“for 子ども”から、“with 子ども”の視点に──青山誠(1) #保育アカデミー
初めての「緊急事態宣言」と縮小保育、そこから日常化した感染対策、さまざまな活動の見直し……。長引くこのコロナ禍で、私たちはどれくらい「子ども」を真ん中にしてこれたでしょうか。
感染症はもちろん怖いものです。けれども、そこの対策ばかりに寄り過ぎて、大切なものを見失っていないか。そう問いかけたのが、これまで『りんごの木子どもクラブ』をはじめ、いくつもの保育施設で子どもに寄り添ってきた青山誠さんでした。
「子どもたちは一人ひとり、ちゃんと“自分の声”を持っています」
2020年11月、『秋の保育アカデミー』。講師の青山さんは、現在園長を務める『上町しぜんの国保育園』で感じてきたことや、保育者が今すべきと思うことを語ってくださいました。
子どもがいて、保育の場所が生まれる
青山:今日は僕が園長をさせていただいている、『上町しぜんの国保育園』からお届けしています。東京の住宅街にある、定員105名の認可保育園です。
日曜の夜なので(2020年11月8日(日)配信)、子どもたちの姿はありません。ただ、つい昨日まで子どもがいた空間って、遊んだあとがまだ残っていて、子どもたちの匂いがするんですよね。誰もいない園舎なのにどこか子どもの「存在」を感じられる、不思議とほっとする感覚を今受けています。
青山:2020年の春、僕はこの園から子どもがいなくなっていく状態を経験しました。コロナの感染拡大で、原則休園(東京都の「緊急事態措置」のもとに区が判断)となった4月から5月のことです。
休園は1ヶ月ちょっと続いたんですが、子どもたちの姿が消えると、園舎から子どもの匂いがどんどん減っていくことに気づきました。そのとき改めて感じたのが、保育はやっぱり「ハコモノ」じゃないんだなと。
そこに子どもがいて初めて保育になる。あるいは子どもの存在を感じて、そこが「保育の場所」になっていくんだな、って思いましたね。
青山:2019年に園がスタートしたときに、職員と確認したことがあるんです。
「この場所には、もともと石材置き場がありました。もしここが原っぱで、お弁当を持たされた子どもたちが来て、近所の人が見ててくれるなか自由にどろんこ遊びも木登りもできる場所だったとします。
さて、そこが保育園になりました。途端に『木に登っちゃいけません』『今日は園庭出ちゃいけません』……となるんだったら、園なんかない方がいいじゃない」って。
園のために子どもがいるんじゃなく、子どもが先にいて、その子たちに必要だから園がある。『子どもの最善の利益』って保育所保育指針にも書いてあるんです。子どもが生まれて、その子が幸せになるための場所だってことを、僕らは忘れちゃいけないと思うんですね。
でも、このコロナ禍で起きてること、どうでしょう。ちゃんと子どもの方を向いてるのかな? 本当にこれが最善の利益なのかな? って感じることが、僕はたくさんありました。
「緊急事態宣言」で感じた不安と疑問
青山:4月に初めての緊急事態宣言が出されて、休園になって。あのときは思い返しても、ものすごく不安でした。
わけの分からない未知のウイルスが来て、この事態をどう受け止めたらいいんだろう、子どもたちにどう向き合って守ればいいんだろう、保育って何なんだろう……と。
これは全国の保育者が、共通して感じた部分だと思うんです。当時も今も、地域によって状況は全く違いますけど、「子どもの隣にいる」うれしさと危うさをみんなが身体的な感覚として共有した気がするんですね。
青山:で、緊急事態が解除されました。そこから今度は、いろんな感染症対策の文書が行政から送られてきます。すると、すごく禁止事項が多いわけです。
例えばうちの区では、早々に「プール禁止」が打ち出されました。ところが、添付されている厚生労働省の資料には、プールは気をつけてやるようにと書いてある。「どっちなの?」ってなりますよね。
もちろん行政も混乱してます。けど、僕がそこで「ちょっと違うんじゃないか」と感じたのは、そうした対応がすべて“大人のため”のリスクマネジメントになっていたことなんです。
青山:何かあったとき、親に言われるから。マスコミに晒されちゃうから。だから禁止するって、方法としては簡単です。
でも、「それじゃ僕たち、何で保育やってるんだっけ?」と分からなくなっちゃうと思ったんですね。
「人が」「人を」育てるのが保育
青山:とにかく保育を止めないこと。多くの対策で今、これが目的になってしまってるんです。それで本当にいいのかなって。
最近だと、PCR検査を保育施設の全職員に受けさせるという話があり、僕は園長会で反対を示しました。
だって、保育者もひとりの人間なんです。保育者という理由だけで全員が一斉に検査をさせられて、「はい、あなた陽性。2週間休園ね」となったらその人はどう感じますか? 絶対自分のせいだって考えますよね。
ここのケアが一切ないまま、検査ありきになってしまうのって、単純に「人」として見てもらえてないからだと思うんです。
青山:どうしてそんな扱いをされてしまうんでしょうか。よく言われるのは、「保育はインフラだから」と。でもね、僕らはそこで「インフラが人を育ててるんじゃありません」と言っていいと思うんです。
人が、人を育てているのが保育です。社会の下請けじゃないし、サービスでもありません。この場所には、子どもたちも保育者も本当にいろんな「人」がいるんです。
そういったことを抜きにして感染防止だけが考えられていくことに、僕は強い疑問を持っていました。
“子どものため”じゃなく、“子どもと一緒に”
青山:少し子どもたちの姿を紹介しますね。うちの園には、子どもたちが話し合う『ミーティング』の時間があるんです。イスを丸く並べて、保育者もひとりの人として参加します。
例えば「とうもろこしのひげ茶をつくりたい」って男の子がいたら、どうやったらお茶がつくれるかみんなで考えたり。「おひさまで乾燥させる」「梅雨だからおひさま出てないよ」「レンジでチンしたら?」とかね、たくさんアイデアが出るんです。
それから、2対1で嫌なことを言われてしまった子がいたときは、「そのときどういう気持ちだったか」「もし自分が言われる側になったらどうしたらいいか」と話したり。「大人を連れてくるかなぁ」とか「もうちょっと強い人を連れてくるかなぁ」とか、みんなで思い悩んでね。2と1でしょ、って手やペンを使いながら考えたりします。
青山:どれも何てことないシーンばかりです。けど、こうやって日々いろんな意見が出てくるのを見ると、子どもたちって本来一人ひとりがちゃんと「自分の声」を持ってるんだなって気づくんですよね。
例え言葉にしなくても、顔だったり手だったり。言葉にならないものも含めて子どもたちはたくさん表現をしてくれてます。
でも、このコロナに関わる対策で、大人は子どもの声をどれだけ聞いてきたでしょうか? 「安全管理」の名のもとに、子どもたちの表現や意思をすべて塞いでしまってはいないだろうかと、僕は思うんですね。
青山:もちろん感染を防ぐために、やらなきゃいけないことはある。ただ、それを“子どものため”と押し付けてしまったら、僕は間違えると考えてます。なぜなら、子どもたちが一切反論できないからです。
「“あなたたちのために”今年は中止にしました」って言われたら、「えええ……」と内心思っても結局「先生、考えてくれてありがとう」って返す以外ないじゃないですか。
でも、そういう一方的な関係の中に信頼なんて生まれないですよね。信頼のないところに、子どもの学びはないと思うんです。
青山:僕は保育や教育に携わる人が今持たなきゃいけないのって、子どものため(for 子ども)じゃなくて、子どもと一緒に(with 子ども)って視点だと考えています。つまり、子どもたちと対話すること。
もし何かができないとしても、なぜかをきちんと説明する。意見を聞いて、他にどんな方法があるかを一緒に考える。そうすれば、子どもたち自身の体験にきちんとなるんです。これが「子どもの声を消さない」ことじゃないかなって。
ここは、人が人の中で育っていく場所です。子どもたちが先にいて、その一人ひとりを支えるために保育や教育がある。
だから、例えどんな状況であろうとも、保育で行うことの主語は必ず「子ども」じゃないといけない。子どもたちの意思をきちんと汲み取るのが、保育者の仕事だって僕は思うんですね。
<後編に続きます>
(構成・執筆/佐々木将史)
【転載元】BABY JOB株式会社
“for 子ども”から、“with 子ども”の視点に。コロナ禍で僕たち保育者ができること(上町しぜんの国保育園・青山誠)1/2