@tana163の作品について論述してみた。女子大生日記①
大学生活を謳歌しています。モノの味方、視点が広がるっていうのは、ほんとに楽しいこと。
先日「論述」の勉強をしました。「論述」の方法をレポートで実践したのがこちらです。評価はナイショ( ̄ー ̄)ニヤリ。この後、試験もあるんですよ。
よかったら、読んでくださいね。
(二日間の公開にします)
札幌の円山公園に、冬は雪で、雪のないシーズンには枯れ葉や折れた枝で作られたアートが4年に渡って出現している。雪で作る「雪ボーイと森の仲間たち」や、木の枝や枯れ葉などを組み合わせて地面に描く動物たちがテーマだ。雪ならば融ける。地面の作品ならば風に飛ばされたり、人や犬に踏まれたり、、人に壊されてなくなり、材料は自然に還る。一期一会の作品といっていいだろう。
70ヘクタールに及ぶ広い公園にアーティスト@tana163がひとりで制作するこれらの作品群は、今や観光客の来園目当てにもなった。ひっそりと佇んでいたアートが、地域の人びとの心に浸透し、地域内の動物園や商業施設といった他の場所にも招聘されるようになったのはなぜだろうか。
まず私は、札幌のバンクシーと呼ばれるようになった@tana163のこれらの作品が、バンクシーの作品のように、ストリートアートと呼ぶものなのだろうかと考えた。ANDART編集部のアート解説【今更聞けないストリートアート】によると、「ストリートアートは、基本的に文字ではなく絵であり、描き手がメッセージ性を込めた絵が多く、その町の住民や道ゆく人、見る人全てに向けられているのが特徴」という。また、ストリートアートが人気な理由として、「理解しやすく、親しみやすい」ところにあるという。例えば、バンクシーの作品は、「誰にでも共通する日常的なトピックを皮肉とユーモアを交えて表現し、鑑賞するのに専門的な知識が必要なくても存分に楽しめる」と解説している。また、ストリートアートの始まりは「エリート主義の否定であり、誰でも自由に見ることができるアートを作ることから始まった」という。 Nicholas Riggleは「ストリート・アートは、ただ街にあるアート作品ではなく、ストリートをアートの資源として採用したものであり、仮にストリートから作品を動かした場合には、その意味が変わってしまう」と述べている。
これらの規定に@tana163の作品を照らし合わせてみた。親しみやすく誰でも見ることができる。雪は彫刻だが、地面上のインスタレーションは、絵のようだ。公園の環境あってこそ生まれたものなので、ストリートアートのようだ。しかし、批判性はなく、メッセージといえば、円山の森の自然からの「季節の便り」であって、社会的なメッセージはないように見える。
しかし、誰もが見られて触れられるということから、@tana163の作品は、公園内のアートとは何かという問題提起を地域住民に起こすことになった。作品を公園内の公道におかれたゴミと考える管理者は掃除することで作品を排除するが、作品を愛する住民は、アートを壊さないでと管理者に問い、議論が生まれた。完成度が高いものに限って来園者が手を加えたりいたずらするとアーティストは言う。アートを勝手に変えたりいたずらするのはなぜか。
このように、「アートとは何か」という根源的なメッセージを発している@tana163の作品は、ストリートアートであると私は結論づけた。
@tana163 は姿を消した作品を「お山に帰った」といい、淡々と作品を作り続ける。この継続こそが作品を、出会いの偶然性を持つストリートアートにしているのではないだろうか。人々は@tana163の作品を見て会えたと喜び、知らない人どおしが他の作品がどこにあるか情報交換をする。冬に「雪ボーイ」や樹木に張り付いたリス、ハート型などを真似して作る来園者は年々増えている。北海道神宮への参道である林とその周辺は小さな雪まつり会場のようになった。こどもたちが枯れ葉の造形を自分でしてみることに挑戦している。
@tana163のアートの出現以後の、この円山公園の光景は、地域社会における芸術の価値そのものである。そしてこういった風景が、地域の動物園や商業施設へと波及しているのも芸術の価値の伝播である。
*参考文献リストは略します。