仏師さんボヤく
夏目漱石の「夢十夜 第六夜」を読み終えて、私は心地よい余韻に浸っていた。
目を閉じれば、この作品で描かれていた情景がはっきりと浮かんだ。
しばし、この至福な読後感を噛みしめていたら、うたた寝をしてしまった。
気がつくと、まったく見覚えのないお寺の門前に立っていた。
ここはどこだろう。
私の少し前に作務衣姿で左手に文庫本を持った男性が、あちら向きに立っていた。
他には誰もおらず、私とその男性の二人だけだった。
いきなり声をかけるのは失礼かと思い、しばらく様子を伺っていた。
周囲を見渡したところ、はるか先に本堂の大きく立派な瓦屋根が見えた。
どうやら由緒あるお寺の様だ。
でもどこかはさっぱり分からない。多分、以前に来たこともなさそうだ。じゃあ、分かるはずがない。場所を知ることは早々にあきらめた。
では、作務衣姿の人は誰だろう。背は私より低いが、がっちりした体格でスキンヘッドの頭頂部が尖っている。恐る恐る横に立ってチラッと見た。
耳が異様にでかい。
そのでかさが私の好奇心に火をつけた。
軽く会釈しながら顔を見た。
いかつい顔の初老の人だった。
目は細いが、眉毛は太く鼻も大きかった。への字に閉じられていた唇は薄かった。
一言でいえば愛嬌のない顔だったが、写真か何かで見た記憶が微かにあった。
しかし、名前が思い出せない。
その人は私など眼中に無く、門の左右にある仁王像と文庫本を交互に見ては、「ちゃうんやけどなぁ」としきりにボヤいていた。本はページを開いて二つ折りにしており題名は分からなかった。
「なにかお困りですか」。
思い切って声を掛けた。
その時、初めて私が横にいることに気付いたその人は、堰を切ったようにボヤき始めた。
「兄ちゃん、聞いてくれ。この二つの仁王像はワシが二十人以上の仲間と一緒に寄木造りでつくったのや。それがワシらの仏像の造り方や。ずっーと、そのこしらえ方や。そやからお寺さんから無茶な納期を言われても、きっちり期日を守れて来れたんや。それをや、この作家さんが、この仁王像をワシ一人で一木を彫って造ったみたいにこの本に書いているのや。仁王像を一本の木で造れるかいな、無茶いうたらアカン。ちゃんと調べてから書かんとアカン。なぁ兄ちゃん、そう思わんか。ホンマ、ワシ困るわ、仲間に合わす顔あらへん。手柄ひとり占めした、言われるわ。困ったわ」と一気にボヤいた後、両手で頭を抱え、しゃがみ込んでしまった。
この人の名前をどうしても思い出せないが故に余計興味津々となった私は、あなたがこの仁王像を造った仏師さんなのですよね、と勢い込んで尋ねた。
「うん、そや。まぁ、名乗るほどでもないけどな。兄ちゃん、ワシのこと知っているのか」、
「はい。なぜか名前がどうしても出てこないのですけれど、すごく有名ですよ」、
「それはうれしいなぁ」、
笑うと急に愛嬌のある顔になった仏師さんは私に聞いてきた。
「そや!兄ちゃん、この本を書いた作家さんの連絡先知らんか」、
「多分その方は、もう随分昔に亡くなっていますよ」、
「えっ!もう仏さんかいな。そしたら文句言わんほうがええなぁ」、
「そうですねぇ、仏師さんが仏さんになった人に文句つけたとなると聞こえ悪いですしねぇ」、
「ほんまやなぁ…」。
仏師さんはしばらく思案顔だったが、「兄ちゃんに聞いてもらって、だいぶ気が晴れたわ、おおきに。もし誰かにこの仁王像のこと聞かれたら、ワシとその仲間達が造った、と言うといて、頼んだで」、
「確かに承りました」、
「そしたらワシ帰るわ」。
仏師さんはお寺の門から外に向かって歩き出した。
私はその後ろ姿に深々とお辞儀をした。
少しして顔を上げた時には仏師さんはもういなかった。
そこには、一冊の本が残されていた。
夏目漱石の「夢十夜」の文庫本だった。
<了>