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編集担当Xの拾い読み(2024/11)
國分功一郎『中動態の世界』(医学書院、2017年)
*仕事で読んだ本のメモです
■プロローグ
・「しっかりとした意志」「努力」「責任」という言葉では理解できない依存症の経験についての対話。日本語で話をしていても別の意味体系が衝突している。
■第1章 能動と受動をめぐる諸問題
・行為を「意志の実現」とするのは妥当ではない(無意識→意志→シミュレート)。諸条件のもとでの諸関係の実現と見なすべき。
・能動態で表現される事態は実は能動の概念によって説明されない。「私が歩行する」は「私において歩行が実現されている」と表現されるべき(前者は意志の存在を喚起するが後者はしない)。ただし「私が歩かされている」(受動)とも表現されるべきではない。
・意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のこと。自分以外のものから影響を受けているのにそれらのものから独立しているとみなされるという矛盾を抱えた概念。
・能動と受動の区別はあいまいだし意志の概念は難題を抱えており、依存症患者を「意志が弱い」として責任を問うのは乱雑だが、殺人や性犯罪などの他害行為を考えるとそれらを不要とするのは能天気すぎる。
・【スピノザ】「自由意志の否定」。太陽までの真の距離を知ったとしてもやはり太陽を身近なものとしてひとは表象してしまう。太陽の光と人間の身体が出会ったとき、そのような「効果」が発生する。【アレント】スピノザは「意志が主観的に感じられた能力としては存在していること」は認めている。
・ 能動/受動の区別を何かが効果として発生させていると考えたい。ただの社会的要請ではない。【エミール・バンヴェニスト】かつては能動態と中動態が対立していた。能動/受動の区別を発生させるものは文法上の区別ではないか?【ウィトゲンシュタイン】「私が自分の手をあげる」から私の手があがるという事実を差し引いたときに残るものは?(「意志」を構文のもたらす効果としてとらえようとする視点の提示)。
■第2章 中動態という古名
・受動態は中動態の派生形として発展した。
・【アリストテレス】10のカテゴリー。【バンヴェニスト】10のカテゴリーはギリシア語の文法事項に正確に対応している。中動態=姿勢、中動態の完了形=状態、能動態、受動態。【ストア派】「レーマ・オルトン」「ヒュプテティス」「ウーデテラ」の区別がある。
・【ディオニュシオス・トラクス】『テクネ―・グランマティケー』。中動は部分的に能動(エネルゲイア)を、部分的に受動(パトス)を示し」。
・【ポール・ケント・アンダーセン】エネルゲイアは「遂行」、パトスは「経験」と訳すべきである。エネルゲイア=能動態、パトス=中動態。動詞テュプトーの多義性の例。「メソテース」は例外(活用と意味がずれている事例)を示す。
・アンダーセンの仮説は十分にあり得る。
■第3章 中動態の意味論
・哲学の近年の中動態への関心の発端はデリダ。ディフェランスが中動態だと言ったことで中動態の神秘化に手を貸している。ラカンもバンヴェニストを参照しつつ中動態を論じる。
・「主語の利害関心に関係している」という説明では満足できない。
・【ラトガー・アラン】「再帰的な意味」「受動的・自動詞的な用法」のバランスの良い提示。「主語の被作用性」。
・だが中動態と能動態の対立から見なければならない(バンヴェニストのように)。【バンヴェニスト】ラテン語の「形式所相動詞」は、「形が受動、意味が能動」なのではなく、「中動態のみをとる動詞」とみるべきである。中動態によってしか表せない観念があることを示している。能動態のみの動詞と中動態のみの動詞を抽出して対照させる。「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。「存在する」「生きる」が能動態のみに属するということは驚き。
・この区別は困難も含むが有効である。
・バンヴェニストは能動態を「外態」、中動態を「内態」と呼ぶことを提案する。この区別は意志を前景化させない。
■第4章 言語と思考
・【アレント】古代ギリシアに意志という概念はなかった。
・デリダによるバンヴェニスト批判。バンヴェニストはデリダの言うように思考を言語に還元しているわけではなく、言語が思考の可能性を規定する(素地を与える)と言っている。ソシュール言語学を単純化した言語決定論は思い違いをしており、ある単語が存在しないのは原語の使い手の認識の必要などの個別的な様々な理由がある。バンヴェニストは動詞「ある」がギリシア語においてよく客体化できるという特殊性を指摘した(「ある」が5つの異なる動詞に配分されるエウェ語との比較)。
・デリダは哲学は中動態の抑圧によって成立したとするが、これこそバンヴェニストの仮説である。
■第5章 意志と選択
・アレントによるアリストテレスの参照。行為の端緒はプロアイレシスであり、プロアイレシスを生み出すのは理性と欲望である。プロアイレシス(=リベルム・アルビトリウム)は理性や欲求に導かれて何かを選択する能力であり(理性と欲望の相互作用の下であらわれるものであり)、「意志」ではない。アレントによれば、可能態の考え方は未来を真正な時制として認めていない。
・「意志」は、責任を問うために、選択の開始地点をわたしのなかに確定する(過去から切断された、開始する能力)。
・アレントはこのような無理のある「意志」の概念を擁護しようとする。そのために、キリスト教神学の伝統に訴える(パウロが初めて意志が自由であることを発見した)。アレントによるアリストテレスの「自発的/非自発的」の単純化と印象操作。
・フーコーの権力論を補助線にする。フーコーは、マルクス主義が権力を抑圧として捉えたのに対して、権力は行為させると考えた。暴力関係においては能動―受動の関係しかないが、権力の関係においては行使される側に多少の能動性が残される(「する」「される」の対立で説明できない)。
・アレントは、暴力から権力は生まれないとする。権力は「一致して行為する」能力であり、自発的に実現されなければならない。
・だが、アレントに反論して、「強制ではなく自発的でもなく、自発的ではないが同意している」(非自発的同意)というような事態が日常にあふれていると言わなければならない。純粋な始りもないし、純粋に自発的な同意もない。
■第6章 言語の歴史
・フーコーは「中動態」という用語無しで中動の様態を思考することができたが、「中動態」という用語無しには能動態/受動態対立の言語で思考する者はこれをよく理解できず、権力と暴力を混同する。中動態は便利なカテゴリーだが、なぜ衰退してしまったのか。
・【ジャン・コラール】動詞的構文以前に名詞的構文があった。例:Quid tibi hanc rem narration est?「なぜ君にはこの件についての話があるのか?」。例2:スピーヌム(venio visum(見るために) basilicam Aemiliam.)スピーヌムはもとは名詞だった。「動詞とは発達した名詞である」。非人称構文。動詞はもともとは行為者を指示していなかった。中動態の欠如を補うために再帰的表現が開発された。
・【細江逸記】日本語においては「ゆ」が中動態(「自然の勢い」)を担う(見ゆ、聞こゆ)。ゆ→らゆ、らる→れる、られる。
・細江から外れて「自然の勢い」を自発とは異なる用語として使いたい。「主語が座となる過程を表す中動態は、おそらく、その過程を実現する力の度合いによって特徴づけられるスペクトラムをもつ」。淡白な力の実現=自動詞表現、非常に強い力がゆっくりと着実に過程を実現→自発の意味、実現する力と主語の間に明確な区別がある=受動態など。
・現代英語において、受動態の回帰が見られる(「能動受動態」「中間構文」など)。だがこれは中動態の存在を示すのではなく「抑圧の回帰」として捉えられるべきである。
■第7章 中動態、放下(Gelassenheit)、出来事
・中動態の観点から哲学史を書き直すためのノート。
・ハイデッガーによる「意志」の批判。意志を持とうとするとき、人は過去を忘却する。「放下」は能動/受動の区別(意志の領域)の外部にある。
・ドゥルーズはブレイエに依拠しながら、実体と実体に起こる出来事とを等しく扱う哲学(ストア派)に注目した。属性(例:「切り裂かれた」)は動詞によって表現され得る(物体の表面に出来事がもたらされる)。さらにライプニッツを参照する(「ルビコン河を渡る」という出来事によって、「ルビコン河を渡る」という術語を内包した主語「シーザー」がこの現実世界に発生する)。ドゥルーズはストア派とエピクロス派の対立を動詞と名詞の対立とみる。ドゥルーズは動詞の不定法(出来事を名指す動詞的なもの)を礼賛した。
■第8章 中動態と自由の哲学
・スピノザ。『ヘブライ語文法綱要』。ヘブライ語の「7つめの種類の不定法」(内在原因 causa immanens)(例:自分自身で自分のところを訪れる)。
・神という実体の変状は「afficitur」という動詞によっても説明されるが、これは受動態ではなく、中動態として理解しなければならない(神は自ら発した刺激によって刺激を受けている)。これは神が一つの過程にいることを示している。
・神の変状と同様に、われわれ一人一人の様態の変状もまた中動態的な動詞afficiturであらわされる(afficitur tristitia 悲しみの状態になる)。(過程の自閉性と内向性を指し示す)。
・コナトゥス(様態の諸部分間の関係を一定の割合で維持しようとする力)の本質もまた中動態によって説明される必要がある(conatus, quo unaquaque res in suo esse perseverare conatur(努める))。
・スピノザによれば、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動であり、本質が外部からの刺激によって圧倒されている場合には受動である。純粋な能動も受動もあり得ない。いかなる受動の状態にあろうとも、自らを貫く必然的な法則の認識さえできれば、自由である。
■第9章 ビリーたちの物語
・メルヴィル『ビリー・バッド』の検討。
・ビリー(吃音)、クラッガート(妬み)、ヴィア(過去の反乱という事実)のいずれもが自分の思うように行為できない人物として描かれている。
・アレントによる検討。「法律は人間のためにつくられているのであって、天使や悪魔のためにつくられたのではない」。
・中動態の観点から見れば、3者は完全に受動的であったともいえない。自由を考える余地が残されている。
・自分を思考する際の様式をあらためれば自由に近づくことができるだろう。
(感想)
いろいろな人が「中動態」について言及するようになり、それについてどう思うか個人的に聞かれることもあったので、いまさらながら読みました。読む前は、依存症の人の語る言葉は中動態的?な構文が多く使われるというような話かと思っていましたが、アレントの「意志」概念をフーコー=ドゥルーズ=スピノザを使って批判するという話が大筋でした。スピノザのafficiturのニュアンスについての説明が読んでいていちばんおもしろかったです。ギリシア語とラテン語の文法と言語学的な話については、すでに専門家の批評もあるのでここで書くことはないですが、複数の仮説を保留をつけつつ使い、かつ著者独自の考えも入れて書いているので(バンヴェニストによる区別について、92頁で「主語が動詞によって示される過程の外/内のどちらにあるかを、白黒はっきりさせるように確定することは困難であるに違いない」、細江の「自然の勢い」について、187頁で「細江の用法からは離れて」など書かれている)、自分の論文などで言及するときは、「國分功一郎の哲学における「中動態」のイメージ」のようにしないと、現代思想系以外の人とは話が通じなくなりそうだなとは思いました。