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龍女は女体のまま成仏したのか? 第2章

前回のあらすじ

前回は、法華経の提婆達多品における龍女成仏を話題にした。
「日蓮大聖人の主張では、龍女が女性の身のままで成仏したことになっている。しかし、法華経の文面に従えば、それは成り立たない」
と結論した。

この記事は、それなりに反響をいただくことができた。サンキューソーマッチ。
やはり、反響の中でも多いのは「いや、若本の言っていることはおかしい、狂っている、どうかしている!それでも龍女は女身のまま成仏したはずだ」といったご意見である。

そう思いたい気持ちは分かる。痛いほど分かる。
このご時世で「法華経は女性を差別してまーす」だなんて言えやしない。
分かりすぎるほど分かる。
私だって、個人の思いで言えば「女性が女性のまま成仏してほしい」と願う。
しかし、私が何を願おうとも、経文は「そうではない」と言っているのだ。それが事実である。

論点

ここで、論点を明確にするために私の主張を列挙しておこう。

  1. 龍女は転生せず現世で成仏した(現身成仏)

  2. 龍女の成仏プロセスが一瞬で完了した(速疾成仏)

  3. 龍女は男性に変身することなく、女性の身体のまま成仏した(女体成仏)

1.と2.は、いずれも「女体のまま成仏した」派と同じ主張である。
そのように法華経に書いてある。
したがって、これらを論じても特に意味はないと考える。

そんなことよりも、問題なのが3.である。
私は女体成仏と名付けたが、これは法華経の提婆達多品に書かれていないのだ。
法華経と言っているのは、日本で最もポピュラーな妙法蓮華経に加えて、漢訳の正法華経とサンスクリット文を指す。

それらのいずれを読んでも、「女性のまま成仏した」などとは書かれていない。
それどころか、提婆達多品には、【成仏した龍女が三十二相(男根を含む)を備えている】との旨が書かれている。
これを覆すだけの記述が法華経にはなく、「女体のまま成仏した」と読むべき妥当性がどこにも見つからない。

【法華経における龍女成仏は、仏教の通例に漏れず、男体化を前提としている】ということである。

法華経による確認

前回も引用したが、法華経の当該箇所にはこうある。

女の言わく、
「汝が神力を以って、我が成仏を観よ。復、此れよりも速かならん。」
当時の衆会、皆龍女の、忽然の間に変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相、八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る。

【現代語訳】
龍女が言った
「あなたの神通力で、私が成仏する様子を見てください。しかも、それはあなたの予想よりも速く行われるでしょう。」
その時、その場にいた集まりの人々は皆、龍女が突然の間に変わり、男性の姿となり、菩薩の行いを完全に備え、即座に南方の無垢の世界に向かい、宝の蓮華の上に座って、完全な悟りを成し遂げるのを見たのだ。彼女は三十二相と八十種好の特徴を備え、十方のすべての衆生のために、妙法を広く説き始めた。

妙法蓮華経 提婆達多品第十二

成仏した龍女は、男根を含む三十二相を備えていた。そのことは明らかである。
それを覆す経文が提婆達多品にないことを、前回の記事で示した。

残された道

「龍女の成仏は男体化が必須」
これは法華経の提婆達多品をいくら読んでも覆らない。
提婆達多品における龍女成仏は、男体化必須である。そのことを示せたので、私としてはそれで満足である。

他方、「そうはイカンザキ」という方々もおられる。
何とかして「龍女が女性のまま成仏した」と主張したいのだろう。
だとすれば、気持ちは理解する。

その人たちに残された、おそらく唯一の道がある。
『菩薩処胎経』による論証である。

彼らは次のような主張を試みる。
「『菩薩処胎経』という経典によれば、女体のまま成仏できる。そのように、天台大師も妙楽大師も言っているのだ。」
と。

法華経/提婆達多品の話をしているのに、別の経典を持ち出す。
ここのピザは不味い、という話をしているのに「いや、サイゼリヤのドリアは美味いよ」と言っているような感じだ。
そんなカテゴリ違いの話をされても困ってしまう…というのが正直なところではある。

とは言え、彼らがカテゴリ違いの『菩薩処胎経』を持ち出すのには理由がある。
そこに耳を傾ける意義はあるかも知れない。

その主張をもう少し細かく見ると、
「天台大師の『法華文句』や妙楽大師の『法華文句記』は、『菩薩処胎経』を引いて、女体成仏できる旨を説いている。日蓮大聖人はそれを踏襲しているに過ぎない。」
と言いたいようだ。

天台教学における龍女成仏』のような論文を読んだのだろうか。
彼らが依拠するのは天台大師智顗、妙楽大師湛然と、『菩薩処胎経』の説である。
まず、智顗や湛然はどのような主張をしているのか?
一緒に見てみよう。

智顗や湛然の主張

問題の個所は以下である。

第七龍女現成明證復二。一者獻珠表得圓解。圓珠表其修得圓因。奉佛是將因剋果。佛受疾者獲果速也。此即一念坐道場。成佛不虚也。二正示因圓果滿。胎經云。魔梵釋女皆不捨身不受身。悉於現身得成佛故。偈言。法性如大海。不説有是非。凡夫賢聖人。平等無高下。唯在心垢滅。取證如反掌。

【現代語私訳】
第七 龍女現成の明証にも、二つある。
一つは、珠を献上することにより、円満な悟りを得たことを表す。円珠は、修行によって円満な因を得たことを表している。仏に珠を奉げることで、因を果に至らせたことを示している。仏が迅速に珠を受け取ったのは、速やかに果(成仏)を得たことを表している。これはつまり、道場における一念によって成仏することが嘘ではないことを表している。
二つ目には、因果がともに正しく充足されることを示している。『菩薩処胎経』にいう。【魔・梵天・帝釈天・女性は皆、身を捨てることなく、新しい身を受けることなく、ことごとく現世において成仏することができる。】と。偈にいう、【法性は大海のようであり、是非の区別があるとは説かない。凡夫も賢者も聖人も、平等であり上下の差はない。ただ心の垢が滅びることのみがある。悟りを証することは手のひらを返すほど容易である。】

智顗『法華文句』

云龍女作佛者問「爲不捨分段即成佛耶。若不即身成佛此龍女成佛。及胎經偈云何通耶。」
答「今龍女文從權而説。以證圓經成佛速疾。…

【現代語私訳】
龍女が成仏について問う。「分段を捨てずしてそのまま成仏するのか?もし即身成仏でないならば、龍女の成仏や『菩薩処胎経』の偈とどのように整合するのか?」
答える。「今、龍女の文は方便によって説かれている。これによって、円満な教えに基づいて成仏が速やかに成されることを証明している。…

湛然『法華文句記』

この個所によって「女性は女性のまま成仏するぞ!」と言いたいのだと思われる。
しかし、そこには大きな問題がある。

どうしても男根が生えてしまう問題

法華文句や法華文句記の主張に関する疑問

法華文句も法華文句記も、「即身成仏」や「成仏速疾」を主張している。
「転生せずに、素早く成仏する」ということだ。
これは先に示した論点のうち、1.と2.に該当する。
その点は私も同じ見解なので、議論する必要がない。すでに述べた通りだ。

問題は、3.の「女性の身体のまま成仏するのか?」という点である。
法華文句/法華文句記の該当箇所を読んでみても、そんなことは書かれていないのだ。
(私が見落としているだけかも知れない。書いてあるなら教えてほしいが、見当たらなかった…)

書かれていないものを根拠にすることはできない。
これが第一の問題だ。

『菩薩処胎経』の記述に関する疑問

百歩譲って、法華文句や法華文句記に女体成仏が書かれていたとしよう。
しかし、それでも女体成仏は成り立たない。
それらの根拠となる経文、つまり『菩薩処胎経』に、そんなことが書かれていないからだ。
【智顗や湛然が必死に主張したところで、そもそも肝心の経文に無い】という問題である。

これはつまり、【経文解釈において、何者かが女体成仏を捏造をした】ということである。
これが第二の疑問であり、より深刻な問題であり、当記事のメインディッシュである。

智顗も湛然も、上記の通りで「女体のまま成仏する」とまでは言っていない。
彼らが主張しているのは、あくまでも現世成仏やスピード成仏だけだ。
よって、女体成仏説は【湛然以後から日蓮大聖人までの誰かによるもの】と考えられる。

法華経にも菩薩処胎経にも書かれていないものを書いてあると言う。
それは、何者かによる捏造解釈である。

これが結論だが、誠実な読者の中にはこう考える人がいるだろう。
「え?本当に『菩薩処胎経』に女体成仏が説かれてないの?若本は嘘くさいから、確認したいよー!」と。

だったら自分で確認すればいいじゃn安心してほしい。
そんな貴方のために、私は『菩薩処胎経』について、当該部分のダイジェストを現代語訳した。
ここだけの話だが、私は優しいのだ。

当該部分は旧字で「菩薩從兜術天降神母胎說廣普經」の「諸佛行齊無差別品第十三」という章である。
長くて読みにくいので「菩薩処胎経 諸仏行斉無差別品」と呼ぶ。

元の漢文はここを参照。

『菩薩処胎経 諸仏行斉無差別品』ダイジェスト

爾時,世尊即復示現奇特像,變一切菩薩盡作佛身,光相具足,皆共異口同音說法,分別無常生生歸盡,其德難量互相敬奉,威儀禮節雖說妙法,無有揖讓屈伸低仰,各坐七寶極妙高座羅縠帳幔。

【現代日本語】
 
その時、世尊は再び奇跡的な姿を示し、一切の菩薩をすべて仏の姿に変化させ、(その仏たちには)光相が完全に備わった。彼らは皆、異口同音に法を説き、無常・生・滅尽を分別した。その徳は計り知れず、互いに敬い合った。

菩薩処胎経 諸仏行斉無差別品

このように、【現場の菩薩たちが一挙に成仏する】という、とんでもなくダイナミックな幕開けをするのがこの章である。

初一說法度于無數純男無女,第二說法純女無男,第三說法純度正見人,第四說法純度邪見人,第五說法男女正等,第六說法邪正亦等。

【現代日本語】
最初の説法では、無数の純粋な男性だけが度された。第二の説法では、純粋な女性だけが度された。第三の説法では、純粋に正しい見解を持つ人々が度された。第四の説法では、純粋に誤った見解を持つ人々が度された。第五の説法では、男女が平等に度され、第六の説法では、正しい見解と誤った見解を持つ者が平等に度された。

菩薩処胎経 諸仏行斉無差別品

こうして、正しい見解を持つ者も、誤った見解を持つ者も、男女を問わず等しく悟りの境地に導かれたわけだ。素敵。めでたしめでし。
ここまでで分かる通り、この章は【男女における平等な成仏】がテーマの一つとなっている。

その後、仏となった者たちは次のように喜ぶ。

漢文: 爾時諸佛異口同音,說偈頌曰:「我等本所願,今者已果成;金體柔軟響,眾相悉具足。」

【現代日本語訳
その時、諸仏は異口同音に次のように偈を説いた。「我らの元の願いは、今や成就した。金色の身体は柔軟であり、すべての相が完全に備わっている。」

菩薩処胎経 諸仏行斉無差別品

ここで「眾相悉具足(すべての相が完全に備わっている)」という言葉が出てくるのだが、これが重要だ。

直前に金色の身体とあるが、これは仏身の三十二相の一つ「金色相」に合致している。
全身が金ピカに光っているわけだ。スター・ウォーズのC-3POもビックリでありまs

この金色相と並べる形で「眾相悉具足(すべての相が完全に備わっている)」と言っている。
つまり、ここで言う「眾相(すべての相)」は、三十二相のことを示すわけだ。
「眾相」を他の何かとして解釈すべき文言はない。

三十二相ということは、金色相以外の三十一要素を備えていることであり、馬陰蔵相を備えているということだ。
馬陰蔵相を備えるということは、男根を体内に収納しているということである。

故に、菩薩処胎経の当該偈文においては以下のことが言えるわけだ。
・転生せずに成仏した=クリア
・女体を捨てずに成仏した=クリアならず

結論

結局のところ、仏身になるということは三十二相を備えるということだ。
この点で、法華経も菩薩処胎経も同じことを言っているに過ぎない。

何度でも書くが、三十二相を備えるということは男根を装備するということだ。
何をどうしても、成仏の際には男根が生えてきてしまうのだ。
男根があるのだから、それは男性だ。

仏典成立時にジェンダー論などは無かったと考えるので、「身体の特徴で性別を決めるな」と言われても困る。
それは、本件とは別の話だ。

法華経でも菩薩処胎経でも、仏身は三十二相を備えている。
そもそも、それが仏身というものなのだから当然の話である。

女体のまま成仏するというのは、民主主義的かつジェンダーフリー的な現代の感覚からすれば一種の理想なのだろう。
しかし、素直に教典を読む限り、残念ながらそれは夢物語や妄想の類に過ぎない。

以上、法華経のみならず胎経においても成仏の前提に男体化があることを確認した。

結論の結論

長い。疲れた。頑張った。ここまで読む人いるのかな。


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