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[場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)・緘動(かんどう)・発達障害・不安障害・不登校などの生きづらさ]への理解 第15話 「透明になりたかった娘」


(ご理解、ご賛同いただけたら、周りの方に伝えたり、この投稿をシェアしていただけるとうれしいです。)

長女は4歳の時、幼稚園入園をきっかけに場面緘黙症・緘動(※)を発症しました。※:家庭などでは話すことができるのに、社会不安のために、ある特定の場面、状況では話すことができなくなる疾患。
強い不安により体が思うように動かせなくなる「緘動(かんどう)」という症状が出る場合もある。
症状のでかたや困難さはそれぞれかと思いますが、娘の場合を伝えていきます。

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小学1年生の終わり頃、学校に行くことが出来なくなった長女。

行けなくなり、四ヶ月ぶりに保健室登校した帰りに娘がつぶやいた言葉です。

娘は小学校入学後は一人で登校しながらがんばりましたが、二ヶ月目には次第に動けなくなりました。

1年生の二学期からは当時4歳になったばかりの二女を連れての同伴登校をスタート。

娘の横にピッタリとつき、娘の手を握り鉛筆を動かし、給食は保健室で食べました。

少しずつ少しずつ動けるようになりましたが、三学期になり、また動けなくなりました。

学校がこわいと言うようになり、家から出られなくなり、しばらく学校を休むことにしました。

春休みが終わり学年が上がっても、しばらく休みましたが、2年生の6月頃、保健室登校を再開してみました。

何度も葛藤しながら勇気を出して学校に入れても、顔を見られる相手は限られた先生だけ。
他の先生や生徒には見られることをこわがりました。

見つかったらどうしよう….

そんな風に感じていたようです。

人目を避けて保健室に入り、カーテンをしっかりと引いてもらっても、誰かが急に入ってくるかも。
どこかから見られているかも。

そう思うと学校へ行くことはどんどんこわくなりました。

「透明になりたかった」

その言葉の奥には、

「透明になれれば学校に行けるのに….」

そんな気持ちがあったのかもしれません。

同伴登校や放課後登校、保健室登校や家庭訪問を続け学校復帰を目指していたこの頃から、長女にはパニックがみられるようになりました。

学校復帰はあくまで目標ではありましたが、学校へまた行けるようになること、それが一番ベストな生き方なんだと考えてしまっていたことが、娘を苦しめていたのだと思います。


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例は、娘のケースです。
全ての当事者の方に当てはまるわけではありませんが、知ってもらうことはとても大切だと改めて感じ発信させていただきます。

(注)私たち家族は長女が診断されて以来、下の二人の娘も含め、療育、相談、医療の機関に定期的にカウンセリングに出向き、登校できなくても、在籍する学校の先生と連携を取っていただいています。

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hohimaro ほひまろ|おうち育ち実践中
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