チンゲン革命(9)
前回までの記事をまとめよう。
小学生低学年の私から見た世界は次のようなものだった。
・宗教的権威としての最上級は、総本山の法主(当時は阿部日顕氏)
・世俗的に偉大なのは池田大作氏だが、法主の方が宗教的に偉い
・その法主に認められているのだから、池田先生は凄い
つまり、【在家の創価よりも出家の日蓮正宗の方が偉い】という序列意識である。
このことは、前回の記事で小学生文化新聞を引用した通りであり、当時の創価学会は宗門を立てる形で報道していたわけだ。
そんな関係性が何十年も続いていたが、1990年頃に日蓮正宗と創価学会は離縁してしまった。
それが私にとっていかに苦しく悲しいことだったのかは、第6話に書いた通りだ。
その後、聖教新聞や創価新報といった大人向けの機関紙では、苛烈な反宗門キャンペーンが展開された。
昨日までツルんでいた相手への悪口。これがまあ酷いこと酷いこと。
いつか特集したいが、ここでは小学生文化新聞でどのように報じられたかを確認してみよう。
1992年「創価教育同窓の集い」というイベントにおける池田氏のスピーチである。
ハッキリと宗門を名指ししてはいない。
しかし、「狂信者」なるものが宗門を指すことは、当時の小学生でも理解できたはずだ。
この記事では、南米の独立に関する注釈という形で次の解説も書かれている。
「狂信的な権威(宗門)からの独立」を、小学生に意識させる意図があったのだろうか。
その4か月後の「第五回未来部総会」において、池田氏はスターリンの独裁をぶりを取り上げた。
その流れで、次のように言葉を続けている。
この頃には、宗門との対立を隠さなくなっている。
創価を民衆側に、宗門を権力側に見立てて民主主義的な文脈を用い、「独裁者を打倒せよ!」とばかりに対立を煽ったわけだ。
要するに、「僕たちは宗門にいじめられています」というストーリーなのだが、日本最大最強の集団が何を言っているのか?という話である。
そう考えるのが普通なのだろうが、創価学会員は本当にいじめられたと認識し、宗門への憎悪を増幅させたのだった。
ちなみに、このスピーチには【その後の創価学会の呪詛的な悪口を正当化するような内容】も含まれており、なかなか興味深い。
いつか、どこかでまとめようと思う。
この頃に何度も耳にしたフレーズが「学会は宗門からのいじめに耐え抜いてきた」というものだ。
宗門=寺院なんて、たまにしか行かない。寺院に行かないのだから、良くも悪くも寺院の住職との絡みもなかった。
「絡みがないのに、何をそんなに耐える要素があったのか?」というのが私の実感だった。
この辺りは、地域や家庭によって寺院との距離感がそれぞれあるのだと思う。
私の家は、月に一度くらいだろうか、寺院の勤行に参加する程度だった。
とにもかくにも、離縁をきっかけとした一連の創価の対応によって、大人のゴタゴタや汚い面をイヤというほど見せつけられた。
つい最近まで頭を下げる対象だったのに、離縁した途端に容赦なく中傷する。
昨日までの常識がひっくり返ったわけだ。
そこに、私たち末端会員の意志はどこにもない。
私が地域の少年合唱団に入団したのは、その頃だった。
創価学会はとにかく音楽やら歌やらが好きなのだが、その表現形態の一つが少年合唱団である。
この合唱団は、地域の小学生組織である「少年部/少女部」からの選抜メンバーで構成されていた。
親に勧められての参加だが、私自身も入団できて嬉しかった記憶がある。
「創価学会的な意味での立身出世ストーリー」に乗っかれたような気持ちになったからだ。
第1話の通り、母の「広宣流布のお役に立たせる」との祈りの結果として生まれているのが私だ。
世間的な出世だけでなく、創価的な出世が大事なのだ。
宗門との分裂を回避するための祈りは叶わなかったが、信仰を捨ててはいなかった。
「広宣流布のお役に立ちたい」との思いは絶やさずに持ち続けていたので、私は自発的な意志によって合唱団の面接を受け、晴れて入団することができた。
希望に溢れるようにと、池田氏が名付けてくれた合唱団だ。
ところが、その合唱団に入ってからしばらくして、私は団員からのいじめに遭った。
大したいじめではないとは言え、合唱団の活動に行くのが辛くなり、次第に合唱団への足が遠のく。
それを知った男子部担当者が激励のために家まで来てくれた。
創価らしいフットワークの軽さは良いことだが、私が合唱団に戻ることはなかった。
友人の誘いで少年野球のチームに入部したため、合唱団が活動日と重なるようになったのだ。
せっかく始めた野球だが、私は球技が壊滅的に下手くそで、万年補欠だった。
後から入ってきた年下の子たちは、私を追い抜いてどんどんレギュラーになっていく。
1人だけ体の大きな6年生が、2軍の低学年の子たちと練習している。
わずかな恥ずかしさはあったのだが、卒業まで野球をやめることは無かった。
よく考えたら、それほど野球が好きなわけでもない。
それなのに、なぜ苦手な少年野球を続けたのか?
一つは、低学年の子たちの面倒を見るのが好きだったからだ。
野球の技術については何も役に立たない私だが、野球以外のことに関しては頼れる兄貴分だったらしい。
慕われ、必要とされていることを自覚していた。
しかし、それは二次的な理由に過ぎない。
【野球をして土日が潰れれば、合唱団に行かなくて済む】
それが真の理由だ。
このようにして、創価的な出世チャンスはその出鼻の時点でくじかれたわけだ。
今として思えばラッキーだったのだが、これは初めての挫折になった。
頭の表層では「創価学会は素晴らしい」と考えるように努めていたのだが、おそらくこの頃には深層意識では創価への熱が冷めていたと思う。
分裂回避の祈りは叶わないし、創価内でいじめられもする。そりゃ、普通は冷めるだろう。
成人する頃には、いじめによる苦しみのようなものは消え去っていたが、池田氏の次のような主張には、今も強烈な違和感を覚える。
私が高校生の頃に連載された対話集「青春対話」からの引用である。
私からすれば、こんなのはただの嘘っぱちである。
【池田氏が名付けた合唱団ではいじめられたが、外部の習い事ではいじめられなかった】
これが、私が経験したところの紛れもない事実なのだ。
だから、「創価学会は清らかだ」などと言われても何の説得力も持たなかった。
その後に読んだ「ブッダのことば(スッタニパータ)」は、私に強烈なヒントを与えてくれた。
「自分が清らかだなどとは決して言うまい」
私はそう心に決めた。
さて、読者はお気づきだろうか。
ここまでの話で、小学生から高校生に話が飛んでいるのだ。
なぜかと言うと、私は中学3年間でただの一度も活動に参加していないからだ。
合唱団でいじめられたことを踏まえて親が配慮したのだろうか?
担当者のやる気がなかったのだろうか?
あるいは、部活動やら委員会やらで忙しくしていたからかも知れない。
原因は分からないのだが、とにかく中等部の会合に参加した記憶がないのだ。
とは言え、勤行唱題はそれなりにやっていたし、聖教新聞もそれなりに読んでいた。
信仰はしているし、創価的な情報取得もできている。
それなのに、創価の組織活動だけが欠けている。
何とも不思議な状態だったのだが、この期間は私が創価と距離を置くためにとても役に立った。
次回は、私にとっては「創価の空白期間」とも言える中学時代の話だ。ビバ思春期!
たぶん、次回の方があるあるネタな気がするよ。アディオス!