モルトモルテ Molto Morte 其の労苦⑥
14. 鬱血織り姫と血色悪い王子
京浜急行電鉄久里浜線・YRP野比駅を降りると野比のび太の家があるという。そんな馬鹿な。
「おれの二十四番目の女・アンジェラがそう言ったのだ。いつか確かめようと思っている」
「アンジェ……日本人よね?」
「ああ。岡山出身でclubシャングリラのナンバー2だ」
「YRBって?」(1)
「寄る辺なき、野比のび太。この世で最も無力で惨めな存在」
「真面目に」
「知らん。たぶんYMCAみたいなものだろう」
「また英語塾。英語のない世界を。ドラえもーん」
「タケコプターも、どこでもドアも、いらない」
世良彌堂が赤錆びた太い鉄柱に寄りかかった。
「頼むから、こいつを動かしてくれ」
丘の上まで数十メートル間隔で同じ鉄柱が立っていた。冬期はこれにワイヤーロープが張られリフトが吊るされる。
「おれはもう疲れた」
「わたしだって疲れたよ。もうこの辺でいいでしょう?」
「いや、まだだ。まだ高度が足りない」
鎌倉の病院を訪れ、チホの実家へ直行した日から三日後のことである。
今二人が立っているのは傾斜角二十五度の元スキー場。
眼下にはすっかり寂れた長野県野沢温泉村の集落が広がっていた。
二人は新幹線とバスを乗り継いでここまでやって来た。
世良彌堂は鎌倉の病院の背後を探っていて、この地を突き止めた。
若年層の減少で昨今のスキー場はどこも閑散としている。スキーリゾートとして発展してきた野沢温泉は特に打撃が大きい。
アジア新興国への売り込みもうまくいかず、シーズン中でも稼働率が軒並み五十パーセントを切っていた。
初夏を迎えた温泉村には、高原の緑と眩しい光があふれていたが、ひとけはほとんどなく、閉まっている宿もちらほらと見受けられた。
「わたしはもういいでしょう? ここで待ってるから、彌堂君だけで登ってよ」
「ダメだ。一緒に来てもらう」
世良彌堂の頬はほんのりとピンクに染まって、いつもより血行がよく見える。被っているベースボールキャップが白のせいもあるが、やはりこの斜面がきついのだ。
「何で? 登ったって、わたしの目じゃ何も見えないよ」
「おまえが来ないと、おれの話し相手がいない」
「寂しがり。コドモ」
「殺す。すべてが片づいてからな」
「コドモ」
「ふん。今は生かしておいてやる」
関東各地で倒産した温泉宿を買い漁っている企業がある。買収した建物を高いフェンスで覆い、特に改装もせず、営業も再開させず、閉鎖したまま放置しているという。
世良彌堂はそのうちの一か所が、ここ野沢の元温泉ホテルであることを突き止めた。
「……真実を貫き通す〈万物を丸裸にする目〉の類稀な眼力と洞察力によって」
「疲れるからやめて」
元温泉ホテルを買い取ったのは「株式会社ブラッドウィル」。あの鎌倉の療養施設の運営母体でもあった。
そればかりではない。
ブラッドウィル社は、千葉県南房総にある「龍翔会・医療法人社団 きりこし総合病院」の系列企業。総病院長・霧輿龍三郎は現吸血者協会理事長・霧輿龍次郎の実弟である。
「別に普通だと思うけど」
「けど、何だ?」
「だから……」
チホは立ち止って額の汗を拭いた。傾斜がきつい上に、草が滑って歩きにくい。こんな山登りになるなら、もっとしっかりしたアウトドア向きの靴があったのに。
「鎌倉の病院みたいなのをあっちこっちに造るつもりなんでしょう。イトマキ症まだまだ増えそうだし。高齢化社会で脳神経外科とかリハビリセンターが潤うのと同じ理屈よね。ちょっと商魂逞しいとは思うけど、普通じゃない」
「おまえには直感というものがないな。表の世界と裏の世界が、怪しい兄弟で繋がっている。何かあるに決まっているだろう」
「霧輿さんは理事長だから、それは何かあるでしょう。理事長権限の随意契約のファミリー企業で、一儲けとか。そんな利権構造、別に普通じゃない」
「おまえ、大丈夫か? 急激に語彙が複雑化してきたようだが」
「このくらい社会の常識でしょう。今まで幾つの会社で働いたと思ってるのよ。コドモ詐欺師と一緒にしないで」
「まあ、いいさ。おれは協会を私物化する霧輿一派を告発したいわけではない。協会及びおまえたち協会員がどうなろうと知ったことではないからな。だが、やつらの振る舞いには不審な点が多い。ここには何かある。イトマキ症をめぐる巨大な謎が隠されている。それが知りたいのだ」
「ふーん。いくら探っても、霧輿さんのお金儲けしか出てこないと思うけどな」
「じゃあ、何故ついてきた?」
「え」
「気になるのだろう。おれの〈万物を丸裸にする目〉が見通す先にあるものが。庶民には計りしれないこの世の真の姿が、な」
「何言ってるのよ。あんたがしつこく頼むからついて来てやったんじゃない。保護者だよ、わたし。確かにこんなところで子供がふらふらしてたら、たちまち補導されちゃうからね」
「ふん。じゃあ、せいぜい付添らしくおれの世話を焼くことだ」
もういいだろう、と世良彌堂。
チホも斜面に立ち止まってホッと息をついた。
ここは夏草が茂り始めたコースのちょうど中ほどだ。
二人は改めて温泉村に目をやった。
チホの目には点在する大小の温泉宿の影がぼんやりと映った。そのうちの一つ、青いフェンスで囲われている中規模のホテルがターゲットだ。
「どう? 見えるの?」
「うむ。なるほど」
「ねえ。どうなのよ。何が見えるの?」
「よし。わかった」世良彌堂は真顔で振り向いた。「もう少し上に行こうか」
やだ、とチホは断る。もう無理。
ただ立っているだけでも体力が石ころのように転がり落ちていく斜面である。
「困ったやつだな。じゃあ、おまえの手を貸せ」
「手?」
「右だ。シオマネキの出番だ」
てのひらに載って、建物をもっとよく見たいという。チホに火の見櫓になれというのだ。
「詐欺師、靴脱げよ」
「これはすまない。庶民はそうするのだったな」
帽子とお揃いの白いハイカットのスニーカーを脱ぐ世良彌堂。それを忌々しげに見下ろすチホ。
「落っこちても知らないからね」
「そんなドジは踏まない」
世良彌堂はチホの肩に手を置き、チホの右のてのひらに、幅の細い小さな片足をかけた。
「やってくれ」
「何でこんな山で大道芸をしなきゃならないのよ」
チホが持ち上げた。
世良彌堂は両手を広げ、片足を軸にバランスを取った。
世良彌堂が両足を揃えて、てのひらに直立すると、チホはその手をそっと高く掲げていった。
「どうなの?」
世良彌堂は黙っている。チホは見上げたが、日射しが眩しく何も見えない。
「ちょっと、教えてよ。そこから、何が見えるの?」
「少し、黙っていろ」
「腕が疲れたんだけど。あと十秒ね」
「……何てことだ」
「教えて。言わないと、丘の下までぶん投げるよ」
「アリの巣を見たことがあるか?」
「あるけど」
「巣を壊したことは?」
「あると思うけど……それが?」
「崩れた巣の中で、働きアリが豆粒みたいなサナギを抱えて、右往左往していただろう?」
「回りくどい。見たままでお願い」
「何てことだ……」
嘆息する世良彌堂。それきり黙り込んでしまった。
「自分だけ、ずるい……」
「まずい」
「今度は何?」
「双眼鏡でこちらを覗いている男がいる……指示を与えている……これは、まずい」
「どうなってるの?」
「降ろせ」
「もう、勝手すぎるんだけど……」
チホが降ろすと世良彌堂が緑ざめていた。ただでさえ青白い顔が、更に血の気が失せて緑色っぽくなっていた。
「逃げるぞ」
虚ろな目でチホを見上げる世良彌堂。〈万物を丸裸にする目〉から動揺が透けて見えた。
「逃げる?」
「もう遅い。見ろ」
世良彌堂が指さすほうを見ると、何かこちらへ飛んでくるものがあった。
「何、あれ?」
「ドローンだ……」
何枚かプロペラが回転しているでっかい虫みたいな飛行物体が丘を登ってくる。
「農業用のものらしいな。攻撃用に改造しているかもしれないが」
「写真とか撮られるのかな」
「写真は殺してからでも撮れる」
「まさか」
ドローンは想像以上に早く、たちまち二人に追いついてしまった。
「ちょっと、逃げなくて平気なの?」
「おもしろい。どこへ逃げるんだ?」世良彌堂が諦めの笑顔で答えた。
攻撃が始まった。
ドローンがブンブン、ハチの大群みたいな唸り声を上げながら、低空で二人目がけて突っ込んでくる。と同時に、何か黒っぽい液体を噴射していった。
チホは、きゃーきゃー言いながらあたりを逃げ回った。
世良彌堂は動かない。
噴射を浴びながら、無言でドローンを睨みつけていた。
数分後、二人とも同じくらいに黒く汚されてしまった。
「もう、何なのよ。真っ黒けじゃない。嫌がらせ? どういうこと?」
チホは息を切らせながら呟いた。
「この黒いの、何? 絵具? 墨汁? イカ墨?」
「では、ないだろうな」
世良彌堂の帽子も靴も汚れ放題だ。
「即効性ではない猛毒なのか。さもなければ、遅効性の猛毒なのか」
二人は去っていくドローンを見つめた。
ドローンは残りの液体を捨てるようにノズルから黒い飛沫を噴射しながら丘を降りていった。
丘の下に車が止まっていた。
車の横に立ち、ゲーム機で遊んでいるように見える人が、ドローンを操作していたのだろう。
「抗議してこよう」
「それより、辞世の句でも考えておけ」
丘の下にトラックがやってきた。
三台停まって、中から人がわらわら降りてきた。
全部で百人は下らない。
丘をゆっくり、ゆっくり登り始めた。
「ちょっと……」チホはあとずさった。「ちょっと、ちょっと、やばいんじゃないの」
「総勢111名」
世良彌堂が〈万物を丸裸にする目〉で即座に数え上げた。
「いや、112か」
「人数はいいから。あの人たちは何なの?」
「おそらく、この温泉村の皆さんだろうな」
「何で、こっちへ来るの?」
「なるほど。これは土か」
黒く染まったシャツの袖を凝視する世良彌堂。
「土壌のエキスを濃縮した液体だ。考えたな……」
「感心しないでよ。あの人たちって、ドンビ? やばいじゃん。食べられちゃうじゃん」
「最期の最期に頭が冴え渡ったな。誉めてやる。ドンビをゾンビ化する裏技が、これだ」
チホはバッグに手を突っ込んでスマホを取り出そうとした。
「まさか、とは思うが、長野県警に助けを求めるつもりか?」
「そうだけど、何で?」
「おまえが千葉県民である時点でアウトだろう。長野は西関東連合体で東京寄りだからな。おまえを助けたら減点される組織だ。動くわけがない」
「そんな」
「ここ数年間の北アルプス、中央アルプス、南アルプスの山岳遭難者のリストを見れば明らかだ。西関東連合体以外の遭難者はほぼ全滅している。助ける気などないのだ」
「待って。わたし、これ持ってる……」
チホはショルダーバッグから忌避スプレーを取り出した。
「これがあれば」
「フロンガスR22か。千葉県以外ではご法度の物質だ。長野県警が黙っていない」
「これを振りまいて、その隙に下へ逃げよう」
「いい作戦だが、無駄だろうな。やつらの鼻を見ろ。見えないのか。鼻の孔に何やらプラグのような物体が差し込まれている。おそらく、フロンに反応しない処置が施されているのだろう」
「じゃあ、もう上に逃げようよ、上に。早く!」
「戦わないのか? おまえにはシオマネキの右があるじゃないか。土に飢えた温泉村の村人をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「無理だよ、あんな大勢」
「そこの鉄柱を引き抜いて、大立ち回りを演じてみろよ。協会が映画化してくれるかもしれない」
「もう、真面目に! そうだ。これさ、服を脱いだら、いいんじゃない? 顔も、きれいに落としたら、あれ?」
顔を手で拭うと更に黒く汚れが広がってしまった。
「脱げよ。斜めの草原を真っ裸で逃げ回れ。おれ以外の皆さんはきっと大喜びだ」
「ねえ。どうするのよ。わたし、嫌だよ。こんな田舎の斜面で死ぬの」
「だから、辞世の句を考えろ。一世一代の名句を。時間はまだある。丘の天辺まで逃げるのもありだ。くたびれ儲けになること請け合いだが」
「彌堂君!」
「おまえの自由にしろ」
「もう……あんたのせいだよ……」
「悪かった。諦めろ」
チホが地面を探り始めた。
「おい。落とし穴でも掘るのか?」
「あんたも探して。石よ。石!」
「石? あいつらに投げつけるのか?」
「お弾き。右の指で弾くの」
「ほう。おまえ、指弾ができるのか。それを早く言え」
世良彌堂も石を探し始めた。しかし、元ゲレンデの叢には石がまったくない。
「何でもいいのよ。ビー玉でもパチンコ玉でも……」
「うん? これは何だ?」
世良彌堂がポケットから何か取り出した。
「ピスタチオだ。殻が割れなかったやつだが、いつの間にポケットに?」
貸して、と世良彌堂の手から奪って、左手に載せ、チホは一番接近しているコック帽を被った板前らしい男に照準を合わせた。
「まだちょっと、遠いかも……」距離は約二十メートル。
「ええい、行っちゃえ!」弾いた。
頬骨にびーんと当たった。顔をのけ反らせる板前。
「やった!」
板前は一瞬、立ち止ったが、また動き始めた。
「まるで豆鉄砲を食ったような顔だ」
「全然ダメ。もっと重いやつ。石よ、石。何でここには石がないのよ!」
「万策尽きたな。ほかの可能性はすべて検討済みだ」
「あった! え、軽石かよ……」
「もう諦めろ。民衆に殺されるのも、貴族の仕事のうちだ」
「王子は黙って死んで。わたし、庶民だから」
「おまえも民衆の生血を啜って生きてきたのだろう。殺される資格はあるさ」
敵の先頭集団が十数メートル圏内まで近寄っていた。
仲居さん風、温泉コンパニオン風、旅館の袢纏を羽織った従業員風のドンビたちが、やや前傾姿勢で叢をずりっずりっと迫ってくる。
世良彌堂は目を閉じて黙って立っている。チホは丘の上まで逃げようか迷っていた。じわじわくる敵なのでぎりぎりで逃げてもまだ間に合う。
「……野沢菜や 温泉饅頭 土饅頭。うーむ。野沢菜や 温泉饅頭 ピスタチオ。彌堂。まあまあか。野沢菜の、いや、湯煙りの、夏風や、夏嵐……」
本当に辞世の句をひねっていたようだ。
チホがやけくそ気味に靴先で地面を穿っていると、電話だ。非通知。
「はい」スマホを片手にチホは石を探す。「誰?」
「チホ。伏せて。セラミド君も伏せさせて。吹き飛ばされないように気をつけて」
「何? どういうこと?」
スマホの画面に青白い女子高校生の画像が浮かび上がっていた。
「世界は電気で繋がっているんだよ」
画像が舌を出してウインクした。
ズッどーん、と丘の上のほうで大きな音がした。
振り向くと、尾根を走る高圧線が青白く光っていた。
バリバリバリバリバリ、と青い火花が散った。
グゥごおー、と耳をつんざく風音が響いてきた。
「彌堂君!」
チホは左手を伸ばして、世良彌堂を引き寄せた。二人は叢に倒れ込んだ。
ぶおーん、うぉーん、うぉん、うぉん、おんおん、と大きな空気の塊が二人の上を追い越していった。
チホが叢から顔を上げると、ドンビが数体、ばたん、ごろん、と斜面を転がり落ちていくのが見えた。
ほかはすべて丘の下で吹き溜まりになっていた。
停まっていた車は、土埃の中を数回転してちょうど止まったところだ。
トラックも一台横倒しになっていた。
チホは立ち上がった。
振り向くと、丘の上の高圧線の鉄塔が一本、青白く燃えていた。
天に向かって半透明の巨大な制服姿がそびえていた。
「見たか! 庶民ども」
世良彌堂が立ち上がった。
「これがカミカゼだ!」
わー。
叫び出す世良彌堂。
「彌堂君!?」
「走れ! チホ! 地の底まで駆け抜けろ!」
わー。
キャップはどこかへ吹き飛ばされて、金髪の巻き毛を振り乱した少年が、斜めの草原を跳ねるように駆けていった。
チホは丘の上の巨大な女子高校生に手を振った。
わー。
チホも叫びながら走り始めた。
夏草の傾斜を駆け下りていく世良彌堂の姿が、すでに豆粒のようになっている。
小さくなった少年の背中を追い駆けた。
わー。わー。
二人は叫びながら丘を駆け下りていった。(2)
15. ドはドンビのド
総武本線・小岩駅を出ると電車は間もなく右へカーブを描きながら、江戸川に架かる鉄橋へと突入していく。
幅約二百メートルの川のちょうど真ん中あたりに東京都と千葉県の県境がある。
行政区画としてはそうなっているのだが、かつてそこまで意識している人はほとんどいなかった。
江戸川を越えれば一応千葉県。
次の市川駅からが本格的に千葉県。
いや、西船橋までは東京のはず……そんなファジーな感性が持てはやされた時代もあった。
ところが、である。
東京都に「都知事猊下」が誕生し、対抗するように千葉県に「爆乳知事」が誕生。
この二人をそれぞれの核として、西関東連合体と東関東連合体が組織され、対立が激化。
おかげで埼玉県は、元々県民意識が薄かったところに、二つの勢力が手を伸ばした結果、市町村レベルで西と東に分断されてしまった。
東京側から総武本線の鉄橋を渡ると、乗客は気持ちを改めなければならない。
ここから先はもう、東京の常識は通用しないのだ。
違う国が始まるのだと。
鉄橋を越えると、それを思い出させるように、親切な看板が見えてくる。
『建前はここでストップ! ここからは本音で! 千葉県』
『チバのチはチカラのチ ルカのカもチカラのカ 千葉県』
巨大な看板に二人の人物のイラストと標語が書かれている。
イラストは、グラマラスな女性のほうが根元つかさ千葉県知事で、額が「ぴかっ」と光っている髭の白人はルカ千葉県執行知事。(1)
グラビアアイドル出身の「つかちゃん」と東欧の元大統領「ルカちゃん」、千葉県はこの二人の強力なタッグチームで東関東連合体をリードしていた。(2)
無駄な二重権力と批判される千葉県政だが、実家が銚子の居酒屋で見るからに気風のいい爆乳知事の双丘にホットな郷土愛が詰まっていることは疑いようもない。
ブラッディーラストエンペラーと恐れられた強面の元大統領との取り合わせは今のところ柔と豪でうまく噛み合っており、県民の評判も良好だ。
何といっても、あの取り澄ましたクソ坊主の第三百六十六世妙小院百合池都知事猊下と真っ向勝負できるところが、県民としては小気味がいい。
江戸川を境に、西に「民主主義の大乗仏教的解釈」があれば、東に「温い谷間にふわっと包み込まれた独裁」があるといったように、今、関東平野では衆愚化、形骸化した民主主義を打ち破るべく新たな政治体制を目指して模索が行われている。
沼崎は誌面から顔を上げた。
鉄橋が迫ってきた。
週刊誌にある巨大な政治宣伝の看板はここにはないようだ。
これは江戸川の河口付近にかかる鉄橋で、川幅も五百メートルを越えている。
沼崎は東京駅から京葉線の快速電車に乗り、湾岸の埋立地を舐めるようにして江戸川を越え、今千葉へ入った。
東京湾アクアラインは政治的な強風のため無期限の閉鎖中、千葉へ入るには陸路を進むか鉄道を使うしかなかった。
沼崎は網棚で拾った週刊誌をナップサックに収めた。
荷物の仕分けなど単純作業で最低限のサバイバル資金を得る以外、〈にしはた荘〉を中心に半径四百五十メートルで暮らしてきた沼崎だが、今回はあえて危険を冒してこの地へやって来た。
東京では都知事から自分の身を守ればいいだけだが、ここ千葉では全県民から自分の身を守らねばならない。
ただ息をするだけでもサバイバルである。ジーパンとダンガリーシャツの下には〈ザ・シャークスーツ〉を着込み、7つ道具が入ったナップサックを背負い、沼崎は江戸川を渡った。
サバイバル精神を凌駕したある衝動に突き動かされた結果であった。
性は生を乗り越え死へと接近する。封印してあったオリバー君との思い出と自分を踏みつけにしたあの金髪の少年の面影が、抵抗し難い奔流となって沼崎をここまで運んで来たのだ。
誓ってもいいが、幼年時代の一件を除けば沼崎はこれまで少年に欲情を抱いたことなどなかった。
潔白は彼の性生活が証明している。TSUTAYAでレンタルしたDVDの履歴、スタンドアローン中のPC内に蓄えられている画像、それらのデータを解析すれば沼崎は極めてノーマルな、ある意味つまらない男(例えば根元知事は大きすぎて好みではなかった)だと断定できる。
平凡な中年のサバイバル男性を惑わす何かが、あの少年から醸し出されていたことは間違いない。
沼崎は思った。
できることなら、連れ帰って一週間ばかり部屋に閉じ込めてじっくり見つめてみたい。
それは無理としても、もう少しお近づきになりたい。
沼崎はポケットからメモ用紙を取り出した。
(千葉市中央区千葉港……)
これは、西機家の固定電話の横にあった住所録から書き写したものだ。
西機家の娘の現住所らしかった。
沼崎は西機夫人が買い物へ出た隙に、家屋へ侵入した。
ピッキング道具は一通り持っていた。
空き巣をするためではない。
すべてはサバイバルである。
いや、その言い訳はもう通用しないだろう。
彼は罪を犯したのだ。
16. 鬱血織り姫と血色悪い王子
チホの黒い瞳から世良彌堂の碧い瞳へ、岩場の多い海岸線の風景が流れていった。
JR外房線、普通列車の車内である。
「水は巡り、血は滞る、か……」世良彌堂が呟いた。
チホは進行方向を向いて、差し向かいに座った世良彌堂の話を黙って聞いていた。
「見ろ。気化したエイチ・ツー・オーが、空へ舞い上がっていく」
世良彌堂の目には海面から蒸発する水の分子が見えるらしい。
「この星は水の惑星だ。水の循環という大いなる流れがこの星に存在するすべての生命を貫いている。人間もまた然り。死者の水分は、川の水や海の水やその他の水と共に天に昇り、雲に吸い込まれ、雨となって地上へ還ってくる。水滴は新たな生命の体内へ取り込まれ、空を飛び地を這い回る。海の誕生から向こう、水はさまざまに形を変え、幾千億の生命の飛沫となって地上へと溢れ出してきた」
野沢温泉村での危機一髪から三日たっていた。
潮里の電力竜巻で難を逃れた二人は本日、敵の本拠地と思しき「きりこし総合病院」のある安房鴨川へ旅立った。
「生々流転。千変万化。諸行無常の世において、いつまでも流れ去らずに赤い水が溜まっている場所がある。森の鉄分が染み出して錆び果てた赤い沼。スローターハウスの横に涌いた血みどろの池。ふん。おれたちのことさ。おれたちのことだった、と言うべきか」
老衰死しない吸血者。
病死しない吸血者。
不慮の死しかない吸血者だが、その死体を見た者はいない。
吸血者の棺も映画の中だけの存在だ。
吸血者は死なず、ただ消え去るのみ。
親しい者はある日突然消えて、それっきり戻ってこない。買い物に行ったまま帰ってこない。
シャワーを出しっぱなしにしていなくなる。
普通だった。
吸血者同士の関係はそんなもの。
それが世界の日陰に生きる者の作法だから。
チホもそのひそみにならい、ルームメイトだった冴が何も告げずに出て行っても探さなかった。
「メグミンもおれの前から消え去る準備をしていた。クローゼットの奥にキャリーバッグと熊本行きの航空券を隠していたのだ。理由はわからない。女も吸血者も謎だらけだ。だが、消えるより早くイトマキが彼女を捕えた」
目の前の世良彌堂が三日前の世良彌堂に移り変わっていく。
野沢温泉村からの帰り、東京駅へ向かう長野新幹線の車内で世良彌堂は自分について語った。
世良彌堂もチホと同じだった。
彼も繭を抱えていたのだ。
吸血者同士の血のやり取りは禁忌にあたる。具体的に何がいけないのか、明確な答えはない。強いて言うなら、未来のなさが露骨だから、だろうか。
メグミンはキャバレーで働いていた。
指名客は老人ばかりだが、なかなかの売れっ子だったという。
世良彌堂に隠れて、血を飲んでいた。
ブラッドウィル社の血だ。
ある日、口から糸を噴き出して倒れてしまった。
知らずにとはいえ、彼女に禁忌を破らせていた世良彌堂は自分のせいだと思った。
吸血者協会とは没交渉を通してきた彼は、イトマキ症という名前すら知らなかった。
秘められた過去を吐き出すように、部屋の中へ白い糸を吐き散らすメグミンを世良彌堂は震えながら抱き締めるしかなかった。
それもすぐにかなわなくなった。
彼女が作り出す繭の中へ織り込まれそうになったからだ。
世良彌堂は水を掻くように渦巻く糸の嵐から逃げた。
繭の中から差し出された女の手をただ握り締めるしかなかった。
繭はどんどん厚さを増して、白いカプセルに一人の女を閉じ込めてしまった。
糸の放出が落ち着くのを待って、世良彌堂は張り巡らされた糸を掻きわけた。
繭に爪を立て、白い闇を引き裂くとメグミンは繭の奥で眠っていた。
世良彌堂は、ぎょっとした。
これが……おれのメグミン?
彼女は若返っていた。
人間は年齢を重ねるごとにその本質が前面に浮き出してくるという。
メグミンは逆だった。
シミも汚れも年輪もリセットされ、ただつやつやぴかぴかした新品のメグミンがそこにいたのだ。
世良彌堂はメグミンの衣服を剥いだ。
見覚えのない淡い色の萼が若い膨らみの上に載っていた。
別人の造型だった。
冷めた素肌を直接温めようと、自分も服を脱いだ。
メグミンの胸に抱きつくと人肌の冷たさとはどこか違う、生温かい拒絶が世良彌堂の体を走り抜けた。
世良彌堂は構わずメグミンを抱き締めた。
万感の思いを込め彼女を抱いた。
彼女の体が蠢いた。
世良彌堂はメグミンが目を覚ましたのかと思った。
だが、彼の腕の中で、彼女は静かに萎んでいった。
何が起きているのか、彼にはわからなかった。
抱き締めれば抱きしめるほど、彼女が痩せ細っていくのだ。
首の横に裂け目ができて、そこから透明なジェル状の物質が床に漏れていた。
血も骨も内臓も、メグミンの中身はすべてその無色透明の内容物と入れ替わっていたのだ。
液体の流出は止めようがなかった。
数分後、世良彌堂の腕の中には使い捨てのラミネートチューブのようなメグミンの〝皮〟が残っていた。
長野新幹線の中で、世良彌堂は碧い炎のような目でチホを見据えて言った。
「おい」目の前の世良彌堂が言った。
チホはまだ三日前の新幹線の世良彌堂と向き合っていた。
気がつくと、チホの左手を少年の小さな手が掴んでいる。
ここは外房線の普通列車の中だ。
「おい。おまえ、この手はどうした?」
Tシャツの袖がめくれて、赤く腫れた左手の甲が露わになっていた。
チホは世良彌堂の手を振りほどき、シャツの袖を引き下げた。
「それは、窮血性潰瘍だな? おまえ、さては飲んでいないな?」
世良彌堂の目つきが変わった。チホは目を逸らした。
「何日飲んでない? おい、何日だ?」
「ちょっと、大きな声出さないでよ」
「馬鹿者。飲め」
世良彌堂はステンレスの小さな水筒を差し出した。
「さっさと、飲め」
「わたし、血が嫌いなんだ。美味しいと思ったことなんか、生まれて一度もない」
「そんなことは訊いていない。今すぐ飲むのだ。おれの目の前で、今すぐ」
うむを言わさぬ調子だ。
「何よ。わかったわよ」
チホは周りを見ながらキャップを開けた。
「これ、誰の血?」
「うるさい。いいから飲め」
チホは飲んだ。鉄と海の味がした。
「ふん。ダイエットのつもりか? 吸血者が血を断つとどうなるのか、知っているのか?」
全身に窮血性潰瘍の瘡蓋が拡がり、最終的には死ぬはずだ。イトマキが現れる前は、病気にならない吸血者が唯一かかる病気がこの潰瘍だった。
「違うな。逆だ。血を断った吸血者は、より生き生きと生血を求めることになる。人をやめて、鬼になる。吸血鬼になるのだ」
「つまらない冗談。吸血者ジョーク」
今度はチホが鼻で笑った。
「おまえは何も知らない。冗談では済まないさ。おれがこの体で知った真実だからな」
世良彌堂は試したことがあるという。
吸血者と判明した小学生の時分のことだ。
協会から送られてきた血液に手を着けなくなった。
自分の中から吸血者の「毒」が抜けるまでひたすら待つのだ。
二つの説があった。
一つは、血を飲まないと窮血性潰瘍が全身に回って息ができずに死ぬ。
今一つは、全身に回った潰瘍はやがて消え、まっさらな肌が現れる。
そこまで行き着けば、もう血を飲まなくて済むというもの。
彼は後者に賭けた。
「父も母もただ見守っていたさ。おれは言い出したら聞かないし、これは彼らの力ではどうにもならない事態だ。周囲は瘡蓋だらけになっていくおれを腫物に触るように扱った。しばらくの間、おれに代わってガーゼに包まったおれのミイラが学校へ通った。四十日がすぎた。おれは血の誘惑に打ち勝った。瘡蓋がすべて剥がれ落ちると、おれは元の白皙に戻っていた。以前より光を帯びた黄金の少年が蘇った。母は喜んださ。父もホッとしていた。何しろおれを悪魔の子じゃないかと疑っていたからな。これで安心して本国へ連れて行ける。そう思っただろう。父は教会傘下の幼稚園の園長だった。
呪われた運命を克服したおれを母は抱き締めた。おれも強く抱き返した。母の白い首筋が目の前にあった。開眼したばかりの〈万物を丸裸にする目〉が、普通の人間なら到底見えない小さなホクロ、毛穴の一つ一つ、産毛の一本一本まで見逃さなかった。何も考えてなどいないさ。おれもただ嬉しかったのだから。バースディのキスをするようにおれは噛みついていた。父がおれを母から引き剥がし壁に投げつけた。頸動脈を喰いちぎらなかったのは不幸中の幸いだ。父だった男が今どこにいるかはわからない。母だった女は健在なら山形にいるはずだ。庄内平野に年中スカーフを首に巻いた美しい女がいたら、たぶんおれの母だった女だろう」
自分の核心を吐き出して、安堵しているのか虚脱しているのか、長い沈黙へ入ってしまった世良彌堂に、チホは訊いてみた。
「実の親とメグミンさん、どっちが大事? どっちが大切?」
世良彌堂は黙って窓の外を見ていた。
答える気はないようだ。
つまらないことを訊いてしまった。
諦めてチホも窓の外を眺めていた。
被吸血者の親と吸血者の子供は多かれ少なかれ軋轢を生じることになる。
チホは協会を頼り、世良彌堂は独立独歩を選んだ。
吸血者の親と吸血者の子供がどんな親子関係になるのか、チホは知らない。
吸血は家族間で遺伝するのかどうかも不明だった。
長いトンネルの中で、窓に映る世良彌堂と目が合った。
チホが何気なく見つめると黒い肖像画のような世良彌堂が睨み返してきた。
「血を分けた女より、血を分けてくれる女だ」
それが質問の答だとチホが気づいたのは、次のトンネルに入ってからだった。
(つづく)
その5
その7
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