ウクライナ平和の鐘 079 自業自得の論理
■2022(令和4)年6月13日 079 自業自得の論理
(動画の2:59~6:55)
本日の「平和の鐘 鳴鐘の輪」。自業自得の考え方は、「未来のために今」「自分自身が」悪業を離れ善業を積むためのもの。決して他人を貶めるために用いてはなりません。
合掌
「自業自得」という言葉があります。自らの行いや言葉、心に思った事などの業の報いは自分自身が引き受けることになる。悪いことをすれば自分の苦しみになって帰ってくる、良いことをすれば自分の安らぎにつながる。そういうことです。
しかし世の中には、この自業自得という言葉を間違って使う人たちがいます。例えば事故に遭って痛みで苦しんでいる人に向かって「お前は悪いことをしたからそんな目に遭ったんだ!」というように。お釈迦さまの教えは、そんなことを言っているのではありません。
この間違いの原因は、自業が自得に結びつく流れをどの時点で捉えるかにあります。これは必ず「今」「私」が積んだ業が「未来」に「私」に帰ってくるという、現在から未来に向けた因果を捉える視点です。実際に私たちにどのようなことが起きるのか、どのような経験をするのか、それが全て自分の業というわけではありません。さまざまな因縁(原因と条件)が絡み合うのが、この世界の姿です。その中で、仮に自分がつらく苦しい状況にあっても、それが全て過去の自分の罪障が原因だと決められるものではありません。
もしそんなことを言えるのであれば、ウクライナにロシアが攻め込んで大勢の人を殺している状況を指して「これはウクライナの自業自得だ、ロシアは悪くない」という論理が成立してしまいます。でも、そうではありません。「a ならば b」 ということが正しくても「b ならばa」が同じように正しいとは限りません例えば「マイケルジャクソンは人間です」という命題は正しいですね。これをひっくり返して「人間はマイケルジャクソンです」と言ったら、それが正しくないことは誰でも分かります。同じことなのです。
私たちがこれから積む自分の業の報いは、未来に自分自身の苦しみや安らぎとして帰ってくる。この因縁果報の考え方は、自分自身を正す指針として大切なものですが、他人の言動を諫めるために用いる際は慎重な態度が必要です。迂闊に用いたならば、自分の気に入らない誰かを否定し貶める便利な悪口に堕してしまいます。苦しんでいる人たちに向かって「お前が悪いからそんな目にあってるんだ」などと嗤う心性は、それ自体が悪業につながるのです。苦しんでいる人が必要としているのは、救いの手です。それを差し伸べることが善業です。
思考は常に未来へ。私たちは、自分、家族、地域社会そして国際社会の安らぎと平和のために、現在から未来へ向かって善業を積んでいかなければならないのです。
再拝