全自動ガンダム起動セズ(2)
すなわち、知っておくべきことであるが、人間は種々の原因によって滅亡にひんするのであって、あるいは伝染病により、あるいは飢餓により、あるいは地震により、あるいは戦争により、あるいは種々の病気のために、あるいはその他の原因のために、滅亡にひんするのであるが(……)
ヨハネス・ピロポノス「二コマコス倫理学注釈、序論」
震度 5強
マグニチュード 0.0
東京都品川区東品川────。
深沢広美は、初めて歩く街を注意深く観察していた。
ここには
……どんな建物が建っているか?
……車の交通量は?
……どんな人が住んでいるか?
……子供が多い街か?
……お年寄りが多い街か?
……酔っ払いやガラの悪い輩がたむろしていないか?
広美は、実際に生活する目線で街を眺めていた。
もしかすると、住むことになるかもしれない街だった。
タワーマンションも見えるが、どちらかと言えば戸建てが多い地域のようだ。
周辺の店舗は居酒屋、レストラン、コンビニくらいで、買い物はちょっと大変かもしれない。
川と運河に囲まれた、東京湾の埋め立て地のようである。
運河には、屋形船が何艘も係留され、すぐそばの神社には、鯨が祀られていた。
幹線道路沿いの細長い公園で、3才児くらいの女の子を遊ばせている若い母親の姿を目に留め、広美はホッと和んだ。
自分にも再来年には小学校へ上がる女の子がいる。
広美の娘、理空は耳に障碍を持って生まれてきた。
幸い、気づくのが早く、専門の医師と教育機関の助けもあって、理空は高感度の補聴器を使えば健常者の70~80%の音声なら聞き取ることができた。
もしも難聴の発見が遅ければ、発声の訓練が遅れ、手話を選ぶことになっていたかもしれない。
理空が通っている聴覚障害児の訓練教室では、障碍が重かったり、訓練についていかれず、発声によるコミュニケーションを断念する子もいる。
正常な発音を身につけ、日常生活に支障のない理空は、まだ幸運な子供なのだ。
夫の照夫とふたり、一人娘を支えていく覚悟はできている。両方の実家、家族の助けもある。
娘の難聴が判明したときは、神様から身に覚えのない罰を与えられたような、絶望感しかなかったが、今では希望しかなかった
思えば自分の苦しみなど、別にたいしたものではないのかもしれない。本当に大変なのは、娘なのだから。
理空が生まれてからの五年間、そんな風に頭を切り替え、娘のために駆けずり回って来た。
そして、今日も駆けずり回っている。
実際歩いてみて、街の感じはだいたいわかった。
広美はここへ来た一番の目的でもある「学校」を見に向かった。
東京都と言えども聴覚障害児の教室がある小学校は限られている。
今、住んでいる区には、専門の教室を備えた小学校がなかった。娘が幼稚園を卒園後も同じレベルの聴覚訓練を続けるにはどこかへ引っ越さざるを得ないのだ。
ここ品川区では、この小学校に教室があるのだった。
校門の手前に、生徒たちが世話をしているのか多くの植木鉢が並べられていた。
燈台のような記念碑もある。
広美は記念碑の下に刻まれた説明文を読もうとするが、文字が剥げかけていて読みづらい。
ちょっと気になるが、読むのは諦めた。
記念碑を通り過ぎて、校門のゲートに向かうと、こちらに読みやすい説明文が設置されているではないか。
台場とは、江戸時代の砲台のことだと、今知った。
ここは、外国の船に向かってぶっ放す大砲を置くために埋め立てられた土地なのだ。
台場といえば、フジテレビがそびえ、自由の女神が立っている、昨年娘を連れていったキッザニアのある、現在の「お台場」のほかに、昔はいくつも「台場」があったのだ。
勉強になるなあ、と広美は思った。
にしても、遺跡とはいえ軍事施設の跡地にある小学校だと思うと、何となく物騒だった。
説明文の続きを読んでいると、急に文字がぶれて見えてきて、広美は顔をしかめた。
パネルが上下に揺れて見える。
いや、揺れているのは自分のほうだ。
足元がふらついてきて、広美は前のめりに倒れそうになった。
え、
何、これ?
地震────!
広美はとっさに、腰を低くした。
大きい
これ、大きくないか
……
まさか
例の南海トラフ
とかじゃないよね!?!?
……
こわっ
こんな海のそばで
やばいって
……
……
変だ。
周りを見回すが、揺れている気配がない。
自分だけが、揺れている。
立ち眩み?
広美は、校門のゲートに寄りかかるように掴まると、額に手をあてた。
別に熱っぽくはないが、まだ体が揺れていた。
船から降りた直後のように平衡感覚がおかしくなっている。
朝から、ちょっと張り切りすぎてしまったか。
夫を送り出し、娘を園まで届け、急いで家事を済ませて、ここまでやって来た。
この後も、急いで娘を迎えに行き、急いで食事の用意をして、夫の帰宅を待つのである。
まずは落ち着こう。
広美は、バッグからミニ水筒を取り出して、一口飲んだ。
校舎から、生徒たちの高い声が漏れている。
休み時間だろうか。
授業中にしてはにぎやかだった。
閉じたゲートの向こうに、グラウンドが見えた。
軽い近視と結構な乱視をコンタクトで矯正している目に、グラウンドの一角に集まる数人の人影が映っていた。
生徒ではなかった。
大人が数名、作業中らしい。
グラウンドの整備だろうか。
広美は、何気なく作業の様子を眺めていたが、次第にゲートから首を伸ばして見入ってしまった。
あの人たち、何であんなボロい袢纏みたいな服を着ているのだろう?
鉢巻や頬被りをして
いやいや、でも
今どき、あんな姿で工事をするだろうか。
よく見ると、色が薄い。
人々が、セピア調のフィルターをかけたように、ぼんやりとかすれている。
ていうか、人が……
人のうしろの風景が透けて見えている。
古い記録映像を投影したような半透明の人影が校庭を行ったり来たりしていた。
見ているうちに人々の姿がどんどん薄くなって、仕舞いにゆっくりと竜巻みたいに渦になって、吸い込まれるように地面の中へ消えてしまった。
何?
今の?
嘘でしょう?
誰かがプロジェクターか何かで映してるんだよね
こんな真昼間に幽霊とか……
「ちょっとよろしいですか」
広美は、「うわあ」と叫んでいた。
「急に声をかけてすいません」
うしろに男が立っていた。
「こちらに何か御用でしょうか?」
男が尋ねてきた。
「いいえ、あの……何でもないです」
広美は慌てて首を振った。
この人は────
先生?
学校用務員さん?
には見えない。
PTAか何かの人?
にも見えない。
男はTシャツに履き古したデニム。
その上に袖をまくったペラペラに薄いロングコートを羽織っている。
間もなく冬だというのに、そんな薄着で寒くないのだろうか。
広美の経験上、変わった服装の人は中身も変わっている。
ここで不審者と思われたら面倒だが、どちらかといえば、この人のほうが不審者だった。
このまま逃げるように立ち去るわけにもいかず、広美は所在なく、その場に立っていた。
わりと上背のある男は、大股ですたすたゲートのほうへ向かうと、広美がしていたように、首を伸ばしてグラウンドのほうを見ている。
「この辺りは、御殿山下の台場でしたね」
男がつぶやいた。
「あなたも台場に、ご興味がおありですか?」
振り向いた男の、目力が強い。
「いいえ……別に」
何かの勧誘のような会話が始まってしまった。
「他の台場は湾内に造られましたが、ここにあった台場は、江戸と陸続きの、いわば国の最終防衛拠点です。台場を設計した江川英龍が最も力を入れていたのが、ここなのです」
「はあ」
広美は愛想笑いで返した。
男は、今度は校舎を見上げた。
「先ほどですが、生徒たちが騒いでいましたよね。あれ、何だかわかりますか?」
「いいえ」
「おそらく、地震です」
「地震……」広美は眉間にしわを寄せた。
「もっとも揺れを感じる生徒は一部のようです。地震を感じる生徒とまったく感じない生徒がいる。二か月ほど前から起きている現象です。不思議な話ですよね」
「一部……」
「揺れを感じるのは、この校舎の周辺だけです。あまり生徒さんたちが騒ぐので、建物か地下に何か異常があるんじゃないかと、区の職員が調べに来たようです。校庭に不発弾のような危険物が埋まっているんじゃないか、という話も出ていましたね」
「不発弾……」
「何しろ台場ですからね。大砲の弾が埋まっていてもおかしくはありません。第二次大戦で米軍が投下した爆弾の可能性もあります。しかし、ぼくはそういう話ではないと考えています。事実として、地震は観測されていません。先生方が校内に簡易地震計を置いて測っても反応はなかったそうです」
男の話は終わらない。
通りすがりの人にしては、内部の事情に詳しい。
怪しいほど、詳しい。
「結局、揺れを感じるのは、何か心理的なものではないかと、先生方は、そのように結論づけたようです」
「心理的……」
「まあ、生徒さんたちも、ちょっとしたことでも心が揺れ動く多感な時期ですからね」
もう多感な時期でもないが、ここ数年は娘のことで肉体的にも精神的にも参ってきた。自分が思っている以上に、自分も疲れているのかもしれない。
「で、何か見えましたか?」
「え?」
「先ほど、あなたは、校庭をじっと見ておられたでしょう?」
「ああ……」
「生徒さんの中には、お侍を見たという話も出ているんです。この周辺では、侍の幽霊が見えるようなんです」
男は真顔で言った。
「これは下校中の生徒さんに尋ね回って掴んだ話です。侍の話は先生方も知らないようです。おかげで、変質者と間違われて、通報されてしまいましたが」男は苦笑した。
ほら、やっぱり。
本当に不審者だったようだ。
「ちょうど、あの辺りですよ。侍の目撃が多い箇所です」
男がグラウンドを指さした。
ちょうど半透明の工事現場が見えた辺りだ。
侍ではなかったが自分も見えた、なんて言ったら、この不審者につきまとわれそうである。
「もしかして、あなたにも霊感がおありなのではないかと」
「いいえ、あの、わたしは、あの、ほかにも記念碑みたいなものがないかと、探していただけなんです」
「そうでしたか」
男が残念そうな顔で、空を見上げた。
「ぼくには、侍は見えません。揺れも、わかりません。でも、ここで、何かが起きようとしているのを、強く感じるのです」
もう起きてるよ十分。
いつまでこのオカルト寸劇につき合わされるのだろう。
話を切り上げるなら、今だ。
「じゃああのわたしはそろそろ帰りますので……」
愛想笑いと共に、広美が立ち去ろうとすると、男がさっと目に前に腕を伸ばしてきた。
「ぼく、こういう者です。何か気がついたことがありましたら、メールでもSNSでもいいのでお知らせください」
タイミングよく差し出された名刺を、広美は思わず受け取ってしまった。
ルポライター……最近あまり聞かなくなった職業だった。
何だよ、ぼくぼくって、ぼくっていう年でもないだろうに。
ただ小学校を見学しに来ただけなのに、何だかわけのわからない世界へ踏み込んでしまった。
広美は、釈然としないまま、電車を乗り継いで帰ってきた。
幼稚園へ娘を迎えにいき、ついでにスーパーで買い物を済ませた。
夕食を作り終え、一息つくと、夫が職場から帰ってくる。
夫が娘を風呂に入れている間に、夕食のテーブルを整える。
食事を終え、家事を済ませると、もう就寝である。
明日の朝食のことを考えているうちに、どどーっと荒波のように眠りがやってきた。
昼間歩き回ったせいか、普段より寝つきがよかった。
幸い、夜中に娘に起こされることもなく朝を迎えた。
起きて、カーテンを開け、いつものようにお湯を沸かし、朝食の準備である。
昨日のことを思い出す暇もなく、また広美の一日は始まった。
幼い子供を持つ主婦には、半透明の人だろうが、怪しいぼくだろうが、かまっている時間はコンマ1秒たりともないのである。
(つづく)