爆発物は取扱注意

若かりし頃というか、まあ今でも気が向いたらやるんですが、私はパソコンでピコピコ作曲するのが好きなんです。調子の良い時はサクサクと1曲完成してしまうんですが、完成直後は「よし!良いのが出来たぞ」としか思わない。ところが、わずか数分も経てば・・・「ここイマイチだな・・・」とか
色々見えてくるんです。ついさっきまで完璧だと思っていたのに、です。

こういうことをよく「粗探し」とか「ブラッシュアップ」とか言いますけど私はそうじゃないと思うんですよ・・・これはですね・・・

単に「主観」と「客観」の違いでしょう。

サクサクと勢いよく1曲完成した。これって楽曲をずっと「主観視」しながら作っていたということなんですよ。誰かに理解してもらおうなんて一切考えず、曲を作るのが好きだから作った。かつて芸術家の岡本太郎氏が言った言葉「芸術は爆発だ!」これに近い感覚で作っていたんでしょうね。

ところが改めて完成品を「腰を据えてじっくり」聴こうとした場合、それは自分で自分の作品を初めて「客観視」するということになるんです・・・
そこで「爆発する自分」と「爆発を見ている自分」の感性が微妙に違っていた場合、さっきの「ここイマイチだな・・・」みたいな違和感に襲われてしまうんです。なんで「主観の自分」と「客観の自分」の感性にズレが生じるのか?同じ自分なのに?私はかつて、そこを研究したことがあります。

結論から言うと、このズレこそが・・・
「洗脳の深さ」を測る物差しなのです!ここで言う洗脳とは、自分がどれだけ「一般化」してしまっているのか?ということ。○○はダサいらしい、○○はアホだと思われてるようだ、○○ではモテないのか・・・などの受け売り知識ですね。それをどれだけ持っていて、どれだけ気にしているのか?

「爆発する自分」こそが「純粋な個性」だと考えた場合、今言った「一般化」という洗脳が元々浅い人、もしくは長年かけて解けてきている人は、
その「爆発する自分」を受け入れ、愛する傾向にある。ズレが少ないからだ

反対に洗脳が深く、長年に渡ってますます洗脳が深まっていってる人は、恐ろしいことに何かを作り始める前から(どうせ自分のはつまらない、面白くない、下手だ)などと自分の個性に嫌悪感を示し、そもそも自分で作品など作ろうとしない。これこそが「一般化」の成れの果て。「爆発する自分」を見ようともしない、自分はみんなと同じでいい。いわゆる量産型ロボットだ

でもね、別に量産型ロボットでも何でも、その人がそれでいいのならそれでいいんですよ。量産型ロボットという生き方もある。
波風立てず、無難に、一般常識に従って・・・全然良いじゃないですか。
尖りまくって、敵をたくさん作るよりは生きやすいと思いますよ?

私は尖りまくりますけどね。生きにくいけどそれでいい。行きたいところへ行って食べたいものを食べてやるし、どう思われようと書きたいことを書いてやる。だって生きにくいと言っても、何百年も何千年も生きにくかったら
私もさすがにロボットやってるかも知れないけど・・・たかが数年~数十年しかないんだから、しっかり動けてるうちに自分という芸術をしっかり爆発させて、悔いなくニッコリ棺桶に入りたいと思います。

冒頭の作曲の話ですが、サクッと出来上がった曲は全くいじらない方が良いですよ。全くね。爆発物は取扱注意です。良かれと思って下手にいじると、それは「一般化」への改悪に他ならないかも知れません。
勢いよく誕生したファーストテイクは、それはそれでコレクションしておいた方が絶対に良いです。それは他のアートでも同じ。絵や写真、動画、オブジェ、執筆、何でもね。学習能力のない私は、馬鹿みたいに散々経験してきましたよ・・・「うわ~これ最初どうやってたんだっけ~!?」って(笑)

それでは今日も美味しい食事を楽しみましょう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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