土田先生と、喜多さん。
夕暮れ時。
僕は近所に咲く桜を眺めていた。
桜木の向こうに、茜に染まる空。
ため息が出るような美しい景色のおかげで、仕事で疲れた体と心が少しだけ軽くなった気がする。
僕は、この季節の花を観ると、決まってあることを思い出すのだ。
土田先生の言葉
3年前。
世の中が新型コロナウイルスの脅威に直面し、得体のしれない病に対する恐怖から閉塞的になり始めた頃。
僕はとある病気で体調を崩し、この体調では職責に耐えられないからと仕事を辞めることなった。
師匠である土田浩翔プロに、そのことを報告した。
私からのメールを読んで、土田先生は返事をくれた。
「世の中は、新型コロナウイルスのために誰も安穏と暮らせなくなる。
世界が混とんとして、世界中で富める人と貧しい人たちの「並び直し」が始まる。
千嶋君の失意は痛いほどわかるけれど、このタイミングで、この若さで人生をやり直すことが出来るなら、まだ時間があるじゃないか。
あきらめるな。生きる場所はいくらだってあるよ。
とにかく、体を大切に。」
確か、こんなことを私に伝えてくれたと思う。
先生は、いつも夢物語のようなスケールの大きな話をする。
時折、何を言っているのかわからなくなることもあるのだけれど、僕ごときでは到底考えもつかないような切り口で語るそれは、不可能を可能にしてしまうような魅力が備わっており、大きな力を与えてくれる。
喜多さんの言葉
それから程なくして。
私はある日、治療の合間の気分転換に小樽から札幌へ遊びに来ていた。
行き先はもちろん、ハートランド。
フリー雀荘は、相手が知らない人だと麻雀だけに集中できる上、特に昔からここはマナーに厳しく、店内はいつも静か。
時折聞こえる声は大体が笑い声とスタッフさんの心地よいさわやかな声。
病と仕事と人に疲れた私にとっては、まさにうってつけの居場所だった。
昼頃だっただろうか。
お店に到着し、ビルのエレベーターを待っていると、中からオーナーの喜多さん(日本プロ麻雀連盟北海道本部の喜多清貴プロ)が降りてきた。
ここで説明しておきたいことがある。
土田浩翔プロが「土田先生」で喜多清貴プロが「喜多さん」というのは、別にどちらが上で下で、ということではないのであしからず。
「お、久しぶりだね。元気だったかい?」
喜多さんは昔から洞察力が鋭い。
これを読んでいる人たちに伝えておくが、隠し事をしようとしても必ず見抜かれる。
取り繕っても無駄。本当に鋭い。
だから、数年ぶりに会った私の顔つきや態度を観て、何かあったのだろうということはすぐに気が付いたのだと思う。
「ちょっといい?何かあったのかい?」
そう声をかけられて、私は近況を喜多さんに伝えた。
「それは大変だったね。体調は大丈夫なのか?」
「今は物事を深く考えようとしてはいけないよ。特に暗くなってから何かを考え出すと難しい方へ、悲しい方へ自分を追い込んでしまいがち。考え事をするなら朝起きてから、少なくとも明るいうちにした方が良い結果が得られやすい。気持ちも楽になるよ。」
「何かできることがあるかはわからないけれど、何かあったら必ず連絡するんだよ。」
仕事を辞める失意の中で、周りの人に対して猜疑心だけが深くなっていく自分と戦っていた僕に、喜多さんからのアドバイスは的確かつ慈愛に満ちたものだった。
この言葉のおかげで、どれだけ救われたかわからない。
ただ、思い返すとこの二十数年、こうやって喜多さんと二人で話をしたことってなかったと思う。
そのことを改めて喜多さんに伝えると、曰くそれには理由があったのだそうだ。
「いつかゆっくり話をしようと思っていたのだけれど、君は土田さんのとこの子だからね。中々チャンスがなかったんだと思うよ。」
喜多さんはそういう「筋」に対して思い入れが強い。
それが、数十年という長きに渡って時間をともにしている土田先生に対してもそうなのだから、自らを律する意志の強さはものすごく強い。
そして、さらに凄いところは、目の前にある現実にどう対処すべきか、その最善手を見極める手腕。
確かに、昔からそうだった。
夢を語る先生、現実を見極める喜多さん
僕が18の頃。
土田先生が札幌に夢道場を開いた。
25卓、100人をワンフロアで収容できる場所は、当時としてはとてもセンセーショナルなものだった。
土田先生はいつも大きな夢を語る人。
夢道場は、まさに土田先生が競技麻雀の拠点として長年夢見たものだった。
この道場は、後に「北海道最強位戦」や「ヤングライオンズカップ帝王戦」の舞台となり、後進の育成に多大なる貢献をしたほか、雀鬼会の桜井章一会長や故安藤満プロ、二階堂姉妹といった数々のスターと北海道人を結びつける場所となり、僕らの大切な居場所になった。
土田先生が語る夢。
その夢の中にはあまりにも大きすぎる夢もあって、時には多くの人を良くも悪くも巻き込むのだが、いつも土田先生の周りには、
「しょうがないなぁ。でも、浩ちゃんがそう言うんだからさ。」
と、その夢を一緒に観たいと思う人たちが集まっていた。
とにかく、笑顔が絶えなかったのだ。
そして、この当時から雀荘経営の部分で辣腕を奮っていたのが喜多さん。
土田先生と喜多さんは、若い頃からある雀荘で一緒に働いていて、意見の食い違いから喧嘩が絶えなかったそうだけど、北海道の競技麻雀界で若手を育てたいという夢…いや、育てねばならないという使命感に駆られて、夢道場の開設にアドバイスをしていたそうだ。
「夢を語る」土田。それに付き合って「現実を見極める」喜多。
性格的に相対する二人がけん引してきた北海道の競技麻雀界。
僕はその一時期に身を置くことが出来て幸運だったと思う。
その後、土田先生の活動拠点が徐々に東京へ移っていく中で、道場は別の方が経営することに。
そのため、道場の看板は今もそのままながら、実際は往時の姿とは違うものとなり、あの頃一緒にいた仲間たちは、それぞれ別の場所で過ごすようになった。
そこに先生がいないから。
道場が少なくとも僕の居場所でなくなったのは、そんなシンプルな理由だ。
そして、そんな姿を観止めたから、喜多さんは「千嶋君は土田さんのとこの子」というのだと思う。
土田先生との別れ
ふと思いだした。
土田先生の活動の拠点が、いよいよ北海道から東京に移る直前。
先生が主宰していたリーグの打ち上げが終わった後のことだった。
僕は先生と真冬の寒空から逃げるように、地下街を歩いていた。
「先生…北海道からいなくなっちゃうの、寂しいですね。」
しんみりしながら僕が話すと、先生は珍しくため息をついて、
「みんなには、それぞれ自分の居場所をしっかり作って欲しいと思うよ。」
こう、かみしめるように一言。
そして、
「千嶋君、後は頼んだよ。よろしくね。」
私の肩をポンポンと2回叩いて、先生はホテルへ帰っていった。
先生にお願いされたことって何かって?
それは、先生と喜多さんがしてくれたように、次の世代へバトンを渡すこと。
私の役割は、舞台を作ること、居場所を作ることではなくて、次の世代を担う若い子たちの目標や壁となったり、進むべき道に迷った子に選択すべき道を示してあげたり…。
そういう役割を担うんだよ、と、あの時先生から言われたのだと理解している。
先生は、僕が24を過ぎた頃からこの時まで、いつも話してくれた。
「千嶋君、これからは年下の子たちの良き兄貴分になってあげてね。」
喧嘩っ早くて声だけは一丁前に大きい私。
いくつになってもその地が変わらない私に、何度も何度も言ってくれた。
今では、その理由が良くわかるのだ。
だが、その時に気が付かないのは、親の説教と同じ。
だから、その時の自分を思い出して、今でも恥ずかしくなってしまう。
今の私は、そんな風に成れているのだろうか?
いろんな場で若い子を見かける度に、理想の自分と現実の自分を見比べてしまう。
大抵は、その度にがっかりしてしまう。
先生、東京で元気かな。
時折、Mリーグで見かけるけれど、無理していないかな。
会いたいなと思いながら、今の自分を先生に見せて、がっかりされないだろうかと不安に思ったり。
僕と土田先生、それから喜多さんとの関係って、あの頃から全く変わっていないのかもしれない。
それって、良いことなのかね?
僕にはわからない。
そんな、答えのない、とりとめのない昔話を思い出していたら、いつの間にか辺りは暗くなり始めていた。
少しだけ冷えてしまった体が、僕にくしゃみをさせて現実に引き戻してしまった。
が、とても心地よかった。
来年もまた、桜の花を見かけたら思い出すのだろうな。
かけてもらった温かい恩と、与えてもらったありがたい縁のこと。
寒かったけれど、心が温かくなった。
さぁ、明日からも頑張ろう。
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