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追いつかれるまえに

僕には恐れていたことがある。それは、追いつかれることだ。なにかをしたいのに、ある時にその意欲が無くなっているかもしれないことが怖かったのだ。2つに分けて書こう。aとbだ。

a. 何かに追いつかれる
僕は10代のころに、目標があってそれを目指していた。その目標についてはいずれ説明するかもしれない。

ありがたいことにその目標はひとまず到達できたのだが、10代と20代の最初のころは焦りを感じていた。その焦りとは、「やる気がいつか無くなってしまうのではないか」というもの。自分の中の気持ちが無くなってしまうことが怖かったのだ。

目標を立てていたのは自分。行動しているのも自分。すべては自分次第。

社会的に目標ばかり追っていられなくなるかもしれない。年齢はただの数字だけれど、現実的というか世間的には年齢で判断されることもある。

それらすべてを含めて気持ちが無くなることが不安であった。何かに追いつかれるような感じがしていたのだ。そのまえに、具体的な形にしたいと思っていた。

b. 現実的にできなくなる
僕は健康な人だ。幼稚園から義務教育のあいだは皆勤賞だったし、その内申書だけで受験を乗り切っていたくらい健康だ。

社会人になっても、風邪をひくことはあまりない。若干風邪になっても気がつかないことにしている。

だからこそ、ある日ケガとか大病で身体に無理が効かなくなることが少し怖い。物理的にできなくなることで、気持ちが萎えることが怖いのかもしれない。やる気は大切だよ。

現実的なことを作ることも、ひとりの気持ちからはじまってると思う。その気持ちを大事にしていつかできなくなるまで、行動したい。

まとめる
追いつかれる。具体性はないが、そんなことが怖い思っていた。目標が叶わないことが怖かったのだと思う。目標や夢があるのは良いこと。

怖いことなどを乗り越えてでも目指すこと。それもまた生きるということの目的のひとつかもしれない。平易な言葉だけれども僕が思うのは、そんなところだ。

以上。

珍しく、曖昧な感じの記事を書いた。このような思考を文章に残すことで、今後また抽象度の高いことを書けるようになるかもしれない。今日は快晴だ。コーヒーを飲もう。ではまた。

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