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#60 「適当」〜いい加減と、ふさわしい加減〜

6月29日。土曜の午後。

午前中の仕事終え、梅雨の晴れ間にちょっとそわそわしながら定禅寺通りを足早に抜けて、仙台メディアテークへ向かっていました。

2ヶ月前から楽しみにしていた「ドートクの時間」

「対話の可能性」(「序」)に出会って衝撃を受けて、著書を読み込んできた鷲田清一さんと、「手の倫理(講談社選書メチエ)」「目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)」を読んで影響を受けた伊藤亜紗さんとの対話を首を長くして待っていました。

「適当」をテーマに、【ものごとの「いい加減」とは?ふさわしい状態としての「適当」とはどういうものか】を、伊藤亜紗さんが事例紹介をもとに対話が重ねられていった時間。

保育の営みに直接つながっていく感覚と、自園で大切にしていることを言語化してもらっているような感覚と、メモの手がとまらない2時間でした。

いい加減。ふさわしい加減。
適切(+)かつ、不適切(ー)
いい加減(ー)かつ、ちょうど良い(+)

プラスにもマイナスにもなる「適当」

コインのように裏と表がコロコロ変わるのが「適当」

一筋縄ではいかないのが「適当」

伊藤亜紗さんが、一旦の「適当」の定義として【規範に対する操作性】とするところから始まっていきました。

適当とは【規範に対する操作性】である。
ルールや命令をどれだけ揺さぶれるか。
ある程度の「自由」。遊びがある。

規範に対する操作性という定義から、「外側(社会、誰か)からルールを与えられて、内側(自分、自分たち)の創造性や問題解決力が窮屈になる。そういった背景を想像した(伊藤亜紗さん)」と。

振り返りのまとめがとんでもない量になってきたので、このnoteでは2つのトピックについて書いていきます。


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私にとっての「保育」という存在にも向き合っていきたい。子どもにとっての「保育」も、保護者や社会にとっての「保育」も考えていきたい。その営み…

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