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北海道のむかし話36 智雄上人と柴田与治右衛門 


智雄上人(ちゆうしょうにん)と柴田与治右衛門(しばたよじえもん)
                                                              ー江差町ー

『入り船千ぞう、出船千ぞう』
と呼ばれた江差の港は、エゾ三港の、松前、函館に比べて、ことのほかの繁盛で、上方(大阪、京都)から品物を積んで入ってくる船、エゾの産物を積んで上方へ向かう船で、大変賑わい、「江差の五月は江戸にもない」と、唄われました。


そのうえ、この品物を扱う上方の名高い店が、軒を並べていましたので、江戸からきた役人でさえ、
「こんな上方の町が、こうしたエゾ地にあろうとは、思いもかけなかった。江戸をたってから、はじめてである」と書いているほどです。

なかでも、柴田与治右衛門の店は、内蔵だけでも五つ、外蔵を加えると十以上もあり、働いている人も、数十人で、奥回り、店回り、蔵回り、庭回り、磯回り、沖回りと、分担を決めていました。
その様子は、大きな店の構えとともに、江差では、ひときわ目立っていました。また、与治右衛門はことのほかけちで、このことでも、町中に名が知れ渡っていました。

そのころ、この港町の小高い丘の寺に住み着いた、一人の坊さんがありました。智雄(ちゆう)という名で、学問が深いうえに、大変な力持ちで、困っている人を見過ごすことができず、救いました。
また、お酒がすきで、気軽に、誰ともよく飲みあいましたので、町の人びとからしたわれ、集まっては教えを受ける者が、だんだん多くなりました。

ある年、本州で作物が実らず、海を渡って、救いを求めてくる人が多くなりました。松前藩でも、かゆを作って救いましたが、中々思うようになりません。
智雄はこれをみて、黙っておれず、町まちを歩いては、金持ちに、救い米を出すように頼みました。
たまたま、柴田家の前に立った智雄は、お経をよんで鉄鉢(てつばち)を差し出し、難民のため、米を三俵寄付するように頼みました。これを聞いた与治右衛門は、

「こんなにたくさんの人を救うのは、殿様のする仕事であって、わしらのかかわることではない」

といって、断りました。これを聞いた智雄は、たいそう怒って、

「そんなことは、わしも知っている。しかし、いま目の前で死んでいく人を、黙ってみておられようか。
一人でも多くの人を助けなくては、仏の道にも背く。
第一、これだけの店の繁盛が、おまえ一人の力だと思っているのか。
大勢の人びとがあればこそではないか。
殿様だの、かかわりがないのと、理屈を並べて、人の死を眺めているお前の性根には、どうしても我慢がならぬ」

と、やにわに、与治右衛門の襟髪を取って引き据え、持っていた鉄鉢で、滅多打ちに、打ちのめしました。
驚いた店の人びとは、智雄の手にすがってとめ、与治右衛門も、自分の心のいたらなさを詫び、米を蔵から運ばせましたので、智雄もやっと腕を離しました。

このことがあってから、与治右衛門は、智雄の心に深く感じ、たびたび、寺を訪ねては教えを受け、研究を重ねましたので、
「このことについて、詳しいことは柴田の与治に聞け」と言われるほど、仏の道に通じてきました。

その後、与治右衛門は、自分の財産を捧げて、智雄の仕事を助け、たくさんの人を救い、数々の、良い行いをしましたので、町の人びとから、たいそう敬われました。


正覚院

いま、江差の港をひと目に見渡す松の岱に、いかにも禅寺らしい姿の正覚院(じょうがくいん)が建っています。

この寺の後ろの高い石段の上に、八角のお墓が、ひときわ目立って立っていて、表には「檀頭、柴田与治右衛門」と刻まれています。
そのそばの、奥深い木立の中に、細長い卵型の、智雄上人(智酔禅師)の墓が、それを見守るように、静かに立っていて、死後もなお、二人の心のつながりの深さを物語っています。



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