アマチュア最強位決定戦を戦って
先に謝っておきます。
我ながら、ま~長ったらしい文章です。
ああ、たつの野郎、負け散らかして頭の中ぐっちゃぐちゃなんだろ?
まぁ、その通りなので。よろしければご笑覧ください。
麻雀最強戦のアマチュア最強位決定戦が終わって早数週間。
私にとっては、本当に手痛い敗戦で、しばらく対局の模様はまともに見られませんでした。
実際のところ、今でもまだ内容の是非については振り返ることが出来なくて、ただただ見慣れた夢の舞台に何故か私がいて、あまり他人に見せないまじめな顔で牌と向き合う姿を不思議に眺めているのが精一杯です。
きちんとした打ち手なら。
自分の麻雀に自信と誇りをもってあの舞台にたどり着いた打ち手ならば。
自らの一挙手一投足に対して語ることもできるのでしょうが。
喜多本部長がおっしゃる通り、最後の最後で戦うことを拒否し、都合の良い言い訳を見つけて身をそらした者に、何をか語ることは許されません。
負けは負け。相手に負け、自分に負けました。
腕がない私のような打ち手が、気持ちを切ってしまったのでは勝負になりません。
喜多本部長は、北海道最強位決定戦の対局中、私の心情を的確に評してくれました。
その中で、
「千嶋は勝ち慣れていない」
ことがウイークポイントになるかもしれないという旨をおっしゃっていました。
私は18の頃から札幌の競技麻雀の世界に飛び込みましたが、歴だけは長いものの、この年まで何かを成したプレイヤーではありません。本部長がおっしゃる通り、これほど大きな大会を勝ち上がるという経験はほぼ初めてでした。
20年ほど前に、同じ麻雀最強戦の読者大会でベスト16まで勝ち上がりました。
しかし、その時は見ていただいていた福地誠さんの評のとおり、「普段やらないことをやって負けた」ので、今回はそれだけはやるまいと心に決めて卓につきました。
20年前の経験が今に生きるというのも不思議な話ですが、心に決めたことだけはやらずに済んだのですが、勝ち方を知らないというウイークポイントがそのまま出て、天から垂れてきた数々の蜘蛛の糸に気が付かずに、私は死地に塗れました。
流れだとか精神論だとか、そういうことについて麻雀を通じて語るということは、令和の世の中では鼻で笑われる事なのかも知れませんが、残念ながら私はそういったものが麻雀において厳然と目の前に横たわっているという宗教の中で生きてきたので、ここから先は宗教感の違う方は笑い飛ばしていただいて結構です。相容れないことって、どんなことにでもあると思うので。
私にとって、麻雀は「鏡」だと思っています。
麻雀は、どんな時も正直なもので、どんなに本人が取り繕おうとしても、人間の弱さだとか、醜い部分をより鮮やかなコントラストをもって表現してくれると私は考えています。
小手先でごまかそうとすれば、それが麻雀に現れる。
麻雀がしっかりと応えてくれるのは、自分がしっかりと麻雀に向き合う健全な精神状態でいられる時で、尚且つ多少の傷を負っても戦うんだという、まさに「一念岩をも通す」ような志をしっかり持っていないと、麻雀の神様は思いに応えてはくれません。
と、私は考えていました。
そういう点では、集中しきれていなかったこと、ある出来事をきっかけにふっと力が抜けてしまったことなど、技術以前に勝手に私が負けていたことがたくさんあったんだと思います。
とにかく配牌が悪かったことについては、きっと神様が「お前の腕と心を見せてみろ」と、私に試練を与えていたんだと思います。正直なところ、わずかな希望と期待をもって配牌を取るたびに、絶望に打ちひしがれていました。
例えるならば。
ロングディスタンスのリーグ戦は、麻雀に対する理解度や技術が試される場だと思います。
だから、技術や麻雀に対する理解度が強い人、エラーが少ない人が上位に行きやすいのだと思います。
(もっとも、最後の一太刀は切れ味の鋭さが求められるのですが)
だけど、麻雀最強戦は「心」が試される場。
ある人に言わせたら、「北海道から東京に行って半荘1回勝負って、一発勝負じゃん」と言われましたが、さにあらず。
私も、せめて半荘5回打たせてもらえたら…と、いつだか思ったことがありましたが、あの舞台に立ってみて改めて思うのは、半荘1回、一発勝負で十分だということ。
私のような弱い人間は、その半荘1回ですら勝ち上がれないではありませんか。一発勝負に見せながら、その実、内容とハートを試される、非常にシビアで、身を焦がすような熱があって、敗者を数々生み出す儚さや厳しさがある、完璧に作りこまれた舞台だと私は思います。
私は、それを経験できて幸せでした。
今は、ただただ、その幸せだけがせめてもの温かさとなって心に残っています。
あと、どこかの誰かがSNSかなにかで書いてましたけど。
所作が全然ダメでしたね。
現場での力加減と、画面を通して映る指先の動きが全く違って映るということがよくわかりました。牌を傷つけるほどの力で扱ってはいなかったはずなのですが、見える人にはそう見えるようで、それはそれで反省すべきこと。
まぁ、その辺も負けた原因なのかもしれません。
すべてにおいて未熟だったと。それを受け入れる素直さが足りないかもしれません。
反省します。
ここからは、42歳のおっさんが、何を気持ち悪いことを…
と、思われるかもしれませんが。
これまで、私は麻雀を「鏡」だと考えてました。
だから、鏡に映る自分もしっかりしなくちゃいけないし、鏡である麻雀を大切に磨いていくことも大事で、その両方をおろそかにしないように。
ただひたすらに、麻雀に『敬意』を抱いたつもりでここまで歩いてきました。
これが、最強戦を経験する前の自分です。
最強戦が終わってから東京に滞在している間、最強戦ルールの聖地であるオクタゴンにお邪魔したほか、何軒かの雀荘を訪ねてみたのですが、最強戦を経験する前と経験した後の麻雀は全く違うものになっていました。
いや、私の麻雀が変わった、ということではなくて。
私が麻雀に対して感じる何かが変わった、とでも言えばいいのでしょうか。
今までは、自らの姿がどういうものなのかと、恐る恐る「鏡」を覗いていました。
そのほとんどが、理想の自分ではなくて、覗く度に失望することが多かったのです。
でも。なんていえばいいのでしょうか…。
牌が手元にやってきては河に放たれる姿を見ていて気が付いたというか。
この二十年以上、私は麻雀に「恋」をしていたのかもしれないな、と。
恋って、振り返れば良いものだなって美化されますけれど。
その渦中にいる時には、ある意味とても苦しいものじゃないですか。
相手の思いがわからなくて悲しかったり。
思いが届かないことがもどかしくなったり。
言葉にできて、相手に伝えることが出来たのなら、その結末はともかく自分の思いは大気に昇華されていくから、幸せなことなんですよ。たとえ、失恋してもそこで区切りをつけて前を向くことが出来ますから。
でも、大抵の恋は、そっと心にしまう片思いのように、タイミングが合わなくて伝えられないまま消えていく。
麻雀に似ていると思いませんか?
思いが届いて和了ることが出来ることって、本当に少ない。
大体、和了に届かなくて、日の目を見ることなく伏せられて消えていく。
和了に届いても、実は自分が思い描いていた最終型ではなく、妥協や恐れから手の伸びを止めてしまったものだとか。
思い通りに気持ちのまま謳歌できる時間って、年に何局あるでしょうか。
でも、その年に何局あるかどうかの和了のために。
もっと言えば、卓上で起こる様々なことを経験して、やがて来るその時のために自分を高めていく、とでも言いましょうか。
敗戦の後の抜け殻のような体で、それでも必死に答えが見えないかと思って、卓にへばりついてみてたどり着いたのが、結局そんなことでした。
私が信頼するある友人が、ずっと昔に私にこんなことを言ってくれました。
「お前は高校を卒業してすぐに就職して、大人の世界で背伸びしながら必死に駆け抜けていただろ? 俺には、その姿が『死に急いでいる』ように見える。もう少し若い時に人並みに恋愛して、いろんな失敗をして、痛い思いもして…多分、お前は大事な青春の10年くらいをどこかにおいて駆け抜けてきたんだと思う。まぁ、そうせざるを得ない事情は分かるから仕方がないんだけどな。」
その、どこかに置いてきた10年の大きな空洞を、麻雀で必死に埋めようとしていたのかもしれない。誰かに恋もしてきたけれど、リアルな恋と同じくらいに麻雀に恋をしてきたのかもしれない。
あぁ、麻雀って、こんなにかけがえのないもので、愛しいものなんだ。
心を狂わせるほどに甘くて、苦くて、儚いもの。
少なくとも私にとってはそういう存在なんだろうなと。
だから、この夏は、久々に大きな思いで恋をしてきたような気がします。
いい年こいたおっさんが気持ち悪いついでに。
言わずと知れた日本を代表するアイドルグループの乃木坂46。
表題曲ではないんですが。
「ひと夏の長さより…」
という楽曲があります。
作詞はもちろん、言わずと知れた大天才作詞家の秋元康先生。
多分もう還暦くらいの年齢かと存じますが、なんでこんなに青くて透明な世界を描くことが出来るのか。
天才といわれる所以が、この楽曲に詰まっています。
ひと夏の長さより思い出が多すぎて
君のことを忘れようとしても切り替えられない
何度も着たTシャツは首のあたり伸びているけど
腕に強く抱いた君のことは忘れられない
この夏は特別だ 僕にとって君がある
今までとは比べられないほど 大切な時間
愛し合ったこの日々は 種の多いスイカみたいだった
そう思い通りに行かないのが人生なのか
(乃木坂46 ひと夏の長さより… より引用)
今年の夏は、まさにこんな気持ちだったのかもしれません。
繰り返しになりますが、まぁ42歳のおっさんが乃木坂にハマるのも気持ち悪ければ、青臭い「恋」という言葉を何回も繰り返しているのも気持ち悪い。
あー、気持ち悪い、のですが。
せめてこの楽曲の良さだけでも伝われば。
ん?話が違ってしまったなぁ。
閑話休題。
東京を離れる日。
最強戦ガールをお務めになられた咲良美緒プロがゲストでいらっしゃるお店にお邪魔しました。
夏というにはもう寒くなってしまったけれど、この数日、東京で出会った人たちのことを思い返しながら麻雀をしました。
一緒に戦った各地方最強位の皆さんのこと。
大会を支えていただいている金本委員長をはじめ、たくさんのスタッフの皆さんのこと。
東京で必死に生きている教え子たちのこと。
教え子がお世話になっている焼き肉屋の気のいいご主人のこと。
神田明神で会った七五三の男の子とお母さん。
仕事とはいえ、私のことを気にしてくれた神田にゃおの松岡プロ。
出会った人たちがなんとも温かくて。
東京って。
都会すぎて、人の情や優しさが無くなってしまったと、田舎者の私は思っていました。
現に、仕事で昨年まで来ていた東京は、無機質なビルの明かりや、味のしない食事や、上っ面だけの人間関係のように、砂を噛むような不味い思いだけをしていましたから。
だけど、東京って。
麻雀というフィルターを通して眺めたら、とっても温かくて、愛おしくて。
麻雀に何年も恋をしてきて良かったと、心から感じることが出来ました。
東京から離れる前に、もう東京が恋しくて。
いや、東京にいる人たちが愛おしくて。
来年以降、また最強戦で訪れることが出来るかどうか。
そんな大それたことを私ができるとは全く思っていません。
でも、必ず近いうちに、みんなに会いたいなと。
ありがたいことに、来年は激戦の店舗予選をパスして北海道最強位決定戦からシードされるそうですが、チャンスがあるとすれば来年が最後…これからも最強戦にはチャレンジするつもりですが、店舗予選を勝つことだって、私にとっては奇跡のような出来事なのです。だから、こんなチャンスは、もう本当に一生に一度、あるのかないのか…。そのくらいのありがたいこと。
そう思って、まずは来年までこの「北海道最強位」というタイトルをしっかり磨いていこうと思います。
また、これまでの私が抱いていた麻雀に対する美学を捨てて、麻雀とは何か、追い求めるべきものとは何なのか、1年かけて探していこうと思います。
すべてを捨てて、今までのモノを壊して作り上げていくことは、本当に勇気がいることで、これまでの自分の生き方すら否定することになりかねません。
でも、そのくらいやらなきゃ勝てない。
麻雀が下手なことはもうどうにもならない。基礎的な部分は大切にしながらも、だけど私に技術的な伸びしろなんてあるなんて思わないほうがいい。
それよりも。
最強戦は「心」が試される場所。
せめて、まっとうに「勝負しに来ました!」と言えるだけのハートを手に入れたい。
今はそんなことを考えています。
きっと、厳しい旅になると思います。
とても、麻雀に恋ができるような気持ちになれないかもしれない。
でも、この北海道最強位というタイトルを大切に思っている人たちがいて、私もそのうちの一人で。
縁があって私が預からせてもらえることになったんだから、せめてこのタイトルがより高みにあらんことを願って。
出来ることをしっかりやって、来年に備えたいと思います。
繰り返しになりますが、決して勝てるとは思っていません。
そして、勝てたらいいな、なんて甘いことは考えていません。
勝つために何ができるのか。何をすべきなのか。
勝つために、どんなことを考えたらいいのか。
そして、己に克つために。それだけを誠心誠意考えて麻雀に触れたいと考えています。
多分、それが出来たなら、負けるにしてもしっかりとした負け方が出来るのだと思います。
葉隠にある、『武士道と云ふは死ぬことと見つけたり』と、ここまでにたどり着けるわけもないのですが、しっかりとした負け方が出来なければ、勝つことなんてできるわけもないのですから。
1年頑張って、来年の最強位決定戦では、その1年の私の姿が、努力がどうだったのか、その結果を確かめに行こうと思います。
あ、そうそう。これも話が途中でした。
東京から離れる日に、咲良プロに会いに行ったんですよ。
一緒に3回くらい打たせてもらえて。
結果はともかく、気持ちの良い麻雀を打ってくださって、うれしかったです。
それで、そこで気が付いたんですよね。私は麻雀に恋をしていたんだろうって。
でも、今振り返ると、もしかしたらそれは勘違いかも知れない。
俺はみっちゃんに恋をしたね(笑)
藤根プロも優しくてかわいかったんですけどね。
さすがはみっちゃん。おっさん殺しwww
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?