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第26回 「倉橋惣三に学ぶ|流れ行く一日」

『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』

読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。

この本は、昭和8年(1933年)夏の

「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。

実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。

第26回は、

幼稚園等での生活の一日をどうとらえるかが

テーマとなっています。

第3編-6「流れ行く一日」

先生たちの努力が行われているとしても、子どもたちは主体的に生活し、どこまでも水の流れるように動いていく。

これを仮に、流れ行く一日と気どった言葉で表してみましょう。(P120)

この流れが保育者によって勝手に切りこまざかれていいのでしょうか。

裁とうとしても切れないのが水の流れであり、こまごまに区画されたら流れではない。

これでは、子どもの生きた生活ではないと倉橋は言います。

幼稚園(保育現場)での生活に仕切りをつけられ、切れ切れの教育効果を目的とされたのでは寄木細工に過ぎないと。

朝来てからお帰りまで、ずっと流れつづけているのが幼児の幼稚園の一日です。(P120)

幼稚園の真諦は、どこまでも子どもから出発する、子どもの生活に立場を取る以上(生活を生活で生活へ)、この流れをどこまで真の流れとできるか。

生活や活動のひとつひとつが立派な商品のようにきれいに並べられていても、それでは幼稚園教育とはならない。

もっとも流れているからといって、教育の間のーー子供のーー生活は河の水と違って、次から次へと形も中味も変えていきます。ただ、その変り方が、ぽつんぽつんと切り離れたものにならないで、いつの間にか移っていき、移り変るには、変るだけの必然性があって変っていくことを見落してはならなにのであります。(P121)

時間割のようになった幼稚園の生活は一見すると、区切って扱われているようになっている。

しかし、そうではないと。

教育効果を意識して見る先生が心の目で見るものであって、子どもの生活形態を切るものではない。

この本の始めに、

幼稚園という所は教育を教育としてするのではなく、

生活を教育へもっていく

単なる配当形式、あてがい保育案を排斥して、誘導保育案でこそ幼稚園らしい保育ができる

のだと倉橋は主張していた。

これは、流れる生活に沿って流れるような保育課程を求めたいからだと言います。

流れている幼児の一日の生活を、強いて区切ろうとして、各組ともに画一的に、合図を鳴らして幼児を出入りさせている幼稚園がある。

古風好みの人は老小使に拍子木をうたせる。

モダン自慢では電気時計のベルを鳴らす。

それも幼児の精神疲労の心理学説などを引用して、なかなか説明のこみいった科学的区切り方などをして得々としていたりする。(P121-122)

姿形を変え、これが現代にも残ってしまっている現場がありますよね。

幼稚園の真諦はいずこへ…

保育者が子どもをコントロールしようとすることと、子どもから始まる、子ども主体の保育との葛藤は100年前にもあったのです。

ー第27回に続くー

倉橋 惣三|くらはし そうぞう
1882年(明治15年) - 1955年(昭和30年)
静岡で生まれ小学生のときに上京。
フレーベルに影響を受け、日本の保育や幼児教育の礎を築いた人物。
日本での“幼児教育の父”、“日本のフレーベル”と呼ばれている。
食べることが好きで、幼稚園真諦の本文中に出てくる例えでは、「食事」が用いられることが多い。
享年72歳。

[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)​

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