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モルトモルテ Molto Morte 其の屍④


【主な登場人物】

チホ 千葉に住む女性吸血者。24歳。日本吸血者協会会員。世良彌堂せらみどうと二人で吸血者の奇病・イトマキ症の謎を追っている。

世良彌堂(せらみどう) 日英ハーフの吸血少年。12歳にしか見えない24歳。日本吸血者協会には所属していない「野良吸のらきゅう」。

理科斜架蜘蛛網(リカシャカ、クモアミ) チホと一緒に暮らしている双子の吸血姉妹。日本吸血者協会会員。見た目は10歳、実年齢は100歳以上。イトマキ症で繭になっている。

歌野潮里(うたのしおり) チホが住むマンションの隣の部屋に監禁されていた高校生。死後、浮遊霊となりチホと友達になる。電気があると立体映像化する。

沼崎六一郎(ぬまざきろくいちろう) 東京都杉並区でチホの実家が経営する風呂なしアパートに住むサバイバリスト。ブログで世界の危機を発信。47歳。

枠林(わくばやし) チホのマンションの管理人。宇宙生命体・ヒトノエに寄生されている身長193センチの老人。

ドンビ SES(土食症候群)患者のこと。ゾンビのように動き回る。チホの父親も元気に闘病中。

霧輿龍次郎(きりこしりゅうじろう) 日本吸血者協会理事長。




7.鬱血織り姫うっけつおりひめ血色悪い王子けっしょくわるいおうじ


 世良彌堂せらみどう曰く。
「不幸な女は前から見てもわからない」
 二人は東京駅から東海道本線を下ってきた。
 鎌倉にあるというイトマキ症専門病院を見学するためだ。
 チホと世良彌堂は連絡を取り合っていた。
 これからはそうしようと、先週純喫茶で決めたのだ。
 と言っても連絡は世良彌堂からしかできない。
 この男はスマートフォンも所持していなければ連絡場所もないからだ。
 住所不定無職。
 ニュースでよく聞くあれがチホの目の前にいた。 
「前から見てわかるような不幸は、誰でも持っている。金になる不幸は背中に宿る。金の大きさは尻が語ってくれる」
 キャスケットを目深に被って、哲学を語りつづける世良彌堂。
 不幸な女というものは己の灰色の人生に彩りを求めるものだ。
 小さな幸せではない。
 小さな幸せは新たな苦しみの種にすぎないことを知っているからだ。
 馬鹿げた刺激、大げさな秘密、遥かに遠い場所、何でもいい、今ここから自分を連れ出してくれるものなら何でもいいのだ。
「世界から迫害された吸血鬼の男を一人匿っている。この巨大な不幸の甘美な幻想が女を支えるのだ。女をおれの物語のパートナーに仕立て上げれば、もう金も血液も思いのまま」
(この吸血ホスト小僧……)
 チホはボックス席の向かいにちょこんと座った碧い目のあどけない少年を睨んだ。
「だが、搾りすぎてはいけない。女が物語を失っても生きていけるだけの量を残すことだ。男と女の間にも倫理とルールはあるべきだ。女を吸い尽くすのは二流のやること。女に刺されるのもな」
(この吸血コドモ詐欺師……)
「人生に必要な知識は、広山義慶ひろやまよしのりの長編悪党ハードロマン『女喰いおんなぐい』にすべて書いてあった。おれは近所の病院の待合室でその本に出会った。小学校六年生の時だ。まさかおれの生き方を変える本だとは知らず、濃厚な性描写に引き込まれたものだ」
(知るか。この吸血エロ餓鬼の鬼畜腐れ外道が……)
 チホは世良彌堂に何気なく訊いてしまったことを後悔した。今までどうやって生きてきたの?
「そんなけがれた血を見るような目でおれを見るな。おまえが訊くから答えたまでだ」
「要するに、女の人を騙して、食い物にしてきたのね」
「おい、人聞きが悪いぞ。百歩譲っても、長年、集団的に人類を食い物にしてきたおまえたちに非難される覚えはない。おまえたちは家畜を飼い、おれは野生動物を狩る。生き方の違い。いや、美学の違いか」
「ビガク?」
「そう、美学だ。吸血をシステム化し、制度に組み込んだおまえたちは堕落した吸血者。気高いおれにとって吸血はアートだ。怖くて哀しい物語が欲しい女におれの物語を分けてやる。ホラー作家がやっていることと同じさ。本やDVDの吸血鬼は四桁の金で買えるが、リアルにおれを飼うには八桁の金と本物の血が必要だ。正当な対価だろう?」
 世良彌堂は、日本に10人とか15人しかいない(協会調べ)と言われている「野良吸のらきゅう」だった。
 かつて理科斜架と蜘蛛網も似たような存在ではあったが、彼女たちが現役だったのはもう五十年以上前の話だ。
 未だにそんなことをしている吸血者がいたとは驚きだ。
 野良とはいっても金持ちの女性の世話になっているわけだから、ペットに近い。
「まあ、おれを猫にたとえるなら、さしずめノルウェージャンフォレストキャットか、マンクスってところか。それに比べておまえたちがやっていることは何だ? 人類を羊のように飼って毛を刈り取る、牧畜業だ。おまえたちは吸血者ではなく、もはや牧童、羊飼い。いや、羊の腹に吸いつくダニと呼んでも過言ではない」
「ふーん。で、あんたはダニにくっついてきた金魚の糞なわけか。ふーん……」
────間もなく、ふじさわ、藤沢。お出口は右側です……。
 アナウンスの声が響いた。
 この駅でJRから江ノ島電鉄に乗り換え、九つ目の〈稲村ケ崎いなむらがさき〉へ向かう。
 今度は緑色のちんまりした電車のロングシートに並んで座り、穏やかな湘南の海を見つめながら鎌倉方面へ運ばれていく二人。
 世良彌堂は相変わらず哲学を語りつづけた。
 チホの口数はめっきり減っていった。
「……おまえ、具合でも悪いのか?」
 乗客で込み合う車内、さすがに口にできないセリフもあって、抑え気味に話していた世良彌堂も、大人しすぎる隣を変に思ったようだ。
「おまえ、真っ青だぞ。吐くのか? おい、吐くなよ」
「違う。大丈夫だから。適当にしゃべっていて」
「適当に?」
「しばらく、ほうっておいて」
「よくわからんが、まあいい。女は謎だ。謎は謎でいい。謎以外をコントロールすればいいのだから」
 頭を掻き、帽子を被り直す世良彌堂。
 向かいのシートに座っていた女性が隣の男性に耳打ちしている。
(見て見て)(何、あの子)(めちゃ、かわいい)(天使みたい)(天使、天使)
 世良彌堂から鼠のような舌打ちが漏れた。
 彼も静かになってしまった。


8. ドはドンビのド


 衝撃に飛び起きると、崩れたダンボールの下敷きになっていた。
 箱が開いて中身が顔や胸や腹にこぼれていた。
 沼崎は海苔や昆布や鰹節を自分の上から押しのけた。
 ダンボールには主に乾物が入っていた。
 助かった。
 一番上の箱が崩れ落ちただけだ。
 無我夢中で蹴った脚が部屋に積み上げたダンボールの山に当たったのだ。
 いや、「無我夢中」ではない。
 それは、どっちかと言えば、いい意味の言葉だ。
 悪い意味の無我夢中は何と言うのか。
 寝起きの頭では思いつかない。
 時計を見ると午後二時。
 白日夢を見ていたようだ。
 いや、これも違う。
 白日夢とか白昼夢というのは夢想や空想を表す言葉だ。
 昼に見る夢は何と言うのか。
 夜ではなく、昼寝中に見る夢。
 そんな言葉があったかどうかも思い出せなかった。
 沼崎は、額をぬぐった。
 手の甲に血糊のようにべっとりとした汗が塗りつけられた。
 それが本当に汗であることを一応確かめる沼崎。
 悪夢だった。
 悪夢の逆はいい夢なのだろうか。
 いい夢見ろよ、とは言うが、ただの夢でもよさそうだった。
 悪夢とは逆の言葉がないところをみると、夢にはそもそもいい意味があるのだろうか。
 沼崎が故郷の駅で降り、改札を出て、村の寂れた商店街をほんの数十メートル歩いたところで、老婆に捕まるのである。
 腰の曲がった老婆が杖を振り上げて追いかけてくるのである。
死神、死神、待てーぇ、死神、待てーぇ」と言いながらどこまでも追いかけてくるのである。
 やっと振り切ったかと思うと、シャッターが閉じた店舗の角から現れて「死神、死神、待てーぇ」としつこく追いかけてくる。
 袋小路へ追い詰められ、最後は老婆を思い切り蹴飛ばして目が覚める。
 知らない老婆だが、向こうは自分を知っているらしい。
 自分は沼崎家の跡取りだったので、そういうことは実際よくあるのだ。
 あれは、品川にある製薬会社の倉庫で薬品の箱詰め作業をしてい時だ。
 若手の同僚から、うまい話を持ちかけられて乗ったのである。
「GGP」グローバル・グッド・プランニングというプロジェクトだ。
 地球に優しいコピー用紙やトナーなど事務用品を扱う個人事業主のためのプロジェクトだ。
 マネージングディレクターやマーケティングマネージャーとして、ディストリビューターやシニアコンシューマーをマネージメントすると、うまくいけば月収二千万円も可能になる。月収が、である。
 素晴らしいプロジェクトだ。
 沼崎は倉庫の仕事を辞めた。
 にしはた荘の部屋はそのままにして、商品サンプルやパンフレットを抱えて、村へ帰った。
 計画では、多くの村人がグローバルエリートクラスに登録され、村全体が豊かになるはずだった。
「沼崎さんの坊っちゃんが言うなら」というのが大勢で、胡散臭い目で見る人はごく少数だった。
 村人たちは周りを見回し、一口二十万を三口以上、自分たちはボールペン以外使いもしない高価な事務用品に投資した。
 沼崎が言うには都会のオフィスでは引っ張りだこの人気を誇る逸品名器らしいのだ。
 沼崎家は御三家の一角を担う村の名家で、そこの息子が東京からビジネスの風を運んで来た。
 これに乗らないと、損をする。
 周りがみんな得をして自分だけが損をする。
 それは村人には耐えられない屈辱だ。
 数か月の営業の結果は上々だった。
 沼崎の村で三千八百万円、隣の村で五百万円、近郊の町で二百四十万円、沼崎は合計四千五百四十万円ほど掻き集めて東京へ送った。
 商品が村へ送られてきた。
 これを転売すれば一億円以上になるはずだった。
 親類が嗅ぎつけて本家に報告した時には、もう遅かった。
 商品はまったく売れなかった。
 それはそうだ。
 よくある詐欺まがい商法だったからだ。
 村は大混乱。
 沼崎の叔父は村議会議長を辞した。
 あらゆる役職が沼崎家から離れていった。
 市町村合併の話も消えた。
 沼崎の村は、村ごと県内の自治体から村八分になったのだ。
 沼崎は母親の兄である本家の当主から勘当を申し渡された。
 伯父には子がないため次期当主は沼崎にほぼ決まっていたのだが、その芽は完全に消え去った。
「出て行け。二度と敷居をまたぐな」
 三百万円入った封筒を投げつけられ、沼崎は家から、村から追われた。
 母親からも、「最低十年は帰ってくるな」と言われた。
 養子の父親は目を合わせずに手だけ振った。

 それから十五年。
 沼崎家は相当没落したらしい。
 陸の孤島で他県の飛び地のようになってしまった村も寂れる一方だという。
 夢の老婆が現実に存在するのか、沼崎にはわからないが、自分を「死神」と呼ぶ声は真実の叫びに違いない。
 村の、そして沼崎自身の、叫びに違いない。


9.鬱血織り姫と血色悪い王子


 稲村ケ崎の改札を出ると、ダークスーツの女性が待っていた。
 病院の広報担当だという。
 広報担当は、世良彌堂を見て一瞬頬を緩めたがすぐに真顔に戻って、二人を車まで案内した。
 イトマキ症専門病院は、表向きは会員制のリゾートホテルということになっていた。
 広報担当はハンドルを握りながら、病院付近の温暖な気候、万全の医療体制をアピール。
 また、湘南、鎌倉、逗子という土地の特性に触れ、ここが歴史的に療養に向いた場所であることを強調した。
「でも、ここって、古戦場なんですよね?」とチホ。
「えっ、ええ、何しろ歴史のとても古い街ですので、そういうことも……ええ」広報担当は語尾を濁した。
「なるほど。弓と槍と結核で、死体の山が築かれたわけか」
 世良彌堂がチホにしか聞こえないように呟いた。
「津波。水難事故。心中。立地条件は最高。正にここは、関東髄一の死に場所」
 チホにすごい顔で睨まれ、世良彌堂は(何だ?)(何なのだ?)不思議そうな表情を浮かべ、(女は謎……)黙り込む。
 病院は海から少し離れた小高い丘に建てられていた。
 丘の上ではなく、丘の斜面に。
 平屋で横長の白い病棟が丘の麓から頂上まで七棟、段々畑のように並んでいた。
 二人は広報担当に導かれて、長いエスカレーターで一番上の一号棟へ向かった。
 上に行くほど入院料が高く、そこからだと遠く太平洋が見渡せた。
「ふーん。豪華ね」
「もし、おれが入院したら、毎晩ここでパーティーだな」
「お金あるの?」
「稼ぐさ」
「騙し取る、でしょう?」
 二人はガラス張りの待合室から広々としたテラスへ出て、海を眺めた。
 端のほうで、車椅子の男の子が看護師と一緒にやはり海を見ていた。
 少年は薄らと青味がかって無機物ぽい世良彌堂の肌とは異なり、ゆで卵か牛乳石鹸のような白くつるつるの肌をしていた。
 身長はそこそこありそうだが、顔つきが幼く年齢の見極めがつかない。
 高校生かもしれないが、大きな小学六年生にも見えてしまう。
 鼻は低く目は細く平面的な顔立ちだが、これはこれで需要のありそうな純和風の少年だ。
「見ろ」と世良彌堂が目配せした。
 看護師が酸素マスクのような器具を男の子の口に当てていた。
「あれが、どうかしたの?」
「何だ。見えないのか」
 世良彌堂はゆっくりと男の子のほうへ歩いていく。
 チホもつづいた。
 そばまで来て、やっと気づいた。
 男の子は口から噴き出すように数本の細い糸を吐いていた。それを看護師が器具で吸い込んでいるのだ。
「な」車椅子に背を向けて、世良彌堂がチホを見上げた。
 チホは治療室を見学しに、広報担当と別の棟まで下っていった。
 世良彌堂はテラスに残った。
ウントネー、彌堂ハモット海ヲ見テイタイナー。ダメ?」 
 かなり頭の悪そうな天使だった。
 彼は彼で調べたいことがあるのだ。
 三号棟の次が五号棟で、ここが施設のちょうど真ん中になる。
 チホは広報担当と治療室を見て回った。
 病棟にはプラスチックの板で仕切られた十二個の処置室があり、それぞれ患者が入っていた。
 テラスで見た少年が使っていた器具を巨大化させた、蓄音器かホルンのようなラッパ型の器具に向かって、五、六歳の女児がこほんこほんと可愛らしく咳き込みながら糸を吐いていた。
 チホの父親と同じくらいに見えるメガネをかけた男も激しく咳き込みながら精力的に糸を吐き出している。
 九十歳以上に見える老婆はベッドに寝たまま静かに寝息のように細い糸を吹いていた。
「こうして、吸引している限り、繭化まゆかは起きません」と涼しげに語る広報担当。
「繭化してしまった人は、どうなるんですか?」
「繭化すると体の自由を奪われ生理的な機能も著しく低下してしまいます。一種の仮死状態になります。でも、大丈夫ですよ。こちらでは、患者様の繭を除去し、機能を回復させる特別な処置をさせていただきます。またクオリティーの高い生活を取り戻すことも可能です」
「えっ、元に戻れるんですか!?」
「個別の病状とリハビリ次第となりますが……ええ」
「繭化してもうすぐ三か月になるのですが、まだ助かりますか?」
「ええ、数年経過してから入院された患者様もいらっしゃいますし……ええ」
「マジで? で、治るんですか?」
「残念ながら、根本的な治療法はまだ確立されておりません。ただ、症状の緩和を図りながら時間を稼ぐことができます。ここで療養しながら、新薬の開発、画期的な治療法の発見を待つのです。幸い吸血者には寿命というものがありません。時間を味方につければ、どんな病にも打ち勝つことができるでしょう」
 悪くない施設である。
 問題は金だ。
 チホは理科斜架から預貯金の通帳とマンションの権利書を預かっていた。
 理科斜架が口から溢れ出る糸を片手で押えながらしたためてくれた財産処分の委任状もある。
 これを担保に協会ルートで融資もしてもらえる。
 しかし何年待てば、特効薬が生まれるのだろう。
 入院費が切れたらその先どうすればいいのだろう。
 ここを追い出され、再び繭化した女の子を二人抱えて、自分はどうやって生きていくというのだろう。
 自分もいつ繭化するかわからないのに。
 まったく想像もつかない未来。
 ライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャーだ。
 先立つものは、やっぱり金……チホは病棟の床を見ながらとぼとぼ歩いていた。
 前を歩く広報担当の濃紺のパンツと黒いウエッジソールのパンプスが視界から消えていく。
 前から点滴スタンドを押しながら患者が向かってきた。チホが気づいて、道を譲ると、スタンドが止まった。
「シニハタ……」
 チホは患者の顔が見えるまで面を上げた。
 サエだ。
 冴にしては前髪をピンで止めてうしろはゴムで束ねた髪がかなり変だ。
 彼女なら名状しがたい無造作なヘアースタイルもファッションも大嫌いなはずだった。
 シニハタ、それなんて髪型? 言ってみ。
 その服、どこで買った?
 シニハタ、あんた女捨ててるって……
 一緒に住んでいた時はよくそう小馬鹿にされていたのだ。
 だからこの人は違うかも。
 でも、どう見ても冴だった。
 冴というのは、チホが理科斜架たちと暮らす前に「フレンズ」だった女性なのだが、患者の格好をして何でここにいるのだろう。
「忘れちゃったの? 酷すぎ。笑える。冴だよ」
 冴はチホが見覚えのある呆れ顔で笑った。
「今思い出したよ、冴。何でここにいるの?」
「病気だもん、わたし」
 どこが? 食べざかりの中学三年生みたいなぷりぷりの美肌である。
 冴は隅々まで補正し尽した画像から抜け出て来たようだった。
 チホが知る冴はいつもげっそりとやつれていた。
 ダイエットのため120mlの血液パックを必ずスプーン二、三杯分捨てて飲むほどだった。
 現状維持に命をかけ、ケーキのレシピ並みに体重四十七キロを死守していた。
 身長165センチの理想体重より7・5キロも少なかった。
 それで理想体重より立派に2キロ少ないチホをぽちゃ呼ばわりするのだった。
 あれが平常ならば、この冴は確かに病気かもしれない。
「そうか、病気か。やばいじゃん」
「やばいよ。ていうか、シニハタ、急に現れないでよ。死神かと思ったよ」
「冴のほうが酷い。シニハタシニハタって……」
 びっくりしたよ、びっくりだよ、びっくりびっくり、と言い合う二人を前に、引き返してきた広報担当が所在なさげに立ち尽くしていた。(1)


(1) 
千葉電力少女シオリだけど、また出たよ
 チホが旧友と劇的な再会を果たしていた時、あたしは〈1420〉で留守番をしていた。
 もう死んでいるので特にやることもなく、リビングや廊下で電池をただコロコロ転がしていた。
 チホが今どこでどうしているかはだいたいわかる。電波をたどって彼女のスマホに入り込めばいいから。バッテリーがすぐなくなるからあまりやらないけど。
 廊下の突きあたりのドアは理科斜架さんの部屋で、突きあたりの左が蜘蛛網さんの部屋だった。
 あたしは二人の部屋の前でドアを見上げ、また廊下を引き返してきた。
 理科斜架さんと蜘蛛網さんが元気だった頃は留守番にも趣と気品があった。
 チホが仕事でいない平日の昼。
 小さな双子と矮小なあたしのオモチャのお茶会。
 理科斜架さんは電池の隣にカップを置いて、バラの紅茶を注いでくれた。紅茶の湯気があたしの体を通り抜けて部屋の天井へ上がっていった。
「余計なお世話なのかもしれないけれど」
 理科斜架さんは飲み終えたカップをソーサーへ戻して言った。
「あなた、いつまでここにいるつもり?」
「えっ、ご、ご迷惑でしたか? じゃあ、そろそろ部屋に戻り……」
「そうじゃなくて、娑婆シャバにいつまでいるのかってこと」
「娑婆……」
「あなたには行くべき場所がほかにあると思うけど」
 あたしが死んだ当時、理科斜架さんも蜘蛛網さんも、あたしの存在を知らなかった。
 隣の〈1419〉は普段は空き部屋で、ときどき男が出入りしている謎の部屋だったから。
 部屋の中にもう一つ小さな部屋があって、椅子に縛りつけられたあたしがいるなんて、あの人以外誰も知らなかった。
 あたしが腐ってやーな臭いを出しても、なかなか気づいてもらえなかった。
 言っちゃ悪いけど、理科斜架さんたちは毎日飲んでいる血のせいでお鼻が馬鹿になっちゃっていたんだと思う。
 管理人が警察を呼んで大々的にニュースになったのは死んでから二年後だもの。
 あたしは一気に、家出娘から白骨化した高校生の死体へと二階級特進しちゃったわけなのだ。こんなふうに有名にはなりたくなかったけど、どうせみんなすぐ忘れるしね。
「この世はね、ほかに行くべき場所がない者が仕方なく住むところなの。あなたは旅人になったの。旅人になったあなたは旅をするしかない。旅人はもうこの世には住めない」
「お、お言葉ですけど、理科斜架さんと蜘蛛網さんは、どうなんですか?」
 あたしは無謀にも論戦を挑んでいた。
 憧れの人に突然非難されてびっくりしちゃったんだと思う。
「とても優雅にお暮らしですけど、人間社会に迷惑かけてないですか? お二人も本当は、この世にいてはいけない人なんじゃないんですか?」
「時間を弄んではいけない」
 そう言うと理科斜架さんは静かに椅子を離れて、蜘蛛網さんの前に立った。二人は顎の紐を解いて、各々小さな帽子を脱いだ。
「自分に嘘はつけても、時間に嘘はつけない」
 理科斜架さんはつづけた。
「時間を亀のように追い越しても、必ず兎のように追い抜かれる」
 理科斜架さんは赤い帽子を蜘蛛網さんの頭に載せた。
 蜘蛛網さんが黒い帽子を理科斜架さんの頭に。
 二人は帽子を交換した。
「ウサギト、カメニ、ゴールハ、ナイ」蜘蛛網さんが言った。「永遠に。わたくしたちのことです」
 赤い帽子を結び終わると、蜘蛛網さんは理科斜架さんになっていた。
 その横には、赤いドレスに黒い帽子をかぶった理科斜架さんが蜘蛛網さんの表情をして黙って寄り添っていた。
 赤い帽子と一緒に理科斜架さんの中身が蜘蛛網さんの体に入ってしまったみたいだ。
「ここにいるのは、蜘蛛網と理科斜架」理科斜架さんになった蜘蛛網さんはつづける。「百五十年ほど前に、ある姉妹の遊びから生まれた架空の存在。わたくしたち自身は、もうこの世にはいない。本当の姉妹は、手の届かないところまで去ってしまった。もう二度とは戻ってこない」
 吸血鬼は永遠に生きられる。
 そう思った姉妹は、長い遊びを始めた。
 二人で考えたお話を劇にして二人が演じるのだ。
 劇は三十年続いた。
 三十年も同じ役をやるとさすがに飽きる。
 次の三十年は役を入れ替えた。
 ストーリーはいつしか途切れた。
 でも役は終わらなかった。
 計算では役の入れ替えは五回起きている。
 ある時、元の姉妹に戻ろうとしたら、思い出せなくなっていた。
 劇を書いた、役を作った、あの二人はどこへ?
 砂が手のひらから零れ落ちて残ったのは、役という魂の入れ物だった。
「潮里さん、あなたもそうなりかけている。でも、あなたには帰る場所がある。あなたはその気になればまだ元の流れに還ることができる」
「大人しくあの世に行けってこと? もし帰ったら……あたしはあたしじゃなくなる?」
「あなたは消える。ほかの大勢と混ざり合って区別がつかなくなる」
「嫌だよ」
「肉体は土に還り、魂は水に溶ける。水は巡る。あなたの水は淀んでいる」
「そんなスピリチュアル、あたしは信じません」
「話に落ちがついたわね」蜘蛛網さんがにっこりと笑った。
 真顔のままの理科斜架さんを促して、蜘蛛網さんは理科斜架さんとまた帽子を交換した。
「今日の話、チホには内緒にできるわね?」赤いドレスに赤い帽子を被り直した理科斜架さんの完成版が言った。「混乱させたくないの。あの子はまだ時間と共に歩んでいる。時間が立ち止まった時、どこへ向かい、どう歩くか。それはあの子が決めること」
 蜘蛛網さんが無言のままこくんと頷いた。                                   
 あれ、体がシマしまだ。
 電池の残りがなくなった。
 少し転がりすぎた。
 あたしは湯気みたいにユラユラ電池から抜け出した。
 無色透明に戻ってチホが帰ってくるまでふわふわぶらぶらするのだ。
 あたしは少し眠いような消えるような気持で窓ガラスを通り抜けた。
 ぼんやりと空を漂ってマンションの庭を見下ろしていた。
 青々とした芝生の一か所だけが金色に光っている。
 電気だ。
 どうして?
 あたしはそこへ降り立った。
 小さな単四の電池だった。
 まだ使えるみたい。
 誰が落としたのだろう。
 もったいないからあたしが貰う。
 電池の中へ入ると青白いあたしが登場した。
 身長は二十センチくらい。
 単四だからしょうがない。
 あたしは芝生の上を転がりながら、マンションを見上げた。
 さっき飛び立った〈1420〉のベランダが見えた。
 あそこからは港がよく見える、双子がお気に入りのベランダだった。
 蜘蛛網さんが発症した日もチホは仕事だった。
 よく晴れていた。
 午後のお茶の時間だった。
「あら、いい風……」
 手招きするようにレースのカーテンが揺れていた。
 理科斜架さんはカップを手にしたまま千葉港を眺めていた。
 双子は風に誘われるように室内からベランダに置かれたガーデンチェアへ移った。あたしもコロコロついていった。
「また夏が来るわね。春夏秋冬、同じ数だけあったはずなのに、夏が一番多い気がするのは何故かしら。わたくしたちが夏に生まれたから? 夏に生まれたのかしら。蜘蛛網さん、あなたは憶えている? 元の子たちがどの季節に生まれたのか。蜘蛛網さん、あなた……」
 かちゃかちゃと音がした。
 カップとソーサーが触れ合う音だ。
 同じく港を見ていた蜘蛛網さんの首が、ぎこちなく揺れながら、並んで座る理科斜架さんのほうを向いた。
 傾いたカップからバラ色の紅茶が滑らかにこぼれていった。
「蜘蛛網! どうしたの!?」
 蜘蛛網さんは椅子の背もたれに崩れるように身を任せると、開いた口から白い煙を吐き出した。
 最初は薄い煙だった。
 それがだんだんはっきりした形になって何本もの糸になった。
 蜘蛛網さんは綿アメの機械のように白い糸を噴き出していた。
 理科斜架さんは金縛りにかかったように呆然としていた。今まで鏡に映ったもう一人の自分だったものが別の姿に変わってしまったのだ。
 理科斜架さんがやっと気を取り直した時には、もう蜘蛛網さんは薄いベールに包まっていた。
 理科斜架さんは蜘蛛網さんの名前を呼びながら、ベールを必死で剥がすんだけど、吐き出される糸でどんどん次のベールが織られてしまって切りがなかった。
 あたし? 今は冷静に思い出してるけど、その時のあたしは電池があっちへコロコロこっちへコロコロ、動揺してたよ。
 チホが早引けで帰ってくるまでコロコロだった。霊なんて本当、役立たず。
 チホと理科斜架さんは手分けして看病したり情報収集したりした。
 理科斜架さんが古い知り合いに訊き回ると似たような症状の人はほかにもいて、みんな困っているようだった。
 チホは協会に何度も電話をかけたけどわかったことは「イトマキ症」という言葉だけで、それがどういうものでどうすればいいかは教えてもらえなかった。
〈1420〉には、今白くてやや青味がかった「繭」が二つ横たわっている。
 皿や壺や置物など長年かけて集めた品々でいっぱいの理科斜架さんの部屋も、蜘蛛網さんの物がほとんどない部屋も、二人の体から出た「糸」でひどい飾りつけをされてしまった。
 スパイダーマンが仕掛けた罠みたいに、柔らかくて強い繊維が張り巡らされて、あたし以外は部屋の中へ踏み入ることができない。
 二人が包まった繭は、それぞれ繊維に吊り上げられ、部屋の宙に浮いていた。
 不器用なガリバーのあやとりがこんぐらかって珠になった感じ。
 灯を点けると、繭の中に小さな人の影が映る。それが現在の理科斜架さんと蜘蛛網さんだ。
 理科斜架さんが発症した時のことはチホのほうがよく知っている。
 蜘蛛網さんの十二日あとだった。
 チホは三日間くらい腑抜け状態だった。
 彼女は本当の親と別れて双子と暮らしていたから二度家族を失ったようなもの。
 まだ決まったわけじゃないけど、そうなりそうだ。

「どうされたんですか? こんなところでポツンと」
 振り向くと、柱が二本立っていた。
 見上げると巨人の顔があった。
「おや、これは……ちょっと失礼しますよ」
 枠林さんが腰を落として芝生の中に転がっていた電池を拾い上げた。
「もうあまり電気も入ってないし、捨てちゃってください」 
 あたしは大きなてのひらに乗って枠林さんと話をした。
「いや、助かりました。知らずに芝刈り機で巻き込むと、刃こぼれしてしまいますからね」
 あたしはてのひらにしゃがんで手相に顔を近づけた。
「管理人さん、生命線長いですね。きっと、まだまだ生きられますよ」
 枠林さんは大きな口を開いて笑った。
 電池が揺れて、あたしの体も小刻みに波打った。
「この前、お父様とお母様がテレビに出ていました」
 世間話が済むと、枠林さんのマイルドなお説教が始まった。
「犯罪被害者の特集で、インタビューに答えておられました」
「そうなんだ。チホはあんましテレビ見ないから、あたしも全然見れないよ」
「立派な活動をされているようです」
「死んでから、気にしてもしょうがないのに」
「気がついてから始める、というのも大変なことです」
 枠林さんもあたしがこの世にいるのは、あまり良くないことだと思っている。
 あたしが家族のことが好きじゃないから、それが心残りでまだ成仏できないと考えているようなのだ。
 別にいたいからいるだけなんだけどね。
 何が何でも成仏しなきゃならないっていう価値観、どうにかならないものか。それ、生きている人の幻想だよ。
「死んでもこの世に残って、いろいろ見たり聞いたりするのもありなんじゃないかな。そうは思わない?」
「すいません。頭の古い人間ですから、なかなかそういうふうには……」
 枠林さんは鶴の羽みたいな白い眉毛を下げた。深い井戸のような瞳の中に口を尖らせた青白いあたしが映っていた。
「あたしそろそろ行くね」
 枠林さんが小さく溜め息をついて、てのひらに残された小さな電池を胸のポケットに収めていた。

(つづく)



その3

その5



本作執筆中、ヘビーローテーションしていたALI PROJECTのベストアルバム「快恠奇奇」(かいかいきき)
吸血双生児・理科斜架と蜘蛛網のイメージは
もう一枚のアルバム
「薔薇架刑」(そうびかけい)によるところが大きい


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