観光客が行かない池田巡り
観光客が行かない「池田町」の旅
人口6,088人(2023年3 月末)
池田町は十勝平野の東縁にあたり、平坦な土地が多く目立った山はありません。幕別町との境界を十勝川が流れ、その支流である利別川が町域中央を南北に貫流し、開拓者が十勝川を上る明治から大正のころは河港として栄えていました。
町営でブドウ栽培・ワイン醸造を行っており、「ワインの町」として知られています。
十勝のルーツ
十勝は現在19の市町村あります。開拓に入った団体を時系列で並べてみました。20ヶ所ありましたが、忠類は幕別町と合併しています。
かつて池田町は、アイヌ語で「セイ・オロ・サム」(貝のいるかたわら)から転じて凋寒(しぼさむ、ちょうかん)村と呼ばれていました。
大正2年に十勝川・利別川が合流する川合村と改称しましたが、明治10年代まではアイヌ人部落が川に沿って点在していただけでした。
明治10年代に鹿を求めて猟師や行商人が入り込みましたが、大雪で鹿が全滅。その中で明治12年に山梨県人武田菊平らが残り、鹿皮をアイヌ人と取引するかたわら農耕を行っていたといいます。
池田町は江戸幕府の第15代征夷大将軍・徳川慶喜の五男、旧鳥取藩主・池田公爵家の婿養子として家督を相続した池田仲博(なかひろ)が明治29年に池田農場を設立した事から、本格的に開拓が進められた町です。
鳥取県では明治17年(1884年)より士族授産の一環として県民の北海道移住計画が練られ、同年6月には旧鳥取藩士の士族47世帯270人が釧路に移住。その入植地を「鳥取村」と名付け、現在の釧路市鳥取の礎を築きました。(釧路の入口にある街です)
これを皮切りに鳥取県の士族が屯田兵として次々と北海道に移住し、池田農場にも従業員として鳥取県民40世帯が入植しました。
この他、明治維新後の功績から「横浜の父」と讃えられ、高島易断の開祖としても有名な横浜の実業家・高島嘉右衛門もこの地に移住し、池田農場と共に二大農場と称された高島農場を設立しました。
高島嘉右衛門は鉄道とも密接に関わった人物で、東海道本線新橋~横浜間の敷設に協力したほか、来道後は北海道炭礦鉄道の社長を務めたり、都電の前身である東京市街鉄道の社長を務めたりもしました。
池北線の高島駅も高島農場の敷地内に設置された事からその名を冠しており、廃線後は十勝バス陸別線の高島停留所に継承されています。
ちなみに、横浜市西区高島、横浜市営地下鉄ブルーラインの高島町駅、みなとみらい線の新高島駅があり、廃止済みの駅でも高島町駅、高島駅、東横線の高島町駅とあります。
開き分け
明治29年、池田農場は管理人として久島重義が来ました。池田自身は来ませんでした。
農場では、未開地を7年間農民(小作人)に貸して開かせ(1戸あたり約3㌶)、2年目から小作料(大豆による現物)を取る、という小作制度で開墾をします。
居辺線(おりべせん)―写真は高島駅跡
居辺線とは、池田町内の池北線(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線⇒廃止)の高島駅前から現在の河東郡士幌町(旧士幌村)東南の下居辺地区へ通じていた18.8キロの植民軌道です。
明治30年代から利別川支流の居辺川流域に広がる居辺原野には開拓が進められ、昭和に入ると馬鈴薯や甜菜、豆類などの生産が増加し、肥料などの生産資材の需要も増加しました。しかし、道は距離も長く、勾配もあり、しかも悪路で輸送は困難を極めていました。
昭和7年に工事がはじまり、昭和10年に馬力で使用が開始されました。
当路線には「高島」「信取」「居辺」「清澄」「下居辺」の各停留所がありました。昭和16年に下居辺ー居辺12号間5キロが廃止。高島側の主導で敷設された軌道でしたが、運行をめぐって士幌村地内で意見の対立があったようです。昭和23年、植民軌道の役割を終えて廃止になりました。
JR北海道の根室本線「池田駅」
池田駅を下りると広場に大きなモニュメントが建っています。
駅前には池田銘菓「バナナ饅頭」で知られる老舗菓子店・レストランの米倉商店(レストランよねくら)などがあります。池田駅は商店街になっており古い看板建ち並ぶほか、道道73号線を北上すると池田町役場や池田小学校、池田中学校があります。
一方、駅の東側は丘陵の麓に住宅街が広がり、十勝池田税務署や池田神社、北海道池田高校があるほか、駅南東には十勝ワインの醸造で有名な池田ワイン城があります。
池田のワイン城
NHKのプロジェクトXでも紹介されたので、ご覧になった方もおられるでしょう。
戦後、池田町は十勝沖地震や冷害による不作で、今の夕張市のような財政再建団体入り寸前までになりました。
昭和27年、当時の丸谷金保町長が冷害の年でも必ず実る山葡萄に目をつけ「これでワインが作れないか」と考えたのが十勝ワインの始まりでした。
12年の歳月で試行錯誤を重ね、昭和39年ブタペストで開かれた第4回国際ワインコンクールで銅賞に輝き評判となりました。
「ワイン城」というのは、ある町民が呼んだことをキッカケに広まった俗称です。