第27回 「倉橋惣三に学ぶ|流れの向け方」
『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』
読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。
この本は、昭和8年(1933年)夏の
「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。
実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。
第27回は、
もしも保育の上手、下手があるとしたら
という視点が出てきます。
第3編-7「流れの向け方」
幼児の自然な生活が区切られ、ぞれぞれにつながりがなくバラバラになっているような保育は、幼稚園の真諦からは離れている。
前回の「流れ行く一日」から続いた内容になるのだが、その流れをただ赴くままに放任していていいとうわけではないと倉橋は話しています。
流れがどういう方向に向い、どういう速度に移っているかは、先生の始終見まもっていなくてはならないことです。それによってその向きも、速度も加減しなければなりません。(P123)
流れ行く一日を、子どもの主体を尊重する、見守る、待つ…
「子どもがわがままになるんじゃない?」
「先生は何をすればいいの?」
「先生ってなんのためにいるの?」
そんな定型な流れをよく見かけます。
結論の飛躍は、余白をなくして楽しませるコンテンツがあふれる現代において(それ自体を否定するものではありません)、それに振り回されない在り方と思考、そして実践が保育者には強く求められます。
倉橋の生きた時代にもそういったことは起きていたようです。
流れ行く一日とのんきそうには言いますが、先生はぼんやり岸に立って水の流れを見て暮している気楽者でありません。
子供の生活は小川の流れ、先生は保育の汗の流れる一日であります。
すなわち、その流れ行く一日を、せきをきって流れ過ぎぬように注意したり、その時々に対して、流れの向きを変えさせたりする所に、ーーしかも、わざとらしくでなくする所に、先生の油断のない、目と心のはたらきが岸の方で行われていなければならないのです。(P123)
決して、保育者の都合ではなく、そのときの条件に従って、流れを淀ませてみたり、溢れさせてみたりする。
幼稚園の保育に、上手とか下手があるとすれば、流れの向け方の巧妙な人を上手と言うのではないかと。
保育の目的と方向に流れているのだけれど、
流れを中断させず、
せき止めもせず、
強引に曲げたりもしていない。
ちょっと見ればただ勝手我ままに流れさせているようでありながら、幼児自身の生活の自然を妨げない、心にくいほど保育の上手な先生があります。(P124)
子どものために
子ども主体に
と言いながら、実は保育者側の都合で動かしている。
決してこれではないと。
自己充実、充実指導、誘導保育案。
どこまでも子どもから出発しているからこそ、子どもの自然な流れをつかみ、「ほんの少し」誰にも分からないようなレベルの丁寧な援助が、子どもの生活を充実させていくのだと思います。
やたらと目立つ先生、子どもを統率できる先生が、「良い先生」となってしまいがちな風潮が現代でもありますが、子どもの育ちにとって、子どもの未来にとって、それが本当に適切な保育なんだろうかという視点は常に持つべきです。
ー第28回に続くー
倉橋 惣三|くらはし そうぞう
1882年(明治15年) - 1955年(昭和30年)
静岡で生まれ小学生のときに上京。
フレーベルに影響を受け、日本の保育や幼児教育の礎を築いた人物。
日本での“幼児教育の父”、“日本のフレーベル”と呼ばれている。
食べることが好きで、幼稚園真諦の本文中に出てくる例えでは、「食事」が用いられることが多い。
享年72歳。
[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)