観光客が行かない根室巡り・前編
夷酋列像 (松前町)
私が蠣崎波響の「夷酋列像」の絵を知ったのは20年以上前になります。
NHKで、江戸時代に画かれた絵がフランスで見つかったという紹介でした。この時に、アイヌの人たちは「この絵は不自然だ」と言っているという話で大変興味を持ちました。
「この衣装はアイヌが着る物ではない。何かの意図があって故意的に着せられたのだろう」ということでした。
松前町の「松前城」に複製画があるというので見に行きました。
その時に松前町教育委員会を訪れ「夷酋列像」の話を聞こうとしましたが門前払いでした。仕方がないので、この不思議な絵を解明しようと各地域の郷土資料館や各教育委員会などを訪ねることとなりました。
調べるうちに、北海道に生まれながら北海道のことを何も知らなかった自分に気が付きました。
北海道の市町村を調べていると「町や村」には、それぞれ気質というものがあることが分かってきました。更に、小さな松前町ではありますが、この町の歴史は古く、街中に3つのパターンがあることも分かってきました。
こうなると明治以降開拓で入植した村のルーツやその県民性にまで興味を持つようになったのです。
寛政時代(1789年から1801)のアイヌ慰霊碑
根室市の納沙布岬がある半島にはアイヌ民族最後の蜂起「クナシリ・メナシの戦い」の慰霊碑があります。
日本地図には千島列島の北方四島が日本の領土に入っていますが、実質的に日本の最東端は根室市になります。
ノッカマップ岬
根室市街地から道道35号を東に進むと風車が見えてきます。風車の手前に 「ノッカマップ岬灯台」の案内板があります。
かつてノッカマップ地区は、根室半島アイヌの中心都市でした。
ここで多くの血が流されたことから、集落としての機能が放棄され、中心部が現在の市街地に移ったといわれています。
戦闘時の砦のほか、周辺の部族との談判(チャランケ)や祭祀を行なう場にもなっていました。ノツカマフ1・2号チャシは、根室海峡沿いの見通しのいい岬に築かれ、「コ」の字形や半円形の壕います。
チャシの見学ができるのは、ノッカマフチャシ跡とヲンネモトチャシ跡に限られているので時間に余裕があれば見学をすすめます。
ノッカマフチャシ跡は、1789(寛政元)年、和人に搾取されたアイヌが蜂起し、和人71人が殺害される「クナシリ・メナシの戦い」の際、松前藩は首謀者など37人を捕縛しこのノツカマフで処刑しています。
1700年代の中ごろから、根室の地は国境をめぐって様々な事件が起きていました。その一つが、アイヌ民族の蜂起です。
この戦いが無ければ、蝦夷地に江戸幕府が係わることはありませんでした。
伊能忠敬が北海道地図をつくる必要もありませんし、松浦武四郎が探検で蝦夷地に渡ってくる必要もなかったのです。
ましてや、間宮林蔵が間宮海峡を発見することもありませんでした。
そうして、千島列島や樺太の先住民族であるアイヌの人たちは、ロシアの南下政策でロシア人となっていました。
日本の領土は道南渡島半島の松前藩領だけで、現在の八雲町とせたな町にかけて高い塀が万里の長城のように山をめぐらしていたでしょう。
厚岸から根室への道なき道を、今から250年前に近藤重蔵や間宮林蔵たちが歩きました。納沙布岬から国後島は手のとどくような所に見え、根室海峡を高田屋嘉兵衛の辰悦丸が帆を脹らませて走行していました。
2月7日「北方領土の日」は、高田屋嘉兵衛がゴローニンを仲介したことがキッカケとなって成立させた「日露和親条約」の記念日です。
1701年、松前藩は霧多布場所(現在の浜中町)を開設し、これによって知床のアイヌ人は霧多布で交易を行っていました。
1774年に四代目飛騨屋久兵衛が松前藩から霧多布他3場所の請負人となります。この根室一帯を仕切っていたアイヌの長老がクナシリの「ツキノエ」でした。(トップの写真)
アイヌ民族の蜂起の原因は、場所請負であった飛騨屋のアイヌ虐待がはじまりです。アイヌ民族の大きな蜂起は3回ありますが、クナシリ・メナシの戦いが最後となります。この時に、「ツキノエ」をはじめとするアイヌの長老12名を描いた絵が「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」でした。
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