退職論文②
1章 退職したくなる理由
前置きが長くなってしまったが、ここでは「デジタルネイティブ」と言う側と言われる側の世界観の違いを整理することで、若手が辞めたくなる理由を考察する。世界観—そう、まさに、見えている世界が全くの別ものなのであり、それはつまり信じるものや理想、倫理や常識までが異なるということだ。
例えば、「言う側」が”正解”の判断を年長者や歴史・過去に依る一方で、「言われる側」は”正解”とは科学あるいはテクノロジーが示すものである、と考えているという違いがある(もちろん、一概には言えないが)。いくら同じ地域に育ち同じ言語を話そうが、文化•思想に根本的な違いがあるなら、もはやそれは異文化交流である。そう認識していなければ、まともに話し合うことすらできない。
そこで、ここでは、視点を共有するための参考資料となるよう、比較すること及びその根拠の正確性よりも、「そんな視点もあるのか」という気づきを与えることに重点を置き、10の差異を取り上げたい。
1.常に他と比較され、比較している。
「言う側」だって常に比べられてきた、競争社会を生きてきたと主張するだろう。しかし、「言われる側」が比較する•されるのは、成績や学歴だけではない。人生を比較されるのだ。頻繁に発信する人はもちろん、そうでない人でも、他者の投稿や、広告、ニュースを目にしない日はないだろう。そこにはありとあらゆる人生サンプルが公開されている。
かつて、「公開される人生」とは、明らかにすごい人生たちであった。しかし、富めるものも病めるものも、凄いものも平凡なものも、片っ端から公開されるようになった。その結果どうなるだろうか?「偉人の偉業で自分には縁遠いこと」と他人事に眺められない、手の届きそうな羨ましい人生サンプルに次々と遭遇するようになる。等身大の憧れを目にした場合、自分と比較し彼らにできて自分にできないはずがない、と勇むのも珍しいことではない。
2.常に無限の選択肢が提示されている。
求人サイトを覗いてみれば、軽く数十万件はヒットするだろう。いくら不況でも、「どこにも全く仕事がない」という状況はない。食べ物についても同じだ。街には食べ物が溢れかえっていて、廃棄さえ問題になるくらいだ。あるいはパートナーについても、恋活•婚活アプリを入れてみれば、募集中の人が数万人規模でいることがわかるだろう。何もかも、そこかしこに溢れているか、検索すれば底なしに結果が出てくる。
あらゆる選択に、無限の答えがある。数だけの話でいけば、食べ物も、住む場所も、仕事も、友達も、パートナーも、生き方も選び放題だし、一度選んでも後から何度でも選択し直せるものも多い。「別に、ここじゃなくても、あなたじゃなくても。」そんな意識が根底に流れているし、自分自身もそう思われているという意識が当たり前に染み付いているのだ。
3.膨大な情報の取捨選択:必要なのは”納得感”
言われる側は日々膨大な情報に晒されてきている。とはいえ、言う側も「新聞やラジオ、書籍などで情報にはたっぷりと触れてきた、それも質の良いものに。」と主張するだろう。確かに、情報量が多かろうと質が低ければ、最終的な情報量では劣るのかもしれない。しかし、ここで強調したいのは、触れてきた情報の質×量の比較ではなく、情報への対処の仕方である。
最も大きな違いは、言われる側は、無修正の玉石混交な大量の情報—あるいは平凡な有象無象の大合唱—から必要な部分だけを抜き出して捌いていくことに慣れているということだ。その状態に慣れているとどうなるだろうか?膨大で多様な情報がなく、偏った一方的な情報だけだと安心できなくなる。あるいは、いくら情報を与えられても興味がないものには時間を割かず、自分で選択/取りに行った情報にしか重きをおかなくなるのだ。
言う側はよく、言われる側に与える情報を取捨選択するが、限定公開と、情報統制は違う。確かに、情報とは武器であり凶器である。より知るものが勝つし、何よりも漏れやすい。簡単にばら撒くわけにはいかない。しかし、曲がりなりにも労働者を大事にすると表明している以上、特に労働者に影響する決定について、経営者—「ごくわずかな」「賢い」人たち—だけが大いに頭をひねり議論し考え出した、「彼らの思う」最良の結論だけ与えられても得心できない。我々は、どのような情報をもとに、何がどのように話し合われ、何が捨てられ、何がピックアップされたかを知りたいのだ。協働組織において、決定事項だけを知らされること、プロセスが公開されないのはもはや情報統制である。そのような組織に抱くのは、決断力・リーダーの強さへの安心感ではなく不信感なのだ。
4.自分商品化:「自分の市場価値」を意識する。
1〜3が進むと何が起こるだろうか?一つには、親類や知人同士でもあまり言及を避けるような、さまざまな実態—例えば、年収や仕事—についての情報まで浮き彫りになってくる、ということがある。学歴だけでない、実務能力、実績、人脈などあらゆる角度で、自分の市場価値や全世界における序列なものがはっきりと分かるようになってしまった。かつては一組織内での競争、顔の見える相手との徒競走でよかったものが、もはや誰もが市場にいるのと同じだ。
年齢、学歴、スキル、労働時間、経験…。全てが比較できてしまうなら、自分と似かよう者、あるいは劣る者の現状と照らし合わせ、自身の価値を気にするか、向上させたり高く売ろうとするのは当然だろう。あるいは現状だけでなく、過去の記録との接触も容易になったために、自身の価値の変動について憂慮し焦るのもこれまた当たり前のことと言える。
5.表現欲と承認欲求:食う寝る暮らす発信する
人生は、「見せる」もの—一種の作品と化してしまった。生き方が、芸術となってしまったのだ。あるいは、人生は「見せるため」のものとも言えるかもしれない。その証拠に、「見せるためだけに存在する行為」がますます多くなってきている。それもそのはず、一度、目に見えて評価される、注目される、あるいは多数の共感者を得る—承認欲求が満たされる快感を味わってしまえば、元に戻ることはできない。煙やアルコールと同じである。
人生を「見せる」だけで生きていける人も増え、ますます発信欲は増加する一方であり、誰もが発信しないでは生きていけなくなってしまったし、商品も体験も人生も見せられるものでないと意味がない・存在しないのと同じことになっているのだ。
(発信が増えれば増えるほど、いくら個人や企業が秘密主義、見栄っ張りでも、どこかで誰かがその実態を発信することも珍しくなくなる。だからといって、個人の発信を規制•危険視するのでは逆効果である。むしろその見かけと実態の差異を小さくすること、または構成員そのものや、その生き方さえもブランドの一部あるいは広告の手段とみなし、うまく見せつけていくことに注力していくべきなのだろう。)
6.断捨離世代:生産よりも破壊
言う側は、言われる側たちは苦労知らずだと嘆く。そう、ありがたいことに、言われる側は、言う側の不断の努力の恩恵を受け、我慢とか肉体労働的な苦労はしなくてもいい環境が用意された。我慢も苦労もしてない、ということは、それゆえ、それを必要だとも思わないのである。
それどころか、用意されすぎた、完成した世界をただ享受しているのに飽き飽きし、追加されるだけで一向に減らされない規則に辟易し、自らの作品を打ち立てる隙間もないことに鬱々とし、兎にも角にも過去の人々が構築したものの破壊を第一に考えるのである。
(それも、完成された世界で生まれた者には、世界を新しく創造する力が欠けているということに気づく前に。)
7.最新至上主義:=逆さ年功序列
物は経年で価値を増すが、無形の情報と技術は経年で価値が下がる。
最新こそ良いものとなる情報社会においては、”古き良き”は存在できない。よほどの愛好家でない限り、実用として古いOSを使い続ける人はいないだろうし、そもそもソフトもサービスも何もかも対応しなくなって、サポートも容赦なく打ち切られ、世界から見捨てられていく。「新しいことに対応できないやつは捨てられる」最新至上主義。それが情報社会だ。
意識という点では無形である人間について、最新至上主義が適用されるとどうなるか。当然、年功序列はひっくり返り、「新しさ」が最も評価される構造となるはずである。しかし、儒教に基づいた、上下関係のはっきりした言語話者の集団において、単なる経年の多少による序列やルールは強固に存在する。そこにおいて、最新至上主義が染み付いている者からすれば「年数が短い」だけで軽視されるのが理解できず、実績に基づかない序列に対する不満感が増長する一方であってもおかしくはない。
古い物を大切にしなさいと嗜められても、当の本人がスマホを持っているのであれば、説得力は薄い。スマホは最新の方が価値があり、人は古い方が価値がある、という両立はなかなか厳しい。
8.地球の縮小:常識の混乱
グローバル化は、常識、道徳、マナーの混乱を生じさせる。食事や配席、公衆の場での過ごし方など目に見える部分については、文化間で違いがあるのは周知の事実だ。しかし、厄介なのは目に見えないところで、疑うことすらない無意識の前提や思い込みは、食い違うまで気づかない。
例えば、日本では「大人だ」とは欲望を抑えられる人のことを指すが、欧米では自分の力で自分の欲求を達成するのが「大人」だ。この前提の違いから、「大人になれ」という単純な一言でも指示が逆の意味になるなど、具体的にすり合わせておかないと危険な事例もままある。文化が違えば、共通認識はまずないと思っている方が賢明だろう。
何も世界規模のグローバル化へ言及しなくとも、サブカルチャーの振興、旅行や移住によるローカルルールの拡散や退廃、または個人の発信の影響も十分に大きい。今日、唯一断言できる一般常識は「多様な背景・価値観・常識を持った人がいる」ということだけだ。
かつては地域・組織単位において、共通認識の常識があったため、それに基づく”嗜め”により常識や秩序は保たれてきたが、文化が違うと言ってしまえば、咎めることや強要することもできなくなる。また、最新至上主義においては、常識を破って革新を起こす方が賞賛されたりするようにもなった。もはや「そんなの、常識/当然でしょう?」という言葉を使う人の方が、非常識になってしまいかねない。
9.多世界生活:場所ではなく嗜好によるコミュニティ
オンラインで過ごす時間が増えると何にどう影響するだろうか?さまざまな点が挙げられるだろうが、一つには、意識が肉体を離れるから、物理的な距離感が問題でなくなることがある。それは、家族や近所、学校や会社といった先天的な関係で出会う人間とよりも、嗜好や状況が似ている者との意識レベルでの共有時間のほうが長くなるという現象を生み出した。
物理的にどこにいようと、意識は別の空間で別のコミュニティと交流しているのである。物理的な時間以上に、人間の時間感覚はカイロス時間であるから、意識上だけでの感情や記憶共有でも、物理的に同じ空間で過ごすだけよりも、長い時間付き合っていることになるし、近しい人と思えるのだ。
10.「つながりと所属」概念の変化:知り合う、別れるの簡単化
アカウントやSNSという概念は世界だけでなく、自己も分割または多数化した。ゲームやVR、SNSでの「経験」は、現実の時間・体感を使ったものであり、そこで構築された関係あるいは自己はもはや虚構ではなくなっている。多数のサービスごとに、複数のアカウントがあり、それぞれに異なる人間関係があるのが当たり前で、つまり、多世界で複数の人生を生きているというわけだ。
所属する世界・コミュニティが多ければ多いほど、個々に対する執着心は低くなり、複数の人生があると、一つ一つの人生の重みは軽くなる。嫌になったらやめればいし、ダメになったらまた新たに始めればいい。友達も、アカウントも、ボタン3つくらいで消せるし、新しく作れるのだから。 そうして、サービスにせよ友好関係にせよ、始める・やめるを日常的に頻繁に繰り返しているから、開始と終了に対する躊躇がない。そもそも、繋がりも所属も一時的なものだし、逆に変化がないと、何かを始めたり、終わらせたりしたくなるのだ。