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第22回 「倉橋惣三に学ぶ|自由遊びから仕事へ」

『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』

読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。

この本は、昭和8年(1933年)夏の

「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。

実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。

第22回は、

自由感と精進感

テーマとなっています。


第3編-2「自由遊びから仕事へ」

自由遊びというのは、子供が自由感をもって遊んでいることを言うのですから、その遊びの内容について、特別のものを意味しているわけではありません。(P103)

家庭から幼稚園へ生活を分断させないような注意が必要で、その役割が自由遊びとなるのは自然なことになると。もちろん、朝に計画が行われることも時にありますが。

どれも一つの型として話しているわけではなく、保育の主題が自由遊びで遊んでいたとしても、子どもの自由感で遊んでいるのであれば、それは自由遊びだと言えるのだと。

すなわち、ここで言う自由遊びということは、誘導保育案に誘い出されている保育と、必ずしも別なものときまってるわけではありません。どんどんかけまわっていることだけが、自由遊びで、何か製作しているのは、自由遊びではないということにはなりません。(P103-104)

〈誘導保育案について〉

1930年以前は、保育事項のいずれでもないものが自由遊びだと考えられる傾向があったようです。しかし、倉橋は、保育事項そのものが自由遊びの中から取り出されたものであるため、自由遊びと保育事項は並べて区別できるものではないと言います。

ここで言う保育事項は、子どもを起点にして、子どもの「今」から生まれるものを意味しているので、子どもの実態を抜きにした保育事項(例えば強い刺激で盛り上げるような、観察と丁寧さに欠ける主題の設定)が自由遊びで展開されることとは質が違います。

自由遊びの過ごし方

「今は自由遊びの時間だから外へ出なさい」と、こういうことではないと。

園庭を気ままにあちこちを歩き回る風流な子もいていい。

しばらくぶらついていないと、インスピレーションがこない子もいる。

何かのはずみで、自分たちの思いがけなかった興味が起こってくることもある。

それを妨がない。

この意味において、自由遊びの中から、いろいろなしっかりした内容の生活が始まることもいいこですが、出来るだけ指導要素の加わらない、まして、教導が多く加わらない、幼児自らの自由感に満ちた時間をもって、幼稚園生活の一日を出発させたいものです。(P104-105)

〈教導について〉

朝の会集について

若い頃(1910年頃)、倉橋は、朝の会集の反対をしていた。その後、やり方によっていいでしょうし、しきたりにそこまで反対しなくてもといった譲歩や遠慮が出てきたとも言います。しかし、考えれば考えるほど、朝の会集に対する反対意見は強まったと。

あの貴い爽やかな幼児の朝を、会集なんていう固くるしい形で始めたくはありません。(P105)

自由感に満ちている朝の時間がどれくらいまで続くべきかは、状況によって変わることもあるでしょうし、その日の予定もあるので、いろいろになるが、「自由感から始まる」べきだと倉橋は強く強調しています。

生活の精進感について

自由を求める自然の要求と、あるまとまりを求める自然。

何か自分にもはっきりと目的に結びついた生活や、あるところまで仕上げないと気が済まない欲求。ただ取り組むだけではなくなるべく上手にしたいという衝動。

自由遊びに比べたら窮屈ではあるが、あえて自分でそれを求めるところが人間にはあると言い、それを生活の自由感に対して、生活の精進感と倉橋は名づけていました。

ここでの精進とは、精神修行のような難しいものではなく、何か仕事に夢中に取り組みたいという心。つまり勤めで、勤めというと、「勤めのつらさ」が出てくるがそればかりではないはずだと。

精進とは、人間ー子どもでもーの大きな楽しみであり、自然の要求でもある。

ただ私がここに、ここで申しているのは、義務感とか、義理感とか、苦行とか、いやいやながら役目だから仕方なくしているというふうの世間普通に言う、自分を強いていく意味ではないのであります。(P107)

この精進感は、義務や義理、がまんで縛りつける意味とは全く反対であるとのことです。

精進感は、自由性の豊かさと比べて、微かかもしれないが、決して不自然なものではなく、自然な要求、自然な傾向であると言います。

自由感と精進感

自由感と精進感は大人のそれと比べると些細なものであると倉橋は言います。

それを初めから抑えようとするから、絶食者の食欲のように際限なく求めてくるように見える。

私たちはー私たちよりえらい人々はー、非常に強い自由感と非常に強い精進感とで常に生活しているかもしれませんが、私たちのように、その両方ともいい加減なのを、生活性の低い人間と言います ー (P107-108)

大人としてはそうなのだけれど、幼児の精進感はそうではないと。

大人にとっては精進感には思えないほどのことでも、自由感から精進感へ移っていく、自由遊びから仕事へという順序が、幼児としても自然と起こっていく。

ここを理解していないと、子どもが自由感を持って遊んでいるのを見ていて、何か大人のような精進感を持たせる方法はないかという想いを抱く保育者もいるでしょう。

それは多くの場合、「子どもに対する大人の無理」というものの始まりになると。

しかし、子ども自身としても自由感のなかでも、むくむくと精進感を満たしたくなってくるので、保育の一つのコツとしてはそこを見落とさないことだと倉橋は言います。

お腹がすかないと食欲が出ないように、

真の子供の精進感は、真の自由感を一応充たされてからでないと湧いてきません。(P108)

精進感が起きてきたら

朝の生活で、真に自由感が充たされた子どもに精進感が起こってくると、様々な姿が見られようになる。

精進感が起きてきて、何をしようかととまどっている子どもがいる。

そこで、先生のところに何かすることはないかと聞きに行く。

”実に憐れな姿じゃありませんか。”

先生は、よく聞きにきたと仕事を与える。

そこで、子どもも先生も「なるほど、これが先生だ」と思う。

”いよいよ情けない姿じゃありませんか。”

先生の所に行かなければ仕事がもらえないのではなく、子供自ら、自由感と精進感とを自分で、いつでも取捨選択出来るように、幼稚園そのものの生活形態が、予め出来ていたらいいのにと思います。(P109)

「先生、今日は何をするんですか?」

「今度は何をするんですか?」

この本が書かれた当時、幼稚園でよく聞かれた子どもの声だそうですが、現代はどうでしょうか?

倉橋はこの状態を「奴隷的精進感」と表現しています。

そういうふうに馴らされ、自主性のない状態。

家庭では、家族のしていることを真似することから生まれる学びがあったり、自分のタイミングで絵を書き始めたりするように、自由感から精進感へ、自分で自分の生活を移していく土台がある。

それが幼稚園に来ると、先生に伺いを立てなかればいけないのはおかしいと指摘されています。

……幼稚園の先生方よ、あなたの愛すべき幼児たちのけなげな精進感を自分たちのものにさせてやって下さい。(P109)

子どもの健全な育ち、子どもにとってよりよい環境を考えるとき、保育者の「奪わないあり方」を観点にすることも必要でしょう。

そうは言っても、「子どもがしないので困ります」という先生がいるかもしれません。

連れていらっしゃい。いいえ子供ではありませんよ。その先生をです。うんと叱ってあげましょう。(P1110)

ー第23回へ続くー

倉橋 惣三|くらはし そうぞう
1882年(明治15年) - 1955年(昭和30年)
静岡で生まれ小学生のときに上京。
フレーベルに影響を受け、日本の保育や幼児教育の礎を築いた人物。
日本での“幼児教育の父”、“日本のフレーベル”と呼ばれている。
食べることが好きで、幼稚園真諦の本文中に出てくる例えでは、「食事」が用いられることが多い。
享年72歳。

[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)


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