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何度でも訪れたい美術館3 ファン・ゴッホ美術館と小説『たゆたえども沈まず』
2016年10月8日。わたしはオランダ、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館にいた。その月末に父が脳梗塞で緊急入院し、転院、脱走、転院を繰り返すことになったので、とりあえずその前に行くことができて良かった。
オランダのファン・ゴッホ美術館は、アムステルダム国立美術館のすぐそばにある。ゴッホとテオの兄弟が相次いで亡くなった後、テオの未亡人は、ゴッホの絵の管理し、世に出すことに奔走した。テオの息子はゴッホの絵をオランダ政府に永久貸与し、1973年にこの国営美術館ができた。世界最大のゴッホのコレクションがある。さぞかし人気で入りづらいだろうと思っていたが、午後の入館はそれほど混んでおらず拍子抜けした(2016年情報)。
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この美術館はそれほど大きいわけではないので、3時間あれば見終えることができる。直前にアムステルダム国立美術館で、ルネサンスやバロックの緻密な名画を観たばかりだったので、それらとゴッホの絵との劇的な違いに驚くばかりだ。
それはさておき、初期から晩年までのゴッホの名作中の名作が勢ぞろいしている。なんと壮観だろう!この美術館は写真撮影が不可だったが、PCの中にわたしがこっそり撮った一枚を発見!ものすごく人と絵が近い。こんなに接近して鑑賞可能だったことが驚きである。これらは、ゴッホの遺作と目される絵だ。この絵の前にいた、この瞬間だけは記録したいと思ったわたしは許されるだろうか?
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このファン・ゴッホ美術館収蔵の絵について、原田マハがゴッホと弟・テオの生涯を描いた『たゆたえども沈まず』でかなり詳細に描写している。
この本は2017年出版だが、Audible版はつい最近2024/9/27にリリースされたばかり。目を悪くしてAudible派になって良かったことは、飛ばさず読む(聴く)ことである。紙面の場合はいつのまにか飛ばし読みし、あらすじだけを追うことができるが、Audibleの場合それができない。
読了まで時間がかかるが、ナレーターが良ければ細部の描写を楽しみながら、心からその世界に入っていける。『たゆたえども沈まず』では作中に登場するゴッホの絵の詳細な描写を聞きながら、その絵の数々を何度も思い出した。その多くがファン・ゴッホ美術館で観たものだった。
不遇なゴッホの生きざま、テオの兄に寄せる複雑で深い愛、何よりも原田マハの絵画に寄せる熱い情熱に何度も泣けて泣けて。電車のシートで爆泣きした。
テオがアルルから次々と届く兄・ゴッホの絵を観た時は、その興奮をなぞるようにわたしも心が躍った。と同時にこの兄弟の悲劇的な最期を知っているので、重苦しい気持ちにもなった。
絵の描写を、原田マハの小説『たゆたえども沈まず』から引用してみよう。
以下引用………………………………………………………
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「ジャガイモを食べる人々」について
テオは画商ポルティエに「ジャガイモを食べる人々」を見せたことがある。ポルティエいわく「みたことがない類の絵だ」。つまり誰の作品にも似ていない。きわめて個性的な絵ということだ。まさにフィンセントの絵は誰の作品にも似ていなかった。そう、はじめて日本美術を観た時に、テオの胸には同じ思いが浮かんだのだ。「なんだこれは?こんな絵が世の中にあるのか?構図も色も今まで見たどんな画家のどんな作品にも似ていない」。あの時の沸き立つ感じを思い出してテオはポルティエの言葉を「じゃがいもを食べる人々」への最大限の賛辞と受け止めたのだ。(中略)
新しい芸術の動向にはいち早く反応するポルティエが、もしやフィンセントの仕事に興味を持つまいかとほのかな期待があった。しかし粗削りで暗い色調の絵を描くこの無名の画家はようやくパリでみとめられつつある印象派や大人気を博している浮世絵とは、まったく別質の個性を備えていた。つまりポルティエが関心を示す類の画家ではないのだった。
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「ゴーギャンの椅子」について
空っぽの椅子の絵だった。いや正確には空っぽではない。それぞれの椅子には人の代わりに小さなものが置かれてある。1つは肘掛椅子で、座面に置かれたろうそく立てに、ろうそくが1本灯されている。心細げに揺らめく炎。その傍らには二冊の本が投げやりに置かれている。その内の一冊は今にも椅子の座面からずり落ちてしまいそうだ。緑色の壁にとり付けられた燭台の蝋燭も灯されているがら、夜の室内だとわかる。一日の終わり、安息を迎えたはずの部屋。しかし、そこにいるべき人の姿はなく、そこはかとない孤独感が漂っている。(中略)
座るべき誰かがそこにはいない。孤独なざわめきが二つの絵にはあった。テオは腕を組んで絵を見つめた。不穏な空気が絵の中から溢れ出しこちらに迫ってくるのを感じる。
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「木の根」について
ゴツゴツと無骨な形をさらけ出す木の根。こんなものまで描いていたのか。木の根が描かれた横長のカンバス。そうそれはただ木の根に肉薄して描かれた絵だった。を壁に飾りつけた時、重吉は思わず胸を衝かれた。香しい花でもなく、照り輝く青葉でもない木の根。ただただ木の根ばかりをフィンセントは描いたのだ。もはや花にも青葉にも心を動かさない。画家の堅牢な眼差し。その絵がフィンセントの遺作だったということを重吉は後から聞かされた。画家の最後となったあの屋根裏部屋のイーゼルに遺されていた最後の一枚だった。
以上引用…………………………………………………………
ゴッホの絵は小説『たゆたえども沈まず』に描写されたようでもあるし、私の中ではまた別の形をとってもいる。あぁいつかもう一度行きたい。ゴッホの筆遣い、息遣いをすぐそばで感じたい。そんな日が来ることを夢想しながら、画集を繰り、小説を読む。映画「ゴッホ最期の手紙」を観るのも心が躍る。
けれど画集も映画も、眼前に見た時には遠く及ばない。何度でも訪れたいゴッホ美術館。「アイリス」の絵の黄色い壁の豊かな盛り上がりと、花びらの青紫の氾濫を、「花咲くアーモンドの木」の高らかな喜びをもう一度全身で浴びたい。