

この「こじ付けによる安心感の提供」で最も成功した団体が創価学会なのだと私は見ているのだが、そのこじ付けについて、日蓮正宗教学はあまりに強い裏付けを与えてしまった。
「700年の法灯」というブランドは、同じ日蓮系でも霊友会や立正佼成会にはないものであり、創価学会の正当化と規模拡大に大きな役割を果たしたのだ。

日蓮正宗は権威と教義を提供し、創価学会はカネとヒトを提供していた。
つまり、この両者は相互依存関係にあったと見ている。
そのため、私は敢えて「日蓮正宗創価学会」と呼んでいる。

そもそも、創価学会もかつては日蓮正宗創価学会を自称していたので、割と適切な呼び方であろうと思う。
しかしながら、「日蓮正宗創価学会」という一枚岩の組織ではなかった。
その一端が、御開扉で聞いた「あそこは学会じゃないから…」という発言に表れていたのだろう。
日蓮正宗関連団体の間には、様々な微妙な利害関係があったということだ。

そんな中、ついに…ついに衝撃の事件が少年若本を襲う…!
次回 チンゲン革命 第6話「祈りとして叶わざるなし」
お楽しみに!

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