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昆布はどこからどこへ行く⑦ナガコンブ
沖縄は1972年以前は、日本で一番昆布を食べる県でした。あの富山県!より消費が多かったのです。
市場ではすぐ調理できる状態での昆布が売られていたといいますから、まるで産地状態だったといえましょう。
なんで?
食べる昆布は、ナガコンブ。道東産です。
なぜ、一番東の昆布が一番西の沖縄に?
この、不思議を解こう!というのが私の、昆布を巡る冒険の原点でした。
那覇の伝統料理のお店、美栄さんでいただいたクープイリチー。豚肉、昆布、鰹出汁。優しい上品な味付けでした。わたし史上最高でした。
江戸時代に、なぜナガコンブが琉球王国まで運ばれたのでしょうか。大坂から、積み替えて、別の船で。
利尻昆布は京都で、真昆布は大坂での人気が圧倒的なので、北前船の最終目的地の大坂から別の土地に持っていく分はありませんでした。
18世紀の後半に道東の昆布が大量に北前船で運ばれるようになりましたから、漁の多いナガコンブは多くを占めたと思われます。
じゃあどうして琉球で昆布が必要だったのでしょうか。
琉球王国が昆布を欲していたのではなく、隣の中国で、薬として昆布が必要だったのです。昆布のヨードが欲しかったのです。
今や昆布を養殖している中国ですが、その昔、そんなのは影も形もありません。鎖国中の日本とは貿易できないわけなんですが、両国の間にある琉球王国が「中継貿易地」となったのです。
じゃあ誰が、その貿易商となったのか、ですよね。
火事でなくなってしまう前の首里城です。
もとはといえば、大坂で砂糖と昆布を替えた薩摩の商人が琉球に昆布を運び中国に輸出したといいます。
中国からは漢方薬など、日本の人が必要としているものが入ってきました。
これは大変なビジネスです。
漢方薬ですよ。。
そこで動いたのが富山の売薬さんたちで、薩摩藩に昆布をプレゼント。お返しには薩摩藩内で薬を売る権利と中国からの生薬をゲットしたのです。
関所をフリーパスで通り、顧客データを持ち情報満載な彼らならでは。
写真は富山の老舗の売薬さんです。
砂糖と昆布で財政を立て直し、倒幕費用を貯めた薩摩藩なのでした。
そんなわけでたくさんの昆布の集積地となった那覇には「昆布座」という取引所がありました。
たくさんものがあればそれは、その土地でも使われます。
琉球は昆布の使い方を中国や台湾に倣います。だしにするのではなく食べる。
それは偶然にも、ナガコンブの使い方と重なったのです。
その上、外からの客人を全力でもてなした琉球王国ですから昆布を使った料理は洗練され、料理の発明もあったことは想像に難くありません。
18世紀から盛んになった豚食ともよくあったので、昆布は沖縄の生活に浸透していきました。
1972年の統計で、沖縄の食事がアメリカ化したと結果がでるようになるまでは、昆布は沖縄の料理に欠かせないものになったのです。
沖縄では、蒸し昆布と生昆布が売られていて、
乾いているのに生昆布とはこれ如何に?と考え込んでしまいました(笑)。
正解は、また。別の記事で。
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