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講座 サニテーション学1-5巻完結記念 まえがき「本講座の刊行によせて」 全文公開

講座サニテーション学(全5巻)が完結しました。総合地球環境学研究所「サニテーション価値連鎖の提案ー地域のヒトによりそうサニテーションのデザインー」(サニテーションプロジェクト、2017-2021年度)メンバーによる、人文学と理工学を横断する新たな学問領域としての「サニテーション学」を提示する、国内では例を見ないシリーズです。
これを記念して、編者代表の山内太郎先生(北海道大学教授)によるまえがき「本講座の刊行によせて」を全文公開いたします。ぜひお読みください。


本講座の刊行によせて

 サニテーションとは,主として人のし尿の安全な処理・処分と,そのための施設やシステム,およびそれにともなう場の状態を意味する。国連のミレニアム開発目標(MDGs)終了時の2015 年には,世界人口のおよそ3 分の1(23 億人)は基本的なトイレをもっておらず,2017 年には世界人口の約1 割(7 億人)が野外排泄を行っていたという現実がある。MDGs を後継した持続可能な開発目標(SDGs)においては,2030 年までにすべての人が,設備が整い,かつ適切に運用されているサニテーション施設にアクセスできるようになること,そして野外排泄の撲滅が謳われている(目標6:安全な水とトイレを世界中に)が,2022 年現在で残り10 年を切っていることを鑑みても,もはやこの目標の達成は困難であるように思える。さらに,サニテーションの問題は低-中所得国にとどまらない。下水道管などのインフラの維持,管理に膨大なコストを要する近代的なサニテーションは,人口減少の渦中にある日本においても大きな課題として顕在化しつつある。

サニテーション・サービスチェーン (出典:UNICEF/WHO 2020 を改変)

サニテーションを技術の導入および普及として捉えてきた従来の工学的なアプローチは限界に来ており,発想の転換が求められている。すなわち,SDGs の「誰も取り残さない(No one left behind)」,言い換えれば「すべての人に……」「世界中に……」を達成するためには,一律に標準となったものを世界中のすべての人にあまねく行き渡らせるのではなく,むしろ,それぞれのコミュニティの文脈に沿ったサニテーションを,現地のステークホルダーと共創していくことが重要である。つまり,来たるべきポストSDGs 時代においては,「Standard(標準)を普及させる」のではなく「Tailored(特有)を共創する」ことが肝要となるだろう。

 問題は,ローカルな社会でどのようにして適切なサニテーションシステムを構築し,どのように実施すればよいかということである。排泄行為や排泄物の処理・処分というのは,文化,経済,技術,健康などの多くの領域にまたがる複雑で深淵な問題系である。さらに,世界に7 億人を数えるトイレをもたない(あるいは使わない)人々がトイレを持続的かつ適切に使うためには,意識を変え,行動を変容し,新しい行動を習慣化することが必要である。個人の努力のみでは達成はきわめて難しく,コミュニティに新しい文化が醸成されなければならない。サニテーションは社会や文化に埋め込まれている仕組みであり,さらには文化そのものであるともいえるのである。

 このような視座に立ち,ここに提示するのが,サニテーションを主として扱ってきた衛生工学や公衆衛生学に加えて,文化人類学,生態人類学,倫理学,宗教学,開発経済学,人類生態学,国際保健学,国際政治学,科学コミュニケーションなどのさまざまな学問領域を横断する新たな学問領域としての「サニテーション学」である。『講座 サニテーション学』は,総合地球環境学研究所 「サニテーション価値連鎖の提案:地域のヒトによりそうサニテーションのデザイン」プロジェクト(FR: 2007-2021 年度,No. 14200107)における学際的なメンバー間の議論とフィールドや実験室での研究活動をもとに編まれた。プロジェクトでは,サニテーションを構成する要素,あるいはサニテーションが有する価値を捉え直すとともに,世界の5 つの地域社会において,ステークホルダーとサニテーションの共創を模索した。すなわち,サニテーション学とは,「サニテーションとは何か」をあらためて考えることに始まり,さらにフィールドにおける実践を,可視化や再解釈といったメタ研究によって振り返り,再び実践,というサイクルを繰り返したプロジェクトの奮闘によって生み出されたものである。本講座では,そうした知見をまとめたものとして,サニテーションを統合的に捉える枠組みと,現場の多彩なステークホルダーと共創する新たな社会実践のあり方を示している。

 本講座を踏まえた今後の展望にも触れておきたい。まずは,フィールドにおける共創の取り組みを他のコミュニティに水平展開することである。また,コミュニティからより大きな地域社会,行政区画,国へのスケールアップも課題である。これまでサニテーションの新たな仕組みづくりの挑戦は,そのほとんどが失敗に終わっているが,その大きな原因のひとつはコミュニティにおける共創が不十分であったからではないか。まず「コミュニティ(共)」でステークホルダー,アクターと共創してサニテーションの仕組みをしっかりとつくったうえで,「プライベートセクター(民)」「パブリックセクター(公)」と接続し,連携することが鍵となるだろう。

 さらに視野を広げてみると,地球規模の物質循環,とくに窒素・リン等の栄養塩循環において,サニテーションは重要な役割を担っていることに気づかされる。「食料-サニテーション-土壌-農業-食料……」という大きな循環を考えていくことによって,世界的な気候変動や地球環境問題の解決策や緩和方策の策定に貢献できるだろう。また,空間から時間に視点を変えて,人類の歴史を紐解き,狩猟採集社会,農耕・牧畜革命,都市国家形成,産業革命,そして現代へといたる,人類史におけるサニテーションの変遷についても考えてみたい。さらに人類進化の視点から霊長類と排泄行動,排泄物の処理を比較することによって,人間(ヒト)にとってのサニテーションとはなにか,という究極的な問いにアプローチできるのではないだろうか……。

 サニテーションとは,地球上のどこの場所,歴史上のいつの時代においても,人間の活動と切り離すことのできないものである。同時に,近い将来100 億人を数えると推定される人類の排泄物が地球環境に与える影響は計り知れない。サニテーション学は,こうしたサニテーションにまつわるすべての論点を包含する学問でありたいと考えている。
 
 最後に,初代リーダーの船水尚行先生をはじめ,新たな学問をつくるというチャレンジングな道のりをともに歩んでくれたプロジェクトメンバー,とくに,大変な苦労をして思想の言語化に取り組んでくれた各巻の執筆者に感謝を申しあげたい。また,本講座の編集にあたっては,すべての原稿に目を通して的確なコメントをくれるとともに,温かく(時には)厳しく執筆者を支えてくださった地球研サニテーションプロジェクトのメンバーと北海道大学出版会にも心からお礼を申しあげたい。
 
総合地球環境学研究所「サニテーションプロジェクト」リーダー
山内太郎

(出典:SmileLab北海道大学 大学院保健科学研究院 人類生態学研究室 教員Profile

講座 サニテーション学 全5巻ラインナップ

第1巻 総論 サニテーション学の構築 	山内太郎・中尾世治・原田英典編著 	A5判・198頁・定価3,200円(税別)
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第2巻 社会・文化からみた サニテーション 	中尾世治・牛島健編著 	A5判・256頁・定価4,000円(税別)
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第3巻 サニテーションが生み出す            物質的・経済的価値 	藤原拓・池見真由編著 	A5判・224頁・定価3,500円(税別)
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第5巻 サニテーションのしくみと共創 	清水貴夫・牛島健・池見真由・林耕次編著 	A5判・412頁・定価4,200円(税別)
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