考えごと日記その34 「徳川慶喜の功績を考える」
徳川慶喜は結果としては残念ではあったが、やろうとしたことは本当に立派であった。「慶喜が大政奉還したからこそ、明治維新が成就した」といっても過言ではないのである。
慶喜の考えた大政奉還は「自らが指導者となって開国を成し遂げ、西洋型の近代的議会政治へ転換すること」だった。慶喜は議会中心の新しい政府、新しいニッポンをつくるために自ら大政奉還し、平和的に改革を進めようとしたのである。
そもそも異国を追いはらえと勅命をだしたのは孝明天皇である。その孝明天皇を説得して攘夷を取り下げたのは誰か。慶喜である。そして天皇から開国の許可(条約勅許)を引き出し、開国への道すじを作ったのも慶喜である。
開国して新しいニッポンをつくるのに大きな障壁となっていたのが、孝明天皇の攘夷思想。それをクリアした慶喜の功績は本当に大きいものであった。慶喜はその勢いにのって、自らの力で新しいニッポンを作ろうと奔走するのである。
ところがパークス(英国)はちがった。パークスは慶喜による改革をヨシとは考えていなかったのだ。徳川を排除し、薩長で新しいニッポンをつくることを考えていたのである。
そのため、英国は薩長に最新武器を流して支援するようになる。そして岩倉具視によるニセの「討幕の密勅」によって、徳川排除の戦争(戊辰戦争)への気運が高まっていくのである。そして開かれた小御所会議において、慶喜は岩倉具視によってハシゴを外されるのだ。
そしてついに戊辰戦争の勃発である。ここで岩倉はニセの錦の御旗をかかげる。ここがポイントである。慶喜は水戸藩出身で水戸学を学んできた人間。
水戸学には「皇室を徳川幕藩体制の頂点に置く」という尊王論があり、これが水戸学の根底である。ようするに皇室は神聖なるもので天皇を尊び重んじるという思想だ。
そんな尊王思想が子どもの頃から身についている慶喜にとって、錦の御旗に銃を向けるなど到底できないこと。慶喜はただただ恭順の意を示すのみで、たとえニセモノだろうと、錦の御旗を慶喜の眼前にかかげた時点で岩倉の勝ちなのだ。
それを「逃げた」とか「無能」だとか「暗君」と呼ぶのは……う〜ん……どうなんだろ、と思うんだな。ボク個人的に思うに、開国への道すじをつけたのはまさしく慶喜である。
薩長は最後に武力によってドンデン返しをしただけで、それまでの道すじは慶喜の功績なのだ。慶喜が無能だったのではなく、岩倉が一枚上だったとボクは思うんだな。
前述でボクは、「慶喜が大政奉還したからこそ、明治維新が成就したといっても過言ではない」と述べた。その慶喜は晩年である明治41(1908)、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されている。
慶喜の功績が認められた瞬間である。本当は自分の手で日本近代化を成し遂げたかったであろう慶喜は、これで少しは気持ちが報われたにちがいない。
……………………
と、大河ドラマ「青天を衝け」25話を観ていたら、草なぎくん演じる徳川慶喜が、途中まではせっかくいい感じで描かれていたのに、鳥羽伏見の戦いでは暗君として描かれてることに不満が残り、書きつづる……。
(注意)これはしょせんド素人による見解なので、どうか話半分で読んでください。
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