モルトモルテ Molto Morte 其の屍④
7.鬱血織り姫と血色悪い王子
世良彌堂曰く。
「不幸な女は前から見てもわからない」
二人は東京駅から東海道本線を下ってきた。
鎌倉にあるというイトマキ症専門病院を見学するためだ。
チホと世良彌堂は連絡を取り合っていた。
これからはそうしようと、先週純喫茶で決めたのだ。
と言っても連絡は世良彌堂からしかできない。
この男はスマートフォンも所持していなければ連絡場所もないからだ。
住所不定無職。
ニュースでよく聞くあれがチホの目の前にいた。
「前から見てわかるような不幸は、誰でも持っている。金になる不幸は背中に宿る。金の大きさは尻が語ってくれる」
キャスケットを目深に被って、哲学を語りつづける世良彌堂。
不幸な女というものは己の灰色の人生に彩りを求めるものだ。
小さな幸せではない。
小さな幸せは新たな苦しみの種にすぎないことを知っているからだ。
馬鹿げた刺激、大げさな秘密、遥かに遠い場所、何でもいい、今ここから自分を連れ出してくれるものなら何でもいいのだ。
「世界から迫害された吸血鬼の男を一人匿っている。この巨大な不幸の甘美な幻想が女を支えるのだ。女をおれの物語のパートナーに仕立て上げれば、もう金も血液も思いのまま」
(この吸血ホスト小僧……)
チホはボックス席の向かいにちょこんと座った碧い目のあどけない少年を睨んだ。
「だが、搾りすぎてはいけない。女が物語を失っても生きていけるだけの量を残すことだ。男と女の間にも倫理とルールはあるべきだ。女を吸い尽くすのは二流のやること。女に刺されるのもな」
(この吸血コドモ詐欺師……)
「人生に必要な知識は、広山義慶の長編悪党ハードロマン『女喰い』にすべて書いてあった。おれは近所の病院の待合室でその本に出会った。小学校六年生の時だ。まさかおれの生き方を変える本だとは知らず、濃厚な性描写に引き込まれたものだ」
(知るか。この吸血エロ餓鬼の鬼畜腐れ外道が……)
チホは世良彌堂に何気なく訊いてしまったことを後悔した。今までどうやって生きてきたの?
「そんな穢れた血を見るような目でおれを見るな。おまえが訊くから答えたまでだ」
「要するに、女の人を騙して、食い物にしてきたのね」
「おい、人聞きが悪いぞ。百歩譲っても、長年、集団的に人類を食い物にしてきたおまえたちに非難される覚えはない。おまえたちは家畜を飼い、おれは野生動物を狩る。生き方の違い。いや、美学の違いか」
「ビガク?」
「そう、美学だ。吸血をシステム化し、制度に組み込んだおまえたちは堕落した吸血者。気高いおれにとって吸血はアートだ。怖くて哀しい物語が欲しい女におれの物語を分けてやる。ホラー作家がやっていることと同じさ。本やDVDの吸血鬼は四桁の金で買えるが、リアルにおれを飼うには八桁の金と本物の血が必要だ。正当な対価だろう?」
世良彌堂は、日本に10人とか15人しかいない(協会調べ)と言われている「野良吸」だった。
かつて理科斜架と蜘蛛網も似たような存在ではあったが、彼女たちが現役だったのはもう五十年以上前の話だ。
未だにそんなことをしている吸血者がいたとは驚きだ。
野良とはいっても金持ちの女性の世話になっているわけだから、ペットに近い。
「まあ、おれを猫にたとえるなら、さしずめノルウェージャンフォレストキャットか、マンクスってところか。それに比べておまえたちがやっていることは何だ? 人類を羊のように飼って毛を刈り取る、牧畜業だ。おまえたちは吸血者ではなく、もはや牧童、羊飼い。いや、羊の腹に吸いつくダニと呼んでも過言ではない」
「ふーん。で、あんたはダニにくっついてきた金魚の糞なわけか。ふーん……」
────間もなく、ふじさわ、藤沢。お出口は右側です……。
アナウンスの声が響いた。
この駅でJRから江ノ島電鉄に乗り換え、九つ目の〈稲村ケ崎〉へ向かう。
今度は緑色のちんまりした電車のロングシートに並んで座り、穏やかな湘南の海を見つめながら鎌倉方面へ運ばれていく二人。
世良彌堂は相変わらず哲学を語りつづけた。
チホの口数はめっきり減っていった。
「……おまえ、具合でも悪いのか?」
乗客で込み合う車内、さすがに口にできないセリフもあって、抑え気味に話していた世良彌堂も、大人しすぎる隣を変に思ったようだ。
「おまえ、真っ青だぞ。吐くのか? おい、吐くなよ」
「違う。大丈夫だから。適当にしゃべっていて」
「適当に?」
「しばらく、ほうっておいて」
「よくわからんが、まあいい。女は謎だ。謎は謎でいい。謎以外をコントロールすればいいのだから」
頭を掻き、帽子を被り直す世良彌堂。
向かいのシートに座っていた女性が隣の男性に耳打ちしている。
(見て見て)(何、あの子)(めちゃ、かわいい)(天使みたい)(天使、天使)
世良彌堂から鼠のような舌打ちが漏れた。
彼も静かになってしまった。
8. ドはドンビのド
衝撃に飛び起きると、崩れたダンボールの下敷きになっていた。
箱が開いて中身が顔や胸や腹にこぼれていた。
沼崎は海苔や昆布や鰹節を自分の上から押しのけた。
ダンボールには主に乾物が入っていた。
助かった。
一番上の箱が崩れ落ちただけだ。
無我夢中で蹴った脚が部屋に積み上げたダンボールの山に当たったのだ。
いや、「無我夢中」ではない。
それは、どっちかと言えば、いい意味の言葉だ。
悪い意味の無我夢中は何と言うのか。
寝起きの頭では思いつかない。
時計を見ると午後二時。
白日夢を見ていたようだ。
いや、これも違う。
白日夢とか白昼夢というのは夢想や空想を表す言葉だ。
昼に見る夢は何と言うのか。
夜ではなく、昼寝中に見る夢。
そんな言葉があったかどうかも思い出せなかった。
沼崎は、額をぬぐった。
手の甲に血糊のようにべっとりとした汗が塗りつけられた。
それが本当に汗であることを一応確かめる沼崎。
悪夢だった。
悪夢の逆はいい夢なのだろうか。
いい夢見ろよ、とは言うが、ただの夢でもよさそうだった。
悪夢とは逆の言葉がないところをみると、夢にはそもそもいい意味があるのだろうか。
沼崎が故郷の駅で降り、改札を出て、村の寂れた商店街をほんの数十メートル歩いたところで、老婆に捕まるのである。
腰の曲がった老婆が杖を振り上げて追いかけてくるのである。
「死神、死神、待てーぇ、死神、待てーぇ」と言いながらどこまでも追いかけてくるのである。
やっと振り切ったかと思うと、シャッターが閉じた店舗の角から現れて「死神、死神、待てーぇ」としつこく追いかけてくる。
袋小路へ追い詰められ、最後は老婆を思い切り蹴飛ばして目が覚める。
知らない老婆だが、向こうは自分を知っているらしい。
自分は沼崎家の跡取りだったので、そういうことは実際よくあるのだ。
あれは、品川にある製薬会社の倉庫で薬品の箱詰め作業をしてい時だ。
若手の同僚から、うまい話を持ちかけられて乗ったのである。
「GGP」グローバル・グッド・プランニングというプロジェクトだ。
地球に優しいコピー用紙やトナーなど事務用品を扱う個人事業主のためのプロジェクトだ。
マネージングディレクターやマーケティングマネージャーとして、ディストリビューターやシニアコンシューマーをマネージメントすると、うまくいけば月収二千万円も可能になる。月収が、である。
素晴らしいプロジェクトだ。
沼崎は倉庫の仕事を辞めた。
にしはた荘の部屋はそのままにして、商品サンプルやパンフレットを抱えて、村へ帰った。
計画では、多くの村人がグローバルエリートクラスに登録され、村全体が豊かになるはずだった。
「沼崎さんの坊っちゃんが言うなら」というのが大勢で、胡散臭い目で見る人はごく少数だった。
村人たちは周りを見回し、一口二十万を三口以上、自分たちはボールペン以外使いもしない高価な事務用品に投資した。
沼崎が言うには都会のオフィスでは引っ張りだこの人気を誇る逸品名器らしいのだ。
沼崎家は御三家の一角を担う村の名家で、そこの息子が東京からビジネスの風を運んで来た。
これに乗らないと、損をする。
周りがみんな得をして自分だけが損をする。
それは村人には耐えられない屈辱だ。
数か月の営業の結果は上々だった。
沼崎の村で三千八百万円、隣の村で五百万円、近郊の町で二百四十万円、沼崎は合計四千五百四十万円ほど掻き集めて東京へ送った。
商品が村へ送られてきた。
これを転売すれば一億円以上になるはずだった。
親類が嗅ぎつけて本家に報告した時には、もう遅かった。
商品はまったく売れなかった。
それはそうだ。
よくある詐欺まがい商法だったからだ。
村は大混乱。
沼崎の叔父は村議会議長を辞した。
あらゆる役職が沼崎家から離れていった。
市町村合併の話も消えた。
沼崎の村は、村ごと県内の自治体から村八分になったのだ。
沼崎は母親の兄である本家の当主から勘当を申し渡された。
伯父には子がないため次期当主は沼崎にほぼ決まっていたのだが、その芽は完全に消え去った。
「出て行け。二度と敷居をまたぐな」
三百万円入った封筒を投げつけられ、沼崎は家から、村から追われた。
母親からも、「最低十年は帰ってくるな」と言われた。
養子の父親は目を合わせずに手だけ振った。
それから十五年。
沼崎家は相当没落したらしい。
陸の孤島で他県の飛び地のようになってしまった村も寂れる一方だという。
夢の老婆が現実に存在するのか、沼崎にはわからないが、自分を「死神」と呼ぶ声は真実の叫びに違いない。
村の、そして沼崎自身の、叫びに違いない。
9.鬱血織り姫と血色悪い王子
稲村ケ崎の改札を出ると、ダークスーツの女性が待っていた。
病院の広報担当だという。
広報担当は、世良彌堂を見て一瞬頬を緩めたがすぐに真顔に戻って、二人を車まで案内した。
イトマキ症専門病院は、表向きは会員制のリゾートホテルということになっていた。
広報担当はハンドルを握りながら、病院付近の温暖な気候、万全の医療体制をアピール。
また、湘南、鎌倉、逗子という土地の特性に触れ、ここが歴史的に療養に向いた場所であることを強調した。
「でも、ここって、古戦場なんですよね?」とチホ。
「えっ、ええ、何しろ歴史のとても古い街ですので、そういうことも……ええ」広報担当は語尾を濁した。
「なるほど。弓と槍と結核で、死体の山が築かれたわけか」
世良彌堂がチホにしか聞こえないように呟いた。
「津波。水難事故。心中。立地条件は最高。正にここは、関東髄一の死に場所」
チホにすごい顔で睨まれ、世良彌堂は(何だ?)(何なのだ?)不思議そうな表情を浮かべ、(女は謎……)黙り込む。
病院は海から少し離れた小高い丘に建てられていた。
丘の上ではなく、丘の斜面に。
平屋で横長の白い病棟が丘の麓から頂上まで七棟、段々畑のように並んでいた。
二人は広報担当に導かれて、長いエスカレーターで一番上の一号棟へ向かった。
上に行くほど入院料が高く、そこからだと遠く太平洋が見渡せた。
「ふーん。豪華ね」
「もし、おれが入院したら、毎晩ここでパーティーだな」
「お金あるの?」
「稼ぐさ」
「騙し取る、でしょう?」
二人はガラス張りの待合室から広々としたテラスへ出て、海を眺めた。
端のほうで、車椅子の男の子が看護師と一緒にやはり海を見ていた。
少年は薄らと青味がかって無機物ぽい世良彌堂の肌とは異なり、ゆで卵か牛乳石鹸のような白くつるつるの肌をしていた。
身長はそこそこありそうだが、顔つきが幼く年齢の見極めがつかない。
高校生かもしれないが、大きな小学六年生にも見えてしまう。
鼻は低く目は細く平面的な顔立ちだが、これはこれで需要のありそうな純和風の少年だ。
「見ろ」と世良彌堂が目配せした。
看護師が酸素マスクのような器具を男の子の口に当てていた。
「あれが、どうかしたの?」
「何だ。見えないのか」
世良彌堂はゆっくりと男の子のほうへ歩いていく。
チホもつづいた。
そばまで来て、やっと気づいた。
男の子は口から噴き出すように数本の細い糸を吐いていた。それを看護師が器具で吸い込んでいるのだ。
「な」車椅子に背を向けて、世良彌堂がチホを見上げた。
チホは治療室を見学しに、広報担当と別の棟まで下っていった。
世良彌堂はテラスに残った。
「ウントネー、彌堂ハモット海ヲ見テイタイナー。ダメ?」
かなり頭の悪そうな天使だった。
彼は彼で調べたいことがあるのだ。
三号棟の次が五号棟で、ここが施設のちょうど真ん中になる。
チホは広報担当と治療室を見て回った。
病棟にはプラスチックの板で仕切られた十二個の処置室があり、それぞれ患者が入っていた。
テラスで見た少年が使っていた器具を巨大化させた、蓄音器かホルンのようなラッパ型の器具に向かって、五、六歳の女児がこほんこほんと可愛らしく咳き込みながら糸を吐いていた。
チホの父親と同じくらいに見えるメガネをかけた男も激しく咳き込みながら精力的に糸を吐き出している。
九十歳以上に見える老婆はベッドに寝たまま静かに寝息のように細い糸を吹いていた。
「こうして、吸引している限り、繭化は起きません」と涼しげに語る広報担当。
「繭化してしまった人は、どうなるんですか?」
「繭化すると体の自由を奪われ生理的な機能も著しく低下してしまいます。一種の仮死状態になります。でも、大丈夫ですよ。こちらでは、患者様の繭を除去し、機能を回復させる特別な処置をさせていただきます。またクオリティーの高い生活を取り戻すことも可能です」
「えっ、元に戻れるんですか!?」
「個別の病状とリハビリ次第となりますが……ええ」
「繭化してもうすぐ三か月になるのですが、まだ助かりますか?」
「ええ、数年経過してから入院された患者様もいらっしゃいますし……ええ」
「マジで? で、治るんですか?」
「残念ながら、根本的な治療法はまだ確立されておりません。ただ、症状の緩和を図りながら時間を稼ぐことができます。ここで療養しながら、新薬の開発、画期的な治療法の発見を待つのです。幸い吸血者には寿命というものがありません。時間を味方につければ、どんな病にも打ち勝つことができるでしょう」
悪くない施設である。
問題は金だ。
チホは理科斜架から預貯金の通帳とマンションの権利書を預かっていた。
理科斜架が口から溢れ出る糸を片手で押えながらしたためてくれた財産処分の委任状もある。
これを担保に協会ルートで融資もしてもらえる。
しかし何年待てば、特効薬が生まれるのだろう。
入院費が切れたらその先どうすればいいのだろう。
ここを追い出され、再び繭化した女の子を二人抱えて、自分はどうやって生きていくというのだろう。
自分もいつ繭化するかわからないのに。
まったく想像もつかない未来。
ライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャーだ。
先立つものは、やっぱり金……チホは病棟の床を見ながらとぼとぼ歩いていた。
前を歩く広報担当の濃紺のパンツと黒いウエッジソールのパンプスが視界から消えていく。
前から点滴スタンドを押しながら患者が向かってきた。チホが気づいて、道を譲ると、スタンドが止まった。
「シニハタ……」
チホは患者の顔が見えるまで面を上げた。
冴だ。
冴にしては前髪をピンで止めてうしろはゴムで束ねた髪がかなり変だ。
彼女なら名状しがたい無造作なヘアースタイルもファッションも大嫌いなはずだった。
シニハタ、それなんて髪型? 言ってみ。
その服、どこで買った?
シニハタ、あんた女捨ててるって……
一緒に住んでいた時はよくそう小馬鹿にされていたのだ。
だからこの人は違うかも。
でも、どう見ても冴だった。
冴というのは、チホが理科斜架たちと暮らす前に「フレンズ」だった女性なのだが、患者の格好をして何でここにいるのだろう。
「忘れちゃったの? 酷すぎ。笑える。冴だよ」
冴はチホが見覚えのある呆れ顔で笑った。
「今思い出したよ、冴。何でここにいるの?」
「病気だもん、わたし」
どこが? 食べざかりの中学三年生みたいなぷりぷりの美肌である。
冴は隅々まで補正し尽した画像から抜け出て来たようだった。
チホが知る冴はいつもげっそりとやつれていた。
ダイエットのため120mlの血液パックを必ずスプーン二、三杯分捨てて飲むほどだった。
現状維持に命をかけ、ケーキのレシピ並みに体重四十七キロを死守していた。
身長165センチの理想体重より7・5キロも少なかった。
それで理想体重より立派に2キロ少ないチホをぽちゃ呼ばわりするのだった。
あれが平常ならば、この冴は確かに病気かもしれない。
「そうか、病気か。やばいじゃん」
「やばいよ。ていうか、シニハタ、急に現れないでよ。死神かと思ったよ」
「冴のほうが酷い。シニハタシニハタって……」
びっくりしたよ、びっくりだよ、びっくりびっくり、と言い合う二人を前に、引き返してきた広報担当が所在なさげに立ち尽くしていた。(1)
(つづく)
その3
その5
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