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7ソウは麻雀の神様

私の父は昔、自分の家に仕事の仲間や兄弟を呼んで家族麻雀をしていた。

週末の22時頃に集まり出して、狭い家の狭い茶の間から子供たちを追い出し、夜な夜な麻雀の興じていた。

私が小学1年生の頃。

「辰治も小学校に上がったし、ちょっとだけなら観ていてもいいぞ。」

父は私を左側に座らせた。

「いいか?どんな牌が来ても、何が起こっても顔に出しちゃダメだぞ。」

私は父の言われたとおり、努めて表情を変えないようにしていた。
すると、対面に座っている私の叔父が、

「兄貴、辰治の顔がかわいそうなことになってるから、もう少し優しくしてやれよ。」

という。
叔父曰く、私は表情を変えまいとして目を薄目にし、口を真一文字にしてひどい顔をしていたそうだ。

「お前は不器用で融通の効かないやつだな。じゃあ、楽にしていていいから。」

当時の父は、それはそれは怖かった。
土建屋の社長をしていたから、荒くれ者の若い衆に仕事をさせるために四六時中怒鳴り散らしていたし、私が何か悪さや粗相をすると、虫の居所が悪い日は必ず手が飛んできた。
だから、あの頃の私にとっては父は畏れの象徴みたいな人で、その人の言うことは絶対だった。

私が家族麻雀を眺めていたのには理由があった。
叔父たちが手ぶらじゃなんだからと、自分たちの夜食をそれぞれ買ってきていて、それが目当てだった。

「これ、姉さんも食べてよ。」

叔父が何気なく母に渡したカップラーメン。子どもの私にはこの上ないご馳走だった。

40年も前のこと。
カップラーメン自体はあったけれど、それは体に悪いというレッテルが貼られていたもの。
父は、そんな体に悪いものを子どもたちに食わせるな、と、母にキツく言い渡していた。
事実、母が私たちが好きだろうとご飯の中にバターを入れて、醤油をかけて出してくれたものを
「こんな粗末なものを子どもたちに食わせやがって」
と、家中をぐちゃぐちゃにして暴れたことのある人だったから、私は自分の家でインスタント食品を食べさせてもらったことがなかった。

「辰治、お前も食うか?」

叔父の言葉に父は一瞬だけ顔を上げたが、特に言葉はない。
母はそんな父の様子を確認してからパッケージを開け、お湯を入れて私の前に出してくれた。

夜更かしをして、普段食べられないカップラーメンを食べる。
なんだかものすごく悪いことをしているような気がしたものだったが、自分が少しだけ大人になったような錯覚を覚えて嬉しかった。

ある日。
父は朝方にこんなテンパイを入れた。

「ここにいるのはわかってるんだ!」

熱くなった父は、ツモ牌を確認するかどうかの速さで手元に牌を叩きつけた。
叩きつけられた牌は8ピン。

この手が四暗刻であることを知るのは先の話だが、とにかく父の右手に誘われて光り輝いていた8ピンの美しさに見惚れてしまい、この日から私は麻雀の虜になった。

父に認めて欲しくて、一生懸命に牌の積み方を覚えた。
子どもの小さな手では17枚を持ち上げるのは難しい。
何度も山をぐしゃっと崩してはうまくいかないと不貞腐れたが、
「一度にできなければ、半分ずつ積めばいいのよ。」
と母が慰めてくれたおかげで、何ヶ月かかかってようやく積むことができるようになった。

父はその話を母から聞いていたのかもしれない。

「おい、辰治。ちょっとトイレ行ってくるから積んどいてくれよ。」

と、父が自分の山を任せてくれた。

器用に牌を積んで見せると、叔父たちが驚いた。

「おい、練習したのか?上手だな。」

私は叔父たちに褒められると、顔を真っ赤にしてその場に俯くだけ。
私は元来、人見知りでシャイな人間なのだが、大人になってから知り合う人には全く理解されない。

父が戻ってくると、父は何も言わずに私を席からどかして麻雀を続けた。
褒めるでもなく、何も言わずに。
だから私は、いつか父に麻雀で褒めて欲しくて、次は…次は…といろんなことを覚えようとしていた。

そんなことで、僕は7歳の頃には麻雀のルールも覚えていたし、点数表も母が手伝ってくれたおかげで50符くらいまでの表を丸暗記していた。

小学3年生くらいのことだったと思う。
麻雀を始める前に、唐突に父が私に言った。

「いいか、辰治?7ソウは麻雀の神様だ。覚えておけ。」

なんで7ソウが麻雀の神様なのか。
父はその理由までは教えてくれなかった。
その頃の父は私にとって絶対的な人だったから、

「うん。わかった!」

私の返事はこれしかなかった。

意味はわからなかったが、その言葉だけが強烈に頭に残っていた。
時間が経って、私が高校生になって友人たちと麻雀に興じるようになってからも、7ソウの扱いだけはとても大切にしていた記憶がある。

18歳になって、私は土田浩翔プロと出会った。

当時の夢道場には土田先生との連絡ノートみたいなものがあって、私たち若手の打ち手は気がついたことや思ったこと、先生に伝えたいことをノートに書き込んでいた。
先生の時間のある時にノートに赤字で返事が書かれていて、私たちはそこに何が書いてあるのか読むのが道場での決まり事になっていた。

どうして7ソウが麻雀の神様なのか。
土田先生は、その謎に明快に答えてくれた。

「千嶋君。7ソウに限らず、3と7の牌はシュンツを作るのにとても大事な牌なんだ。お父さんは素晴らしいことを君に教えてくださったんだよ。」

尖張牌(センチャンパイ)。

土田先生が教えてくれたその言葉。
尊敬する先生から授かった知識も嬉しかったが、何より先生が私の父のことをも褒めてくださった気がして、とても嬉しかったのを覚えている。

私の父は今年、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込まれた。
父が入院した夜、母と弟の3人で、父に万が一のことがあったらと泣きながら話し合った時に、ある後悔が私の頭をよぎった。

「父と二人で写真を撮ったことがなかったな。」

と言うことと、

「父ともっと麻雀がしたかった。」

と言うことだ。

私が2020年に麻雀最強戦に出た時、父はものすごく喜んでくれた。
毎年北海道最強位決定戦が配信されていたのも全て見てくれて、楽しみにしてくれていた。
私が麻雀最強戦に思い入れが強いのも、ここに行けば、ここで勝てば父に私の麻雀を観てもらえると言う思いがあるから。

父は毎週通っているデイサービスで麻雀を楽しんでいるそう。
でも、
「ただアガったらよかったね、でそれだけ。点棒が動くわけでなし、成績が残るわけでなし。ただの暇つぶしだ。」
とそっけない。

「じゃあ、雀荘で打とうよ。」

と誘ってみるものの、体調に自信がないのか家から一歩たりとも動こうとしない。

だから、私はもっと父が元気なうちに一緒に打っておけばよかったと本当に後悔している。

一度、札幌の友人たちに小樽まで来てもらって、父を入れて打ったことがあった。
父は私の友人たちにコテンパンだったが、打っている時の父は格好良かった。
若い頃の、勝負にギラギラと燃えていた目をしていたから。


望月雅継プロのポストを観て、父のことを思い出した。
父にしてやれなかったこと。いや、父とできなかったことがこう言った活動でできたらいいなとは思うんだけど、プロでもない一個人の私にとってはできることって本当に少ない。

望月プロの活動って、本当に尊いものだなって思う。
だから、とても眩しく映る。

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