Rain
1988年にリリースされた、大江千里さんの「Rain」。
僕がこの楽曲に触れたのはリリースから2〜3年経った頃。
「大好きな渡辺美里さんに楽曲を提供されている方」
そんな出会いだった。
子どもだった僕は、千里さんの紡ぐ言葉が全く理解できなかった。
いや、今でも理解できていないと言った方がいい。
特に冒頭の一節。
僕はあれから30年くらい歌詞の意味を考えているけれど、答えが出ないままだ。
僕の多感な時代は、KANさんと渡辺美里さん、そして千里さんの楽曲と共にあった。
時に勇気をもらい、時に心の傷にガーゼをあてがってもらい…まるで戦友のような付き合い方をしてきた気がする。
一目でキッパリと理解できるものって、つまらない気がするんですよ。
かといって、あまりに難解なものは遠ざけてしまう。
自分にとって、その塩梅がちょうど良いものに魅力って感じるものでしょう?
僕にとって、千里さんの紡ぐ言葉ってそんな感じだった。
僕が住んでいた小樽という街。
移動の足はもっぱらバスかタクシー。
僕が電車に乗るのは札幌へ行く時なので、改札を通るときはかなり遠くへ出かける感覚だった。
歌詞にあるのは、きっと東京のどこか。
私鉄が張り巡らされ、数百メートルの距離に駅が点在している風景。
二駅くらいの距離なら、小樽の人間は歩く。
だから、東京の駅の間隔は、僕にとっては不思議なものだった。
でも、それって都会の人にとってはありふれた日常なのだろうが、僕がそれを実感するのは大人になってから。
ああ、きっとこの街が楽曲の世界なんだ。
漠然とそんなことを思ったことがあった。
二十代の頃、毎年夏に麻雀を打つためだけの目的で東京に遊びに行っていた。
ある時、夕立に降られてずぶ濡れになった。
普段なら歩く二駅の距離。
雨宿りがてら電車に乗った。
閑散としていた日中の電車。
濡れた体のまま冷房の効いた車両に身を置いたせいで、危うく風邪をひきそうになった。
電車のドアが開く。
叩きつけるような雨が降ったけど、街の火照りを冷ますには至らない。
ドアの向こうには熱の壁があって、体が跳ね返りそうになる。
それを一歩踏み出して越えると、メガネが一瞬で曇った。
ジーンズのポケットに入れた切符が濡れてしまって、改札を通らなかった。
駅員によれた切符を見せると面倒そうにそれを受け取って、早く通れという代わりに左手で僕を促した。
改札を抜けると、空には夏の太陽が戻っていた。
濡れたTシャツは一旦乾く素振りを見せたけれど、汗がそれを許さなかった。
不快極まりない。
麻雀を打つ前にどうしても着替えたくなって、近くの店でTシャツを求めることにした。
雀荘の近くにある古着屋に飛び込んだ。
着替えられたら何でもよかった。
目に飛び込んできたシャツを無造作につかんで、店の奥のレジに持って行く。
レジの女の子がタグを切って、綺麗にたたみ直してくれた。
「あの、着替えたいんですけど。」
僕がそういうと、彼女は「あぁ」といってシャツを僕に差し出す。
「では、今着ているシャツをお包みしますよ。」
彼女はそう勧めてくれたが、汗だくのシャツを渡すのは何だか気が引けた。
「いや…汚いんでいいですよ。何なら捨ててしまおうかと思ったくらいで。」
そういって、僕はレジの横の試着室を借りた。
カーテンを閉めてシャツを脱ぐと、カーテンの下からタオルが。
「せっかくなんで、使ってください。」
「いや、でも…」
「いいから。気持ち悪いでしょ?」
カーテン越しにそんなやりとりをしながら、僕はシャツを着替えた。
カーテンを開けると彼女が立っていて、右手を此方に向けている。
「シャツとタオル、お預かりします。」
濡れたシャツをタオルで包んで、紙袋に丁寧に入れてくれた。
「タオル、もらっちゃっていいんですか?」
「はい。ちょうどお店の粗品があったので。その代わり、また来てくださいね。」
本気とも冗談とも取れるような笑みを湛えて、紙袋を手渡す彼女。
僕は紙袋を受けとって店を出た。
何時間か麻雀を打った。
客が帰り、卓が割れたタイミングで僕は店を後にした。
辺りはすっかり夜。
幾分涼しくなったけれど、それでも北海道の人間には十分暑い。
雀荘がある雑居ビルの階段を降りて道路に出ると、さっき立ち寄った古着屋がちょうど店じまいの時間だった。
店のシャッターを下ろす彼女と目があった。
「あ。」
お互いに驚いた表情を合わせてから、僕は小さく会釈をしてその場を後にしようとした。
「あの…。」
彼女が僕を呼び止める。
「麻雀、してたんですか?」
「…えぇ。それが何か?」
「いや、あの。私、これから少しだけ打とうとしてたので。そのお店で。」
「は?そうなんですか?」
僕は、卓が割れたこと、今行っても客がいないことを説明した。
「…そうですか。珍しいな。お客さんが途切れるなんて。」
少し残念そうに彼女はうつむいた。
「今日は帰るしかないか。」
誰に言ったわけでもなかったのだろう。
彼女は残念そうに呟いた。
「じゃあ、僕はこれで。」
宿の方へ歩き出すと、彼女も同じ方向らしく、僕の5メートルくらい後ろを歩いてくる。
彼女がついてくるのは気配でわかってはいた。
いや、むしろその気配に気を取られていたんだと思う。
僕は歩道にあった数センチの段差につま先を取られ、軽くつまづいた。
「ふふっ。」
後ろをついてきた彼女が、そんな僕の姿を見て笑った。
「あっ。ごめんなさい。つい、面白くて。」
当時の僕は今よりもシャイで、そんな姿を見られたのがことのほか恥ずかしかった。
照れ隠しにとった不機嫌そうな態度に、彼女が悪く思ったのかもしれない。
「そんな、怒らないでくださいよ。ごめんなさいって思ってますから。」
「いや、僕はそんな…。」
そんなやりとりから始まった会話は、僕の宿まで続いた。
「あぁ、旅行にいらしてるんですか?」
北海道から遊びに来ていることを告げると、珍しいものでも見るかのような目で彼女はうなづいた。
「東京にいる間に、もう一度お店に来てくださいね。タオルのお礼がわりに、必ず。」
さっき、レジで見せた本気とも冗談とも取れる笑顔を見せて、彼女は去っていった。
それから数日、僕は東京で過ごした。
この街の暑さに慣れた頃。
何だか街を離れ難くなったが、その寂しさを振り返りながら荷物を詰めていた。
ホテルの部屋の隅に置かれたままの紙袋に気がついた。
先日飛び込んだ古着屋のものだ。
洗うのをすっかり忘れていた、安物のシャツ。
このままホテルの部屋に捨てて行こうかと思ったが、紙袋の中には店の女の子が入れてくれたタオルが入っているのを思い出した。
「もう一度、お店に来てくださいね。」
東京の街を離れ難かった僕は、この街に何時間か留まる口実を思いついた。
ホテルをチェックアウトし、重たいスーツケースを引きずって最寄りの駅へ。
コインロッカーに荷物を放り込み、二駅の距離を電車に乗った。
ようやく通勤ラッシュが終わった頃。
それでも、電車の中は混み合っていた。
人波に流されるように、僕はホームに降りた。
ジリジリとした暑さに汗が噴き出す。
あっという間にメガネが曇った。
自動改札に切符を受け取ってもらい、改札を後にする。
駅のホームから、あの古着屋がかろうじて見える。
だけど、シャッターは下りたままだ。
「この暑い中、俺は何をやっているんだ。」
遠くに見えるシャッターを眺めて、ハッと我に返る。
踵を返して、再び電車の切符を買おうとした時だ。
「あ。」
古着屋の女の子が改札から姿を現した。
「もしかして…本当にお店に?」
照れ隠しに違うことを告げようとしている僕のことを制して、彼女は僕の手を引く。
「今、お店開けますから。行きましょう。」
お店に着いた。
店の中はむせ返るような暑さ。
彼女は急いで冷房をつけた。
「すぐ涼しくなるので…そこ、涼しいから座っててください。」
冷房の吹き出し口の真正面を指差した彼女。
いそいそと開店の準備をしている。
何を話すわけでもない僕に、彼女は缶コーヒーを差し出す。
「よかったら、飲んでください。」
押し付けられるように差し出された缶コーヒーを受け取りながら、僕が口を開く。
「東京って、親切な人が少ないと思ってます。そこの駅員も、切符が改札を通らなかったときにひどく面倒そうだったし。でも、店員さんはなんで親切にしてくれるのかって、少し不思議だったんです。」
彼女は、準備の手を止めて僕の方に向き直った。
「そうですか?東京って、あったかい街ですよ。」
微笑む彼女。
「あぁ、私がお店にもう一度来て欲しいって言ったのは、商売のこともありますけれど。何だかもう一度会いたいお客さんって、たまにいるんですよね。」
「汗なのか雨なのか、あの日のあなたはずぶ濡れでやってきたでしょう?そんなふうにお店にやってきた人っていなかったから、面白い人だなって。」
「面白そうな人だから、もう一度会いたいなって。一度きりじゃ、寂しいなって。」
彼女が何を言っているのか、僕は理解できなかった。
ただただ、変わってる人だなと思い、彼女を眺めていた。
「あ、変なやつって思っているでしょう?」
そんなことはないと取り繕ってみせるけれど、それは無駄なことだった。
「あなただって変な人ですよ。服なんか買う気もないのに、もう一度ここにやってくるんだから。」
それからしばらく、僕は特等席に陣取りながら取り止めのない話を続けた。
気がつくと、1時間も話していたようだった。
「そろそろ空港に向かわないと。」
腕時計を見るそぶりをしながら、僕が切り出す。
「そうなんですね。今日帰るんですか?」
僕が、この街を離れ難くなったこと。
ホテルに置き去りだった紙袋を見てここのことを思い出したこと。
つまづいて笑われたことを根に持っていることを伝えた。
彼女は、急に神妙になった。
「コーヒー、ご馳走様でした。楽しかった。また。」
座っていた椅子に空き缶を置いて帰ろうとした時だ。
「あの、これ…持っていってください。」
彼女は僕に駆け寄ってきて、店の名刺を僕に差し出した。
「また、東京に来ることがあったら、寄ってください。必ず。」
名刺を差し出す彼女。
本気なのか冗談なのかわからない笑顔はなかった。
「必ず、お店に来てください。待ってますから。」
東京を後にした僕は、北海道に帰るなり彼女に手紙を書いた。
あの頃はメールなんか一般的ではなかった時代。
今では考えられないだろう。
手紙を送って1週間。
彼女からの手紙が返ってくる。
そんな生活をしばらくしていたが、半年くらい経って彼女からの手紙が途絶えた。
気になってお店に電話をしてみるが、出ない。
東京にいる友人に様子を見にいってもらったが、どうやらお店は無くなってしまったようだ。
次の夏。
僕は彼女のお店に行った。
古着屋は不動産屋になっていた。
恋をしていたわけではなかった。
特段、特別な感情を抱いていていたわけでもなかった。
ただ、東京の友人が一人いなくなったこと。
それがたまらなく寂しかった。
その日。
彼女の店があった近くの雀荘で麻雀を打った。
寂しさに支配された麻雀は本当に味気ないものだった。
惰性のまま打ち続け、気がつくと夕方。
腹が減ったのを自覚したタイミングで僕は打つのをやめて店を後にした。
雑居ビルの階段を降りると、暮れかかった街に通り雨。
ずぶ濡れになりながらビルの階段に走って戻り、雨足が弱まるのを待った。
こんな時に、偶然彼女が通りがかって。
あの日と同じように、タオルを差し出してくれたら。
そんなドラマの始まりみたいなことを思ってみたが、やがて雨が上がっても彼女の姿は現れなかった。
そんなことを思う自分が可笑しかった。
何を期待しているんだ。
自分に向かって呟きながら、僕は無意識に駅のホームに向かっていた。
宿まで二駅くらいの距離なら、小樽の人間は歩くのだ。
でも、この日の僕は電車に乗った。
東京の街の水に慣れようとした自分がそうさせたのかもしれない。
だが、翌日には興がさめて、僕は東京を後にした。
そして、この年を最後に東京へ遊びに行くのもやめてしまった。
今年もようやく春を迎え、夏がやってくる。
夕立に降られるたびに、僕はこの日のことを思い出した。
そして、今年もきっと、この日のことを思い出す。
割り切れない思いを抱いたまま、もう何年になるだろう。
気持ちを整理できないまま、今日までそのままだ。
でも、そんなことって人生の中でいくらでもあることだと思う。
なんでもかんでも割り切れてしまったら、人生はつまらない。
Rainを聞くたびに思う。
朝が早い路地裏に暮らす彼女のこと。
どうか、元気でいてくれたら、と。
ただ、それだけだ。
第2話