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父はADHD?3 適した職業に就く
2022年末に亡くなった父のことについて、振り返って書いています。父がADHDだったので、いい意味でも悪い意味でも、家族は振り回されていました。
父は自宅で仕事をしていましたが、鮎釣りがピークの夏の時期は、仕事の約束を忘れて釣りを続けている父を、迎えに行くのは、わたしたち子どもの役目でした。
川の浅瀬で釣りをしているか、河原で近所の人と与太話をしている父に向かって「おとーさんー!もう生徒さん来てるよ!」と叫びます。父は「おー!」と至極のんびり答えます。ちっとも慌ててくれないし、待たせておけば良いとでも思っているのかもしれません。人が来て父を待っている、ということが、わたしをイライラと不安な気持ちにさせました。
父は遠くに行って帰ってこない、ということはありません。ただ時間にルーズなだけですが、わたし自身がサラリーマンになり、サラリーマン家庭の様子がわかるにつけ、「あぁ、お父さんは、絶対サラリーマンにはなれないなぁ」と思いました。時間を守ることがまったくできない上、人の話は聞かない、夜遅くまで本を読んで昼過ぎにしか起きられない、午前中の父は、不機嫌過ぎて近寄れない。(腕時計を身につけたことは一度もありません)
そういう意味で、60年以上前、当時は珍しかった学習塾を自力で開業したのは、父の、自分らしさそのものです。何のマニュアルもない未知の分野であっても、自身の得意や好奇心のままに行動し、見かねて誰かが助けてくれる。
大学を卒業したばかりの父は、すでに結婚しており、田舎に帰って知り合いのツテで細々と家庭教師をはじめました。それを皮切りに、一人づつ生徒を増やし、やがて土地や建物を無償で貸してくれる人が現れるのに2年。黒板を買い、廃校になった学校から椅子や机をもらってきて、自宅で学習塾を開くようになるには3、4年しかかかっていません。最初の頃の生徒がおばあちゃんになり、本人・子・孫3代で通っていることもありました。結婚生活の最初から母は経理や事務的なことをすべて担っていました。
大人のADHDのことが知られるようになって、父はそうだったんだと思うと同時に、父がいかに自分に適した職業をみつけたか、それを周りがサポートしていたかが見えてきました。
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