北海道人のルーツ4 箱館は外国人のたまり場
写真は元町公園の下に位置する旧市立函館病院跡に建つペリー提督来航記念碑。
箱館開港で最新の情報地に
開港されるまでの蝦夷の地は、辺境の島としてしか認識されていませんでした。
古くからオランダ・清国と交流していた長崎をのぞけば、下田と箱館は一夜にして近代文明と接触する、日本でただ二つの関門になりました。
下田はまもなく開港場ではなくなりますが、箱館はその後も長く日本の関門の位置を保ちます。
箱館は開港をきっかけに最先進地帯に転換したのです。
安政2年(1855)に箱館は正式に開港され、条約では薪水・食糧を供給するが燃料の石炭供給の義務はありませんでした。
ところが、外国船の要請で、翌3年釧路のオソツナイで石炭を採掘、4年からは白糠のシリエト(石炭岬)で採掘をはじめ、万延元年(1860)には罪人を集めて寄場を設けます。
しかし、箱館へ輸送する途中に品質が悪化するため、7年後(1867)には岩内(現在の泊村)の茅沼炭山採掘に切り替えました。
それまでは長崎経由の海産物であったものが、イギリス・アメリカなどの商人によって直接、中国(清)に輸出されることになります。
しかし、通商条約にもとづく自由貿易は、長崎会所の流通独占に阻まれて順調ではありませんでした。また、箱館奉行が松前藩以来の流通課税を掛けており、貿易に従事した内外の商人はその課税を免れようと密輸が横行していました。
箱館は外国人のたまり場
箱館は北海道海産物の輸出によって外国人のたまり場となっていきます。
中でも輸出総額の過半を占めていたのが昆布でした。
亀田半島の太平洋側は真昆布の産地で、鎌倉時代から蝦夷地産物の筆頭を占めていました。昆布を制したものが蝦夷を支配するほどの産物でした。
中国への輸出は,清朝の禁令のため二大商社であるデント商会が握っており、このデント商会をはじめとする居留外国商人が競って買い入れるので、価格は暴騰し活況を呈します。
この昆布ブームで活躍したのは松前藩の旧来からの問屋や場所請負人などではありませんでした。新興の仲買商人で、後の函館銀行取締役となる村田駒吉や昆布組合取締に選ばれる柳田藤吉などでした。
函館を訪れると「五稜郭」に行かれる方が多いと思います。
この五稜郭の敷地内に箱館奉行所が規模を縮小して建てられています。
奉行所内には、当時の資料や解説が展示形式で行われており分かりやすくなつています。