保苅実。「葛藤」
遺品を整理していたら、高校三年生の終わり頃に書かれたエッセイが出てきました。私とミノルは四つ違いですので、彼の高校時代、私は東京の大学に進み一人暮らしをしていたので、一緒に過ごしていません。誰もがもつ葛藤を、彼なりに言葉を尽くして書いています。
葛藤
保苅 実
高校生活ものこりわずかになったが、三年間を振り返ってみると自分なりに随分色々なことを考えてきたように思われる。今回は、それらのことを思いつくままに書きつづってみたいと思う。
自分自身の中で常に迷い結論が出ないことに、人間は善か悪か、即ち性善説をとるか性悪説をとるかという問題がある。現在のところ基本的には性悪説を支持しているが、 これは極めて単純な理由ーー自分は間違っても善人ではない。もしかしたら大悪人かもしれないーーによっている。たぶん多数の人は性善説かそれに近い考えをもっているのではないかと思うが、そういった人たちの自分に対する自信に感心してしまうのである。
僕は、自分が何か立派なことをやると、すぐその下心を疑ってしまう。 かわいそうな人を見て、それに同情すると、その裏で自分じゃなくてよかったと思う気持ちがあるのに気付く。 人より良い成績をとって優越感にひたっている自分を見つけるし、体育で同じチームに運動神経の劣った人がいると、その人を助けたいと思う反面、いなかったらどんなに強いチームになるだろうと思ってしまう。 みせかけの良心の裏にある邪悪な思いをどうしても打ち消すことができないのだ。
自分に正直に生きるためには、このみせかけのー他人に良く思われようとするー善良な(邪悪な) 心を捨てなければならない。その方が気楽で自分らしく心の葛藤なく生活できるように思われるのだが、そんな悪夢のような人間になってもやはり幸福にはならないだろう。みんなで手と手をとりあって支え合って生きてゆくユートピアに憧れる自分もやは本心である。ここにおいて、今度は僕は性善説をとらねばならない。つまり、表面的な良心にゴマカサれて、自分自身の中にある本物の良心が見つからなくなっているだけだという結論である。 ここで本物の良心は、そこいらの慈善団体が訴えているような、甘っちょろい善行では決して証明されない。命がけで人を愛せるかどうかという問題である。 自分が死ねば10人が救われる時、自分の命をなげうって10人を救えるか?10人殺さなければ自分が殺される時に1人も殺さずに自分が死ねるか?つまり人のために自分の命を犠牲にできるかどうかが、その人間の本当の姿となるのだと思う。そう考えると今の僕は確実に悪人である。 とても人のために死ぬ自信などないのだ。善人になるためには、宗教の力を借りるしかないように思われるが、それについてはここでは触れないでおく。
高三の夏休みに祖母がこの世を去った。今まで身内で人が死んだことがなかったので、今回の出来事は僕に少なからぬショックを与えた。日頃あまり関心のない死について考える機会を与えられ、僕なりに様々な思いがあったので、書いておこうと思う。
祖母の死を聞いた時、まず考えたことは、「決して泣いてはならない」ということであった。 これは以前パルセウスで書いた理由もさることながら、自分には泣く資格がないと考えたからでもある。僕は祖母のために何もしなかった。会うのはせいぜい盆と正月で、会話といってもほんの世間話程度であった。 十六年間その程度のつきあいで、死ぬ一年位前に祖母が入院してからは、一度も会うことはなかった。このまま会わずに祖母が死んで自分自身が後悔しないかと何度となく問いかけたが、重度の痴呆になり、 変わりはてた祖母を見る位ならこのまま会わない方が良いと思い、結局次に対面したのは死顔だった、にもかかわらず僕は祖母に対してすまないと思い、孝行らしい孝行を何もしなかったことを悔やんだ。それは決して態度にはださなかったが、心の中で確かに悔やんだ。
僕はこの思いが自分の心の中に現れた時、ヘドが出るほどの嫌悪感を覚えた。 何のため祖母がまだ生きている時に自分に問いかけたのか。死んだ時に後悔しないと自分で確信したからではなかったのか。今頃になって悔んでそれが何になるのか誰のためになるのかーーこんなことで悔んで泣いてはいけないと思った。祖母のために何もしなかった自分に泣く権利はなかった。
葬式のような形式ばった儀式に冷やかな思いを抱き、火葬場で骨になった祖母を見て、霊魂なんぞどこにもないことを確信して、一連の出来事は終った。
どうも世間の人は僕を誤解しているように思われる。「保苅はひねくれもので、人がYESと言うものにNOと言い、人がNOと言うものにYESと言いたがる。」と思われているようだ。これは断じて誤解である。僕は、自分が正しいと思ったことをやったり言ったり書いたりしているだけで何も人と違うことをしようと思っている訳ではない。悲劇にはヒトナミに悲しみ、 良いことがあればヒトナミに喜び、腹ただしいことがあればヒトナミに腹をたてる。ただ僕はその表面的な出来事や感情の奥にある物事の本質が知りたいだけなのだ。人間の心というものは、数直線上に書き表せるほど単純なものではない。 座標軸を何本使っても人の心を示すことは不可能である。だいたい本当の自分がどんな人間なのか言葉にできる人がいるだろうか。自分のことを一番知っているのは自分かもしれないが、僕は自分がさっぱり分からない。 自分の本心がいかなるものなのかいっこうに分からないのだ。これは僕だけではないはずだ。心の奥の奥の底の底を見とおすことは何十年たっても不可能である。本当は自分はいい人間なんだと考えることも逆に自分は本当は悪い人間なんだと思うこともあまりにも容易である。しかし、それを確信することは、よほどのバカでない限り、 まずムリである。そのことに気付いていないか、気付かないふりをしている人があまりにも多い。もっと自分を見つめるべきである。たとえ分からなくとも裸の自分がどんな人間なのかを考えるべきである。そうすれば世の中の見方も変わってくるだろうし、何より人生を味わうことができる。「自分の発見」を僕はライフワークにしていきたいと思っている。
みんなが今幸福か、それとも不幸か、みんな満足しているかそれとも不満か みんな安心しているのかそれとも不安なのか、みんな希望があるのかそれとも絶望しているのか、みんな落ちついているのかそれとも乱れているのか、みんなうれしいのかそれとも悲しいのか、生まれてきてよかったと思っているのかそれとも後悔しているのか、みんな死を怖れているのかそれともちっとも恐くないのか、人のことなんかどうでもいいと思いつつ、やはり気になるものです。