非暴力の定義と直接行動
「明確に間違っているであろう状態」は存在する。これは、義務教育により小さい頃から教え込まれていることで、ある程度は国民的な了解がある。しかし、「明確に正しい状態」は最適解を提示することが難しい。「常識」という尺度により方向づけすることはできるかもしれない。
「明確に間違っているであろう状態」の一種である「暴力的な状況」は、これも、指摘することはそう難しくないと思われる。しかし、問題なのは、その対照となる、「非暴力的な状態」がどこまでも、不明瞭となってしまうことである。
そこに、「非暴力」の定義の難しさがある。「非暴力」は教育できない。そして、ある種の暴力が、「非暴力」として隠蔽され正当化される近代社会構造から、しばしば「暴力」の措定は変動する。そこに、「見せかけの非暴力」が、つまり、「擬似非暴力」ともいえるような状態が生じている。ここでは、まずはなにより、「何があろうとも暴力はいけません」という言葉が、含む暴力性と欺瞞性を指摘しておきたい。既に暴力は振るわれ続けているのだ。
物事の「間違っている状態・正しい状態」問題で可能だった方向付けが、「暴力・非暴力」問題を考える際には、不可能である。互いの概念を消去法的に逆に規定することができない。つまり、その言葉の指し示す範囲を限定させていくことが不可能であるという、行き詰まりが生じる。安売りされている、よくありがちな、「非暴力」という表現をあえて使いたくないのは端的に以上の理由からとなる。
議会制民主主義や、対話を騙った既に常にそこにある暴力を乗り越えるもの、それが直接行動だと思う。「いかなる暴力も肯定するわけにはいかない。しかし、非暴力を無批判に受け入れること拒否する」、このような態度を明確化するための唯一の方法として直接行動の様式が生じる。「非暴力」の方向付けができるのは「直接行動」によってのみだと考える。逆にいえば、「非暴力」を志向しない「直接行動」や、「非暴力」を僭称もしくは自称する「直接行動」も、例外なく、暴力状態に繋がっていくと考える。