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アメリカ、プチ留学の思い出

アメリカへプチ留学を決意
 2001年(古)、一度も地元を出て暮らしたことがないということに気づき、思いついたのが、国際結婚して移住した叔母のいるアメリカ!仕事を即、辞めて、3か月お世話になることにしました。英語力ゼロでしたが、若さで何とかなるだろ!というノリと、叔母の家という甘えもあり、ワクワクしかありませんでした。
 アメリカへの3か月の旅行は、今も昔もビザ免除なので(ESTAもなかった)、航空券の手配、パスポートの期限切れ確認、そしてお土産購入くらいの準備でした。ただ、女子なので持っていきたい洋服で、ラゲージはパンパン、搭乗の際は、案の定、「heavy」のタグをつけられました。ただ、良い点は、昔は(確か)エコノミーでも32㎏までOKだったこと。今は、23㎏。きっちり超過料金とられます。
 当時、イミグレは全く厳しくなく、ニコニコして「さいとしーいんぐ」「すりーまんす」「びじっと あんくる(auntは発音できず諦めた)」で問題なく通れました。今だと、「3か月も何するんだ」「結婚するつもりか」「仕事するつもりか」などなど質問攻めにあいます。(笑)

このあたりにプチ留学

9.11同時多発テロ
 ある朝、叔母さんに「電話よ」と起こされました。電話は、日本の母から、兄弟から、友達から。国際電話高いのに・・・内容は、「大丈夫!?」でした。そう、Sep.11 attacksの日。テレビを見ながら、OMGが連呼されています。ちなみに私は、東ではなく西にいたので、テロの被害にあうことはありませんでした。が、友達と、丁度その日にNYへ行くことにしていたのを直前でベガスに変更したという経緯があり、背筋が凍るとはこのこと、だと知りました。神様、ご先祖様、マジありがとう!を、心の中で連呼しました。

 その1週間後、ペルー人の友達と、ベガスに飛行機で行きました。国内線の飛行機ですが、保安検査場では、私たち外国人はパスポートの提示が求められました。私が見せた際はすんなり通れました。が、ペルー人の友達は、バッグの中身をすべて出されて検査されていました。日本のパスポート最強!だと思いました。
 よく飛行機に乗ったなと思います。が、普通に観光客たくさんで、楽しく過ごしました。・・・ハワイの火災、そして石川の地震もですが、「被災者がいるのに楽しい?」「復興の手助けに」などを含め、いろいろな思いがネット上にあります。発信のタイミングはあるのかもしれませんね。

今も人気の噴水ショー

 アメリカにはアダルトスクールという、移民に無料で英語を教えてくれるクラスがあり、そこに通いました。私の場合、勉強する気はほぼなく(笑)、友達づくりのために行っていました。実際、一緒に旅行に行ってくれることになるペルー人と友達になり、今でも交流があります。
 その学校に、アフガニスタンから移民してきた、それは美しい、同じくらいの年の子がいました。性格はちょいキツメですがなぜか仲良くなり、時々、(私はバスを使っていたため)迎えに来るご主人の車でついでに送ってもらっていました。テロのあと、叔母に「あの子がいい子っていうのはわかる。けど、車に乗ったらダメ」と言われました。学校の先生の話では、その数日後、彼らの家には石が投げ込まれたそうです。そのまま学校に来なくなり、それっきりでした。すごく腹が立ったのを覚えています。そして、何もできなかった自分にも・・・。今だったら何かできるのかな?食べ物を運ぶくらいしか思いつかないな。どうしてるかな?

入国時はスラスラ通れたイミグレ。帰りは念入りなボディチェックがありました。このプチ留学では、他にもたくさんの経験をしたので、また、リフレクションしていこうと思います。
またお読みいただけますと嬉しいです。
Thank you!

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