第21回 「倉橋惣三に学ぶ|幼稚園の朝」
『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』
読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。
この本は、昭和8年(1933年)夏の
「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。
実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。
第21回は、
計画と実践の関連が
テーマとなっています。
第3編-1 「幼稚園の朝」
目的と共に対象を重んじてこその熱心であり、対象に忠実であるということが、教育の大切な要諦になってきている (P15)
1933年の倉橋の言葉です。この一冊すべてにおいて、どこまでも子どもから出発する姿勢が貫かれています。
第3編では、幼稚園の真諦に基づいた実践とは、どういったものになるかが軸になっています。
幼児教育を営む施設の本当の意味に基づいて、保育の営みが計画されるとして、現場において本当に生きた働きを現してくるのは、保育のプロセス、つまりどう実行されていくかの「実践」にあるという内容から始まります。
私自身は、保育の道を歩み始めて15年ほどになりますが、計画と実践について葛藤しない日はありませんでした。
それは、実践と研究、実践と理論、実践と計画は、どれも両輪で機能することを実感してきたからこそ生まれる葛藤でした。
なかには、どうしても分断本能が働いて、
計画か、実践か。
理論か、実践か。
分別がついていなく、どちらが偉いかというような尺度を持ってしまっている研究者や保育者に出会うことがあり、それについては残念でなりません。
先哲の考えや積み重ねてきた実践と攻究、そして私たちが直面している「今、この瞬間」のつながりが、今と未来をゆたかにしていく。
非難ではなく、批判的思考を適切に扱いながら、よりよくなるように取り組んでいく。
そういうような姿勢を100年の時を越えて受け継いでいく。それが目の前にいる子どもや保護者、地域社会への貢献へとなる。私が、論文や書籍を読み込む背景にはそういった考えや想いがあります。
計画と実践について
本書の内容に戻ります。
日々の保育現場の実際は、実に、その日その日変るもので、決して一定ではなく、一般としての理論をそのまま当て込むことが実践ではないと。
どの幼稚園(保育施設)、どの先生にも共通の一般形式というものがきめられることは無理以上無意味なことであります。むしろ、そんな型のようなもののあることを考えるところに、幼稚園というものを、にわかづけにしたり、ろう細工にしたりして、生命のないものにする幣が起こるのであります。(P101)
各々と言っても、人柄や趣味、良し悪しや上手下手、好き嫌いといった比較からは離れたものになります。
そこを踏まえた上で、その現場らしい、その人らしい、銘々の考えに委ねていくのだが、いくつかの要点が考えらると倉橋は言います。
幼稚園の朝
保育施設の朝が1日の保育に大きく影響してくることから、朝をどうするのがいいのか。
1930年代の「従来の幼稚園の通有の型」と言われるとような幼稚園の朝は、
幼児たちを一応、幼稚園へしっかり入れて、それからいろいろ解いたり散らしたり、まとめたり緩めたりするといった順序にいくのです。(P101)
といったものでした。
しかしもし幼児生活のそのままを、どこまでも保育法の土台としていこうとするならば、朝において、先ず十分に、自由の感じを、子供にもたせることが、最も大切であるとすべきです。(P101-102)
この後、現代でも使われている「(自然の)自由遊び」という言葉を倉橋は使います。
朝、「先ず十分に、自由の感じを、子供にもたせること」は当時の日本では、極端だと考える人もいるのではとのことですが、現代においては、自由遊びという言葉を使っていながら、子供たちが「自然な自由」からかけ離れた朝を過ごす現場もあることでしょう。
それは、人員配置の課題や、言葉の前提を確認する間もなく、方法の実行に偏りすぎた実践を続けてきた背景も考えられます。
朝の過ごし方が、目の前の”子どもたちにとって”どうなのか。
丁寧な「観察と対話」
理論や知識を適切に活かす「知性と品性」
小さい声や見えない声に「気づく感性と寄り添うあり方」
保育者として、実践者として、磨き続けていく。個人としてもチームとしても。その文化が醸成していくように、取り組みを続けていきます。
ー第22回へ続くー
倉橋 惣三|くらはし そうぞう
1882年(明治15年) - 1955年(昭和30年)
静岡で生まれ小学生のときに上京。
フレーベルに影響を受け、日本の保育や幼児教育の礎を築いた人物。
日本での“幼児教育の父”、“日本のフレーベル”と呼ばれている。
食べることが好きで、幼稚園真諦の本文中に出てくる例えでは、「食事」が用いられることが多い。
享年72歳。
[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)