20年前のキューバ(2002年の旅の記憶、帰国編)
ヘミングウェイの泊まったホテル
ハバナで泊まっていたのは、Hotel Ambos Mundos(アンボスムンドス)。
館内にはいくつかヘミングウェイに関する展示があります。
文章が長くなることを嫌ったヘミングウェイは、立った姿勢でタイプライターを打ったとのこと。現代で言えば、リモート会議を短く終わらせたいので立ってPCを手にもってやってれば15分で終わりそう。
宿に戻って、何の気なしにテレビをつけたらオリンピックの中継をしていた。2002年なので冬季のソルトレークシティ。
南の国でウィンタースポーツの中継を見るとなんだかシュールな気分になります。外の観光地的なムードとそこで生活する人々の日常が混ざり合った空気に、日本製のテレビ(ブラウン管だ)が映し出す現在進行形な現実が、何かの境界を形成していて、頭の中が少し混乱していく。
後ろ髪引かれる思い
帰国の途に就く日。ミスターオニールに教わった会話の手続きで、空港までの乗り合いタクシーを自分で。なんとなく、観光客として払うべき金額の相場観も少しは身についてきた感じ。
飛行機が離陸する瞬間に、自分が何かの夢から揺り起こされるような感覚を味わいつつ、キューバを飛び立つ。帰りはカンクンでトランジットのために一泊する行程。
トラブルで慌てて写真がない
「勝負は家に帰ってお風呂に入るまでわかりません」(by 長嶋茂雄)
そうなのだ。帰国の途に就いたところで安心するのは早すぎるのです。
カンクンに降り立ち、トランジットのために予約したホテルまでタクシーで。スパニッシュ訛りの強い英語を話す運転手にお願いして、明日の朝の便に間に合うように迎えに来てもらう予約を、快く引き受けてくれた。
ところがどっこい、ホテルでチェックインしようとすると「あなたは、予約できてない」と。バウチャーを見せても、首を振るフロントマン。
参った。
メキシコで、一人で野宿。という運命が頭をよぎる。
困り果てていると、通りかかった日本人の女性(フランス人っぽい旦那さんとこのホテルに泊まっているようだ)が声をかけてくれ、事情を話すと流ちょうなスペイン語でフロントと交渉してくれた。
結果的にホテル側が非を認めて、別のホテルを手配してくれました。本当にありがとうございます。「せめてお名前を」「いいんですよ、困ったときはお互い様」的なやり取りをして、去って行かれました。(このへんの記憶は曖昧。ついでに、すごく綺麗な方だったという印象)
代替のホテルにチェックインすると、なぜかスイートルーム。感謝というか、ビビる。キングサイズのベッドの端っこに寝ころび、しばし休憩するも夕食をどうにかしなければならず、ホテルのレストランに。
スープ1杯が60ドルするレストランには入れるほどの持ち合わせもなく、通りの向かい側に見えたピザ屋でテイクアウト。
微妙なお味のピザをビールで流し込んで、くたくたになった体をベッドにもぐりこませて、歯も磨かずに寝る。
あー、予約したタクシーの運転手さん、ごめんなさい。あした、自分はあのホテルにはいないのです。すみません。
翌朝の便でヒューストン空港に降り立つ。英語の通じる、いろいろ社会の基盤が整っている感じを踏みしめて、なんとなくホッとする。
空港の職員が「君のそれ、Nikon(ナイコンと発音する)だね」と話しかけてきたので「一枚撮っていいですか」とお願いすると、ラーメン屋の店主みたいな腕組みポーズをしてくれた。
そしてこの後、荷物は成田行きの飛行機に乗せたのに、自分だけなぜかニューヨーク行きの飛行機に乗り込んでしまった。
日本に向かってこんなに外国人が乗るのか、と思っていたら、自分の座っている席のチケットを持った本来の乗客が現れ、一悶着。
本来の乗客「いや、おまえのそのチケットはTokyo行きだ」
自分「わたし、東京に帰る」
本来の乗客「だから、飛行機が違う」
自分「マジっすか」
みたいなやり取りを経て、飛行機から駆け出し空港の中をダッシュです。
ゲートもいくつもあったのに、なんでこうなる?いろんなWhy?が頭の中をめぐるけど、成田行きの飛行機は自分を待っていてくれた。
本当にありがとうございました。
あのままニューヨークに降り立ったら、成田の手荷物カウンターで自分のカメラ機材がグルグルと回っていたんだろうな、と思うとやはり、家に帰ってお風呂に入るまで油断はできないのだと痛感。
そんな、2002年のキューバの旅の記憶でした。
使用していたフィルムは、このころはKodakのエクタクローム E100VSだったはず。コントラストは高くないけど発色がいいフィルムだった。この旅の10年後(2012年)に発売中止になったらしい。