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タマ。コロ。

 某誌でボツになった短編小説を発掘。
 読めば納得の没作品だが、疫病がはびこる時代にはそこはかとないリアルさが出て妙かもしれない。


 午後四時になった。
 梶浦かじうらは、まだ家事が終わらなかった。
 いつも溜まりに溜まってから片付ける質で、今日は天気も良いせいか洗濯と部屋の掃除とゴミ出しを一遍にこなしていた。

 調子に乗ってキッチンのシンクにうず高く積み上がっていた皿や茶碗に取り掛かったはいいが、三十分過ぎても四十五分経っても洗い物は終わらない。
 スポンジの泡を胸まで飛ばしと水しぶきを顔に浴びながら時計の針と競争していたのだが、遂に秒針に追い越されてしまった。

 ここで中断するのも気持ちが悪い。
 あと十分、いや五分あればすべて終わる。
 インスタントラーメンを作ってそのまま食べる小さなアルミの鍋を高速で磨いていると、チャイムが鳴った。

 ここで時間切れか。
 素早くタオルで手を拭き、インターフォンに向かった。

「トヨキチさん、ごめん。ちょっと遅れるから、部屋で待っててくれる?」

 モニターの中で白髪を短く刈り込んだ眼鏡の男が「了解です」と言って映像は切れた。
 梶浦はキッチンへ戻りアルミの鍋だけ洗い終えた。
 シンクの底にはまだ小皿や箸はしやスプーン、フォークが転がっているが、続きはまたいつか。

 ズボンとシャツを乱暴に脱ぎ捨て、トレーニングウェアに着替える。
 シューズの紐を結びドアを開いたところで忘れものに気付いた。
 灰色のオールバックの髪を掻きながら足からシューズを抜き取って部屋へ戻った。  

 洗面台に置かれていた薄汚れた巾着袋きんちゃくぶくろを引っ掴んでシューズを突っ掛け、マンションの廊下へ飛び出した。

「ごめん、ごめん、ごめん。急に掃除とか始めちゃうとさ。切りがないよね。どこまで行っても終わらない、終わらない。参った、参った」

 1101号の梶浦が1212号の豊吉とよしを訪ねると、豊吉は玄関の前で膝の屈伸運動中だった。

「掃除ですか。うちもしばらくしてませんね。独りだと別にそんなにきれいにしなくてもいいのかなって気もするし」

 じゃ、行きますかと豊吉に促され、二人はエレベーターでエントランスホールまで降り建物の外へ出た。
 これから日課のウォーキングを始めるのである。

「あれ?」
 梶浦は並んで歩く豊吉の一歩前に進んで正面から顔を覗きこんだ。
「トヨキチさん、鼻が赤い」
 傍で見る豊吉の鼻の左斜面が影のように赤く染まっていた。

「いや、鼻の頭に絆創膏ばんそうこうを貼るのもかえっておかしいのかなって。だからそのままにしてますわ」
「えっ、タマかい? 鼻からタマ?」
「今朝、顔を洗っているときにマカダミアンサイズがコロっと」
「トヨキチさん、よく顔から出るよね。僕はもっぱら背中とケツからだから」
「でも、鼻は初めてですよ。わたしの場合、こめかみとあごが多いかな。あとたまにおでこも。首筋くびすじも結構出ますかね」
 笑いながら豊吉は鼻の頭を掻き始めた。

「あっ」
 梶浦は思わず腕を伸ばしていた。
「えっ?」
 と豊吉。

「トヨキチさん、ダメだって。触ると黴菌ばいきんが入る」
「そうですか。どちらかというと、わたしは出るイメージですけどね。タマといっしょに体内の黴菌が」
「浄化、される、みたいな?」
「そうそう。浄化。浄化です」

 住宅街を抜け、二人はコンクリートで固められた小さな川へぶつかった。
 川べりの遊歩道はジョギング、ウォーキング、犬の散歩に適した人気のスポットだが、混むのは早朝と日が沈んでからで明るいうちは人もまばらだった。
 二人は並んで両腕を大きく振って本格的に歩き始めた。
 大雨と台風以外の毎日、午後四時から五時までの一時間ここを歩いた。

 梶浦は若い時分からわずらい、豊吉は定年後に糖尿病の予備軍に編入された。
 二人とも医者から運動不足の改善を求められ、日々のウォーキングを勧められた。 
 それで同じコースを別別に歩き続けていたのだが、ある日、豊吉が前を歩く梶浦を追い越して
「おや?」
「あ、どうも」
 同じマンションの顔見知りだと気付いた。

 顔見知りどころか、分譲マンションの初代管理組合理事長と初代副理事長の関係だった。
 話すのは十数年ぶりだったが、境遇が似ているせいか急速に仲良くなった。
 同い年だが、学年は豊吉がひとつ上。
 背格好も白髪の具合も、まあまあ似ている。
 梶浦が頭頂部だけ、ぽっかりと剥げているのはご愛敬。
 互いに子供がなく、妻もいない。
 もっとも梶浦は熟年離婚、豊吉は死別の違いはあった。
 豊吉は私立小学校の教頭、梶浦は大手食品メーカーの系列会社のヒラの取締役と、職種は別世界ながら、ポジション的にちょっと近いものもあった。

「で、トヨキチさん。今日、何個?」
 梶浦は巾着袋をブラブラさせながら言った。
「わたし、三つです」
「僕、四つ」
 勝った、と小さくガッツポーズをする梶浦。
「いや、勝ってどうする」
 二人は毎日「タマ」の数を競っていた。

「これで梶浦ゼネラルフーズの111勝55敗145分け、か。メジャーベースボールならとっくに優勝しているかな。しかし、勝ってどうする」
「カジさん。それは言いっこなしですよ」
「まあトヨキチさんの考えに従えば、タマの数だけ浄化が進んでいるという見方もできますかね。ここはそう思っておきましょうか」
「そうそう。何て言いましたっけ? 英語で」
「英語? イングリッシュ?」
「でー、でーと? でーた?」
「ああ、デトックス、デトックス」
「デトックス!」
「僕はセックスのほうが好きだけどね」
「いや、セックスはもう古いですよ。時代はデトックスでしょう」

 二人はいつものように談笑しながら歩き続ける。

 眼下に流れているのは横にあるべき川原が縦に切り立って、川岸から川底までコンクリートで覆われた川紛いの溝だったが、今日は川上からいい風が吹いてくる。

 二人は上流へ上流へと歩いていった。

「『傷だらけの人生』と『傷だらけの天使』をよく間違えます」
 息を弾ませながら豊吉が言った。
「『傷だらけの栄光』はポール・ニューマン」
 ピンポン玉でも打つように梶浦は返した。
「古いものだとお思いでしょうが古いものほど新しいものを……これって、高倉健たかくらけんでしたよね?」
「えー。鶴田浩二つるたこうじだよ。豊吉先生、しっかりして下さいよ」

 右隣を歩いていた豊吉が不意に消えた。
 梶浦が振り向くと二メートルほど後ろで立ち止っていた。

「トヨキチさん?」
「カジさん、あれ」

 梶浦は豊吉が見つめる先を見た。
 川の向こうにある庭がついたそこそこ大きな一軒家が黄色いテープで囲われている。

「ありゃー、あの家も」
「よく風呂場から子供の声が聞こえていたの、確かあそこですよね」
「ああ、そうだそうだ。聞えなくなったもんな。そうか、逃げたか」
「逃げましたね」
「いいお家なのに、もったいない、もったいない」

 二人はややペースを落としてまた歩き始めた。

 この川沿いだけでも七、八軒、黄色いテープで囲われた家や土地がある。
 一定期間居住者が確認できない不動産は所定の手続きを経て国の資産に替えられる。

「いずれ競売けいばいですかね」
「僕が買おうかな。金は元家内だった人から借りてさ。あいつ、現金ごっそり持ってったからなあ」

 ミートボール症候群発生以降、首都圏を離れる住民が続出。
 この区でも三十万いた人口が一時は半減して自治体の維持が難しくなった。
 財産没収をチラつかせて人々を土地に縛りつけようとするトンデモない悪法と憎まれているが───

「どうかな。僕はやむを得ない措置そちだと思うよ」
 梶浦の意見は違った。
「現実をきちんと見つめた結果、編み出された政策だと言わざるを得ない。僕が政策立案者でもそうするかなあ」
「苦肉の策ですかね」
「うまいこと言うなあ。トヨキチさんに肉布団三枚やっとくれ」

 川が右へドッグレッグする通称大曲おおまがりまで来たところで、また豊吉が立ち止った。

「先生、今度は何ですか?」

 豊吉が河川側の鉄柵にへばりつくようなわずかな草むらを凝視している。
 梶浦は溜め息を吐いて、また二メートルほどバックした。

「うわっ、何や、これ」
「しー」
 豊吉が人差し指を立てて梶浦を制した。
 そして、今しがたすれ違った犬と飼い主のほうを指した。「えっ? はっ?」
 梶浦はわけもわからず、五メートルほど後ろで塀の匂いを嗅いだまま動かない中型犬を引き剥がしている飼い主と、豊吉の足元でうごめいている何かを交互に見るしかなかった。
 草の陰で小動物の腹のようなものが見え隠れしていた。
 犬と飼い主が散歩に戻った瞬間、草むらからそれが飛び出した。
 梶浦も思わず飛び上がっていた。

「む、虫? か、カエル?」

 豊吉はただ笑っている。
 よく見ると、その物体は釣り糸のような細い繊維で飼い主と繋がっていた。
 糸はジーパンの裾から出ているようだ。

「あれ、ミートボールなの?」
「そのようですね」

 三十代後半くらいの男の身体のどこからか転がり出た血肉玉ちにくだまが、そのまま糸でくっ付いて本体と共に動いているのだ。

「たまげたな。犬だけじゃなく、タマもお散歩か」

 梶浦は初めて見たが、豊吉によると別に珍しい現象ではないという。

「あんなに長くはならないけど、わたしのタマもよく糸を引きますよ。朝起きるでしょう。知らずに顎からブラーンと垂れ下がったりすると、これが結構痛くてね。ひげを抜かれるみたいに」
「僕のはただコロコロ、ポロポロ、皮膚ひふからこぼれるだけだからな。色もサイズも鹿のふんみたいで、朝ベッドに転がっているのを見ると僕の糞かと思うよ」

 角質かくしつの異常説。
 良性腫瘍しゅようガングリオン説。
 聖書に出てくる伝説の奇病説。

 諸説あれど気味が悪いだけで命に別条はないことだけは確かなようだ。
 とはいえ、女性は極度に恐れ最初の一年で首都圏から姿を消した。
 血肉玉は皮膚の上で勝手に育ち勝手に千切れて果実のように落ちるため出来てしまったら放っておくのが一番だった。 
 ただ子供のタマは毛細血管が元気で稀に巨大化して手術になる場合もある。

ミートボール症候群」────。
 命名したのは週刊誌のライターらしいが、食品業界の猛反発でマスコミではもう使わない約束になっていた。

 流行り始めて五年になる今も、なぜ東京神奈川埼玉の首都圏だけで発生するのかわかっていない。
多摩地区」「多摩川」「埼」「たまプラーザ」……なるほど関東にはタマがつく地名が多い。言霊ことだまを信じる人なら気になるはずだ。何しろコトダマと言うくらいだから。
 平将門たいらのまさかどを始めとする関東平野に染み付いた報われぬ「タマ=魂」たちの霊障れいしょうが原因だと主張する霊能者もいる。
 他には、東京一極集中を崩そうと政府がドローンで空から何か撒いているとか、外国勢力が一等地を安く買い叩くために気象兵器で何か撒いているとか、陰謀論を唱える人の頭の上にはいつも何かが降っているらしい。

 首都圏から離れれば症状が収まるため、原因は空気か水か東大の研究所から漏れた未知のウィルスか、特定は難しそうだがたぶんそんなところだろう。

「まだ若けりゃ、北海道あたりに移住ってのも選択肢だけど、この年になって動くのも、何だかなあ」
 梶浦は空を見上げて言った。
 空はまだ青く、明日も晴れそうだ。
「別に独り身だから、動けないこともないですが、ここへ来て人生変えるのも、ねぇ」
 豊吉も空を見上げる。
 目に見えない何かが本当に降っているのかもしれないが、別にという感じだ。
「マスコミが、さ。ミートボールなんて下司げすな名前をつけて騒ぐから女性がみんな逃げちゃうんだよ。エコでおしゃれなデトックス玉とかにしておけよ、な」
「あ、カジさん、車が……」
 話に夢中で、右から来る車列に気付かずに踏み出そうとする梶浦の胸を豊吉が押さえた。

 二人は四車線の幹線道路を前にしていた。

 遊歩道はここを突っ切ってまだ続き、最終的には寺に隣接する割と大きな公園に行き着いた。

 公園にある池がこの川の水源にあたるのだが、二人が池をウォーキングの折り返し地点にするのはせいぜい週に一度か二度。
 つまりタマが出ない日に限られた。
 タマが出た日は、幹線道路は渡らずに右折して区の地域事務所の駐車場に建てられたプレハブの「医療廃棄物臨時集積所いりょうはいきぶつりんじしゅうせきじょ」へ向かう。
 最近タマは医療ゴミ扱いが常識になりつつある。
 二人が住むタワーマンションでもトイレに捨てて詰まらせたり生ゴミに混ぜるなどトラブル続きだった。
 タマの正しい捨て方についてメールコーナーの掲示板で注意を促してはいるが、所定の場所までわざわざ捨てに行くのはまだまだ少数派だった。

 

 集積所への近道になる住宅街の路地に入ったときだった。
 梶浦の右耳を掠めるように飛んでくるものがあった。
 そちらを向くと今度は頭の左側をひゅーんと鋭い風音を立てて飛んでいった。

 何だ?

 スズメバチ?

 思わず頭を低くした梶浦のすぐ横のブロック塀にぶしゃっと何かがぶつかり弾け飛んだ。

「カジさん、子供だ」
 豊吉が路地の奥を指さした。
 角から小さな顔が覗いていた。
 「こらっ」
 梶浦は走った。
 後ろを振り返りながら逃げる子供を追いかけ、たちまち上着の肩をふん掴まえた。
「キミ、どこの子だ。パチンコなんて危ないじゃないか」
 強引に腕を引っ張って豊吉のところまで連れてきて詰問が始まった。
 子供の親が見たら一悶着起きそうな場面である。
 少年は十歳くらいだろうか。
 おもちゃのパチンコを手にしたまま、こちらとは目を合わそうとせず、下を向いたり首を傾げたりしていた。

「おい。こら。こっちをちゃんと見なさい!」
「カジさん」
 豊吉が間に入って止めた。
「ほら、あっちにも狙撃兵」
 路地の反対側からも別の子が覗いていた。
 豊吉が「こっちにおいで」とうながすとおずおずと歩み寄ってきた。
 こちらは手首を固定する器具がついた高級パチンコを手にしていた。スリングショットというやつだ。

 話を聞くと、別に狙われたわけではなく、彼らの撃ち合いにおじさん二人が巻き込まれただけのようだ。

「タマ、見せてくれる?」
 豊吉は元教師らしく子供慣れしている。

 梶浦に睨まれすっかり委縮していたもう一人も豊吉には素直に従いプルオーバーのポケットを探ってポリ袋を引っ張り出した。

「見てみなよ、カジさん」

 中には肌色で瑪瑙めのうのようにすべすべしたタマが七個入っていた。

「これ、キミのタマなの?」
「キミのミートボール?」
「本当にキミの身体から出たものなの?」

 小学四年だという少年は、不安そうな面持ちでうなずいた。

「おじさんたち、これから集積所にタマを捨てに行くところなんだ」
「汚いし、危ないから、このタマを使うのはもうやめにしなさい」
「これ、おじさんが預かっておくね。一緒に捨ててきてあげるから」

 少年たちはもう怒られないとわかると最後は少し笑顔になって路地の向こうへ歩いて消えた。

「自分のタマで撃ち合うとは、子供は遊びの天才だね。ただ数を競っていた己が恥ずかしい」
「肉弾戦ですね」
「うーん。いまいちだな」
「家に籠こもってゲームばかりしているよりは、よほど健康的だと思いますよ」
「おっ、凄い」
 梶浦は子供たちから取り上げたタマを袋の上から触ってみた。
「僕らの硬いタマとは大違い。男の子のタマって柔らかいんだ。ほら」
「確かに不思議な感触だ。これで遊びたくなるのもわかりますよ」
「タマは奥が深いね」
「うん、タマは奥が深い。何かそんな名前のドラマ、昔ありましたよね」
「あったあった」
「アメリカのシットコムで」
「でもダーリンがダーリンというのはどうかと思うね」
「サマンサタバサのバッグ持ってる人は元ネタ知ってるんですかね」
「僕にもタマンサみたいな奥さんと、タマサみたいな娘がいたらなあ」
 二人は見つめ合い、同時に言った。
「奥タマは魔女!!」
 二人はハイタッチを交わすと、また並んで住宅街の路地をタマの集積所へ向かって歩き始めた。


川沿いの遊歩道で見かけた
悪の親玉のさらし首
暗黒面に墜ちた魂のなれの果てか


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