北海道ゆかりの人たち二十三位 伊藤整
いとう せい
1905年(明治38年)1月16日 – 1969年(昭和44年)11月15日)
小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。
本名は伊藤 整(いとう ひとし)。
抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。
戦後、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となりました。
生い立ち
松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父伊藤昌整と母タマ(旧姓鳴海)の間に、姉一人と10人の弟妹の12人兄弟の長男として生まれました。
父は広島県(現三次市)出身で、教導団出身の陸軍少尉でしたが、日清戦争出征後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡ります。まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年(明治38年)に日露戦争出征で203高地で重傷を受けて帰国し、旭川の官舎に移りました。
1909年に父は塩谷村(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移ります。
旧制小樽中学(小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学びます。中学3年の時に、2年先輩の北見恂吉の影響で詩に関心を持ち、級友と同人誌『踏絵』を発行。
小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がおり、一緒にフランス語劇に出演したこともあります。
大正14年、高校を卒業すると、旧制小樽市立中学の英語と国語の教師に就任。しかし、その頃塩谷では窮乏を極めており、実家は借金のために売り払われ、父親は肺を病んで床に伏していました。一家で唯一の高給取りだった伊藤は、このまま教師を続けて仕送りをするか、それとも自分の可能性を試すために東京に出るかで迷いました。
伊藤は父と打ち解けて話したことは一度もなく、むしろ律義者の子だくさんという言葉のとおり、12人の子供を産ませた父を、いやらしいと思い、疎んじていました。父親への憎しみを捨てきれなかった伊藤は、結局東京への道を選び、病気の父を捨ててでも文学者への道を歩もうと考えたのです。
大正15年、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を受験したものの不合格。
小樽で教師を続けるかたわら、膨大に書きためた詩の中から、初めての商業出版となる「雪明りの路」を小樽の印刷所から発行します。自費出版した抒情詩詩集は、東京でも紹介され高村光太郎や三好達治など一流詩人に高く評価されました。
賞賛する記事が雑誌に掲載されると、そこに載っていた伊藤の住所あてに女性ファンからの手紙が届くようになります。数人の女性と文通をはじめ、そのうちの一人が函館の近くに住む小川貞子で、のちの妻となります。
昭和3年、23歳になった伊藤は3年間勤めた中学教師を辞職し、いよいよ東京へと旅立ちます。早くも作家として名を上げていた小林多喜二へのライバル心もありました。
旧制東京商科大学(一橋大学の前身)に通いはじめた伊藤は、彼の作品に大きな影響を与える人物と出会います。同じ下宿に住んでいた梶井基次郎でした。4歳年上で東京帝大に通いながら、新感覚派の代表作「檸檬」をすでに発表し、文壇の最先端を行く作家として活躍していました。梶井に好感を持ち、心を開くことができる数少ない友人として尊敬していました。
しかし、その交流は打ち切られました。父危篤の電報でした。
伊藤はやむなく東京をあとにして、父が亡くなるまでの2ヵ月間を小樽で過ごします。
長年疎んでいた父の死を見届け、2ヵ月ぶりに東京に戻ってくると文壇の流れは変わっていました。萩原朔太郎すら時代遅れの詩と批判を浴びており、小林多喜二はプロレタリア文学の母体となる「戦旗」を活動場所として、文学の流れを形作っていました。
伊藤は抒情的な詩を書いているだけではダメで、詩人からの転身を試みます。それは、小説家、文芸評論家としての自立を求めたのです。
フロイトの精神分析、20世紀最高の作家とも言われるジェームス・ジョイスなどに影響を受け「新心理主義」という文学の新しいジャンルを設立しました。
しかし、昭和6年に満州事変が勃発し、世の中は戦争へと傾き、文学は戦争に協力することを求められ、新心理主義は空中分解してしまいます。
昭和8年には、小林多喜二が特高警察の拷問により死去。小林の死は、大きな衝撃を受けました。
心の拠り所をなくした伊藤は、今一度自らの文学について思いをめぐらします。やはり小樽の自然の中で育った抒情的な世界。古いやり方かもしれないが、もう一度そこからやり直そう。そう考えた伊藤は、自らが否定し続けてきた私小説の世界に、再び戻ってきました。そうして、小樽を舞台とした小説を多数発表。
終戦戦後
伊藤は終戦後も北海道にとどまり、北海道大学で半年間英語を教えた経験をもとに、自伝的な作品「鳴海仙吉」を発表し評判を呼びます。自らの生きざまを文章に著していく私小説作家、そして鋭い切れ味の文芸評論家として復活を遂げていく中で、昭和25年人生を大きく変える事件が起こりました。
チャタレイ裁判
20世紀最高の作家と名高いロレンスが刊行した「チャタレイ夫人の恋人」。
金も名誉もある男爵夫人のチャタレイが、名もない森番の男、オリバーと激しい恋に落ちて人生の喜びを見出していくというこの物語に、伊藤は翻訳を決意しました。新しい愛と性の形を示したこの作品は大評判となり、二か月で15万部を発行。しかし、わいせつと見なされ、摘発、押収、さらに刑事告発を受けたのです。
当時、出版社はGHQの統制のもとにあり、伊藤の翻訳は現在であれば芸術作品として発行されますが、昭和25年文壇の中心にいた伊藤を摘発することで出版界を取り締まろうとという意図がありました。6年間の裁判で、罰金10万円の有罪が確定しました。
しかし、この事件をきっかけに大衆的な知名度を得て伊藤ブームがわき起りました。そうして、「火の鳥」「女性に関する12章」などのベストセラーを生み出します。
特に、「女性に関する12章」は30万部のヒットとなり、映画化されるほどの人気となりました。
ところが、伊藤整ブームのピークは昭和27年から31年までの4年間でした。
それを期に、長編小説「氾濫」にとりかかりました。金と名声を得たために人間性を失い、家庭を崩壊させていく初老の紳士の小説です。
1956年(昭和31年)には『文学界』新人賞で、石原慎太郎の『太陽の季節』を強く推して議論を巻き起こしました。
日本近代文学館
昭和40年には日本近代文学館の建設のために奔走します。(東京都目黒区駒場公園内)
1962年日本ペンクラブ副会長、また小田切進、高見順らと日本近代文学館設立運動を始め、設立時の理事となり、初代高見順の後を受けて1965年から理事長。1966年の北海道文学展や、1967年に北海道立文学館設立にも協力。
そうして、昭和43年に最後の長編小説「変容」を発表。
すでに63歳で老人の性を描いた、この作品は再び伊藤の名を高める結果になりました。昭和44年、腸の不調を訴えた伊藤は、末期の胃がんと判明。半年後に人生を終えました。享年64。
没後1970年、『変容』により日本文学大賞受賞、同年に北海道塩谷に伊藤整文学碑が建立され、碑には詩集『冬夜』の中の「海の棄児」が自筆で刻まれています。
平成11年、伊藤の作品の名を借りた「小樽雪明りの路」がスタートしました。