踏ん張りがきく、きかない そんな言葉があるが、最近踏ん張りがきかない 子供が増えている気がする。 いつも好き嫌い、やりたいやりたくないで物事決めているから、どうしてもやらなければならない時に頑張れなくなっている。 やりたくないなら無理してやらなくても良い。 この選択肢があって救われる子供がいることもよくわかる。しかし、本当にこればかりで良いのか。世の中思い通りにならないことだらけなのに、それで本当に良いのか?と疑問に思う。 厳しい話のようであるがこれが現実であり、そこを
私が僧侶として得度したのは、中学2年生のときでした。寺の子として生まれた私は、小さい頃から後継ぎと言われて育ち、やりたくないけどお坊さんやらなきゃいけないのかなあと思って育ちました。 休みの日には庭掃除、お盆正月には出かけられない、お客さんのお茶出しの手伝い、子供の頃は周りの友達と比べて、「普通がいい」と感じていたと記憶しています。 小学校6年生の時に本山で開かれた2泊3日の修行体験のイベントに参加しました。全国から同じ境遇の同世代の友達が集まりそこで話した事が自分にとっ
10月5日は達磨忌といい、菩提達磨大和尚の入滅した日として供養をします。 だるまさんがころんだ で子供達も口にした事がある達磨さん。インドから中国へ渡り9年間坐禅をして悟りを伝えられた方です。その仏法が、今でも脈々と受け継がれ我々僧侶に伝わってきているのです。 お釈迦様から伝わる法 川の流れ去る姿そのものが法である。 ありのままあるがままの様子が他人事でなくまるで自分自身の様子のように存在しています。この身体を通じて全てを感じ受け入れています。 川がザーっと流れれば、全
Voicyという音声コンテンツを使い、ラジオ放送をはじめて一年経過した。 その名も「僧侶邦元のすわらない坐禅」。聞くコンテンツということから、すわらないとした。仏教や禅、人育てに関わることを話すことに決めて、ほぼ毎日投稿している。 我ながらよく続いていると感じる。 しかし、内容がつまらないのかなかなか登録者は増えてこない。初めお話しをいただいた時には、私にできるかなあと不安だったが、とにかくできることからやろう、やってみてダメならやめればいいかと始めた。 こうしたネット
住職となり約一カ月が経とうとしています。 明後日は、前住職の退任の式、退董式と私が初めて檀徒の皆様の前で施食会の導師を勤めることになります。 導き先だけはきちんとしたい。意味のわからない法要ではなく意味のある法要にしたい。 お経という謎の呪文で煙に巻くような僧侶ではなく、そこに意味がありきちんと救いがあることを伝えていきたい。 そんな気持ちでいます。 日本の仏教は葬式仏教と揶揄される事もありますが、葬式は大切な修行の場。悲しみ、苦しみの最中救いの道を示し、その後の生活の糧に
今月から住職となりました。自分で自分にプレッシャーをかけているような感じで過ごしています。 まずは名義変更等、書類関係の処理が大変です。まだ終わりませんがぼちぼち進めていきます。 これからやっていきたいことの根っこの部分をまずは文字にしてみたいと思います。 基本的に必要とされる人に仏教が届くお寺であることが大切だと思っています。そして本来の救いのある仏教を届ける寺でありたいと思っています。形だけのものではなく、仏道の魅力を文化ではなく生き様として届けていきたい、そう思って