北海道ゆかりの人たち 石川啄木
石川啄木(いしかわ たくぼく)
明治19年2月20日―明治45年4月13日
岩手県南岩手郡日戸村(盛岡市日戸)出身 歌人、詩人
啄木は明治45年、26歳で肺結核で亡くなりますが、自らの心情を赤裸々につづっているので、26年間の人生を知ると理解が深まります。
北海道の石川啄木歌碑
明治40年21歳の時に北海道に渡ります。
5月、函館に移り、9月札幌、更に9月末には小樽、明治41年1月釧路、3月には釧路を離れる11か月という短い期間でしたが、代表的な歌を数多く残しました。この間の歌を明治43年、24歳の時に東雲堂書店出版、処女歌集『一握の砂』として世に出します。
北海道には41の歌碑が刻まれ、銅像とともに親しまれております。
函館市4・倶知安町2・小樽市3・札幌3・岩見沢市北村1・美唄市1・砂川市1・釧路市26
ちなみに、最もたくさんの歌碑があるのは、岩手の69(盛岡52)です。
歌別の数では「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」が最も多く11箇所。しかし、北海道にはありません。
北海道で最も有名な歌は、立待岬にある石川啄木一族の墓碑に刻まれた
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
で全国で5箇所あります。
私が好きなのは小樽の水天宮に建立された
「かなしきは 小樽の町よ 歌うことなき人人の 聲の荒さよ」
生い立ち
本名を石川一(はじめ)といい、明治19年岩手県日戸村(ひのと)に住職の子として生まれました。体が弱く、青白い顔をした石川家のたった一人の男の子として我がまま一杯に育てられました。病的なほどの自負心は、父親が住職だったことから、村の特権階級である「お寺のおぼっちゃん」という恵まれた環境によって培われたといいます。
小学校で神童といわれ、成績は常にトップ、特に作文は群を抜いていました。
県で唯一の盛岡中学に130人中10番で入学し、そこでのちの言語学者、金田一京助(3歳年上)と出会い、文学の影響を受け「明星」の機関誌に14歳で初めて投稿をします。
この作品が少年とは思えないものでした。ところが多情な彼は間もなく堀合節子と恋をし、次第に学業から遠ざかり成績も低下し、遂にカンニングで処罰されたのをきっかけに退学をします。
これから運命の歯車が狂い始めました。
18歳で節子と婚約、詩集刊行と結婚費用調達のため上京し、「明星」「太陽」などに盛んに短歌や詩を発表し、新進詩人として注目され始めます。
しかし、運命は思うように回りません。故郷では父親が僧洞宗本山への宗費滞納を理由に住職を免職になり、一家は寺を追われて離散します。
これは上京した啄木への仕送りに使われたお金でした。19歳の啄木は東京でそれを知り、詩人として自活しようと処女詩集「あこがれ」を刊行しました。
ところが、その売れ行きが悪く印税が入らず、悄然として盛岡に向かいますが、予定されていた結婚式には帰ることができませんでした。この経済的苦悩から友人に金銭的迷惑をかけ、絶交を宣告されますが、この年に節子と結婚します。
20歳の4月、母校渋民小学校の代用教員に採用され月給8円。
その年に長女誕生した一年後、生徒の校長排斥運動を指導したのが問題となり啄木は免職。5月一家は離散、母は渋民に残り、妻子は盛岡の実家に帰し、啄木は妹をつれて函館に向かいます。
この時の歌
「石をもて追わるるごとく ふるさとを出でし悲しみ 消ゆる時なし」
函館へ
函館では若い歌人たちのグループに温かく迎えられ、青柳町に下宿し商工会議所の臨時雇となり、6月には弥生小学校の代用教員となります。
学歴がないので代用教員しか就くことができません。月給12円これで一応生活は安定して、妻子を呼び寄せて転居、母も迎え、函館日日新聞の記者も勤めます。
この時の歌
「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり じっと手を見る」
「友がみなわれより偉く見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」
啄木は幼少のころから秀才としての自尊心が強く、今に見ていろという気位がありました。しかし、旧友、金田一は東大へ、及川は海軍兵学校へ、野村は東大・新聞記者と、それぞれ栄光の道を進んでおり、友からの手紙ほど彼を悲しませるものはありませんでした。
友はどれもこれも皆偉い、それなのに俺は何というザマか。
仕方なしに花を買ってきて、じっと涙をこらえて花を見つめる。この気持ちを察してか、妻も花をじっと見つめているだけだった。
この心情を歌ったのが
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
しかし、わずか一週間後、函館の大火によって新聞社が焼き払われます。
函館に滞在したのは4ヶ月あまり。後ろ髪をひかれながら札幌に向かいます。明治40年の春から秋まででしたが、のちに啄木は「死ぬ時は函館に行って死ぬ」と言わせる土地になりました。
啄木が亡くなった後に、友人たちで函館の立待岬に歌碑と一緒に墓がつくられました。
札幌へ
札幌の停車場に降りたのは明治40年9月。とりあえず停車場の裏(現在の札幌駅北側)に住む友人(向井英太郎)の下宿に転がり込みます。向井の紹介により北門新報で働くことも決まり、再出発をきることができました。
大通公園の歌碑
「しんとして幅広き街の秋の世の とうもろこしの焼けるにおいを」
しかし、仕事は当初の内容とは違い校正係のため魅力がありません。小樽日報から誘われ、2週間で秋の札幌を去ります。ところが、短い札幌時代でしたが札幌の風情がさまざまな表現で綴られています。
小樽へ
小樽で新聞記者の職を得ましたが、上司とのいさかいで暴力を振るわれ翌日から出社するのをやめます。3か月住んだ小樽をあとにし、釧路へ向かいます。
釧路へ
釧路新聞社では三面主任の約束でしたが、才能を高くかわれ編集長格になり、入社後間もなく一面に「釧路詞壇」を設け、詞歌の投稿を募集。
更に政治評論を掲載するなど、啄木本来の才能をふるうことができました。
編集長格の啄木は、取材の名目で料亭に通うようになり、そこで18歳の小奴という芸者と知り合います。
「小奴といいし女のやわらかき耳たぶなども忘れがたかり」
酒におぼれていった啄木でしたが、この頃東京の文壇では、夏目漱石や島崎藤村らの活躍がめざましく、世の中から遠ざかっていたことに気づき「自分はこんな田舎でくすぶっている人間ではない」と、北海道11か月の放浪に終止符を打ち、再び上京したのです。
東京へ
東京では新聞社に入社が決まり、なんとか生活が安定し、明治43年24歳のとき処女歌集「一握の砂」を刊行します。
生活を歌う独特な歌風が注目され、ようやく第一線歌人の地位を確立することができました。11か月の北海道放浪の旅が、後に天才詩人と言われるような名作数々を生み出したのです。
しかし、「一握の砂」を出した2年後、波乱に満ちた生涯を終えました。
函館から小樽、札幌、釧路と流浪しましたが、その中でも釧路には多くのモニュメントが残っています。
啄木が旧釧路新聞の記者として滞在したのは僅か76日間でした。
明治41年1月21日午後9時半に釧路駅に降り立つがその時のことを
「さいはての 駅におりたら 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき」
という歌で残しています。
この歌は幣舞橋の近くにあります。