恋活パーティーに参加したとき
去年のことなんだけれど、なぜか恋活パーティーに参加してみた。別に本気で相手を探していたわけではなく、面白いもの見たさの好奇心のようなものだった。以下、思ったことを書いてみる。
たまたまネットで知り合った人と一回お茶をした。そのとき、こんど知り合いが恋活パーティーをやるから来いよって誘われた。その人もイベントの運営を仕事にしているらしい。まあ、そうやって地道にリクルートしているのだろうなと察した。ただ、そうでもしないと参加することのない場所だしせっかくだからと思ったのだった。
参加する前にまず強烈な男女の非対称性について感じた。値段が明らかに違う。自分は5000円くらい払ったと思う。女性は1500円だった。場所は恵比寿だった。降り立ったことのないオシャレな街…。
パーティーホールのようなところだった。まさに、こういう立食パーティーをやるためのに作られたような建物だった。1階は広くて、2階は狭めのスペースだった。自分が参加したパーティが、たまたま運営が雑な所だったのかもしれないけど、結果的には面白くとも何ともなかった。
空間の特性がおかしい。密になっていてざわざわしているため、隣の人の会話が聞き取れる程度なので3、4人での会話がしづらい。恐らく意図的なものではなく開催者が収入を得たいが為に人を詰め込んでいるのだと思う。けどそれでも成り立っているのは新規の人が多くパーティそのものに需要があるため。 会話が届かない。カクテルパーティー効果とはこれか…?いや、もっと効果を利かせないと隣の人とも会話できん…。
シャッフルタイムはあるが、流動的ではないので馴染めない。スタッフがそういう孤立した人を見つけてくっつけてくれる。だから、ここにきて後悔するということはとりあえずないように配慮している。自分もコミュ障なので、話す相手がいなくて、スタッフに声かけられた。
年上の方が多い。自分は若い方だった。こういう場に来るだけあってみんなおしゃべり好きな感じだったし、社交的だし着ている服もオシャレだ。みんないかにも一般人という感じがしてどうもいけ好かない。
男性は友達に誘われたパターンが多いみたいだ。外で知り合ってこのパーティにさそわれて中で会ったら実はスタッフだったというオチの人がいた。騙されたのだろうか。かわいそうに。あ、自分もか…。そのネットで知り合った人とも落ち合えたは良いものの、少しだけお話ししてどっかに行ってしまった笑。あの場に期待を抱いており、自分があの場にいやすくするため友達を誘って連れ込んでいる人が多いという印象も受けた。とにかく友達を増やして出会いの場を広げようというパターンかと思われる。自分を誘った人もその手の人間なのかもしれない。
結局はその場限りの関係性になりがちだなと感じた。良い人を見つけることは困難だと感じた。同性とも異性ともキャラが立っている人が多く、また飲みに行くのもやぶさかではないと思うけど、共通の前提がないためこれは困難だと感じた。だからこそ、外部で友達を作って誘い込むパターンの人が発生するのだと考えられる。いきなりの特定の誰かへのコミットではなく、まずは空間へ…。ということなのかもしれない。
数人の人とお話ししたが、自分の話がつまらないのか皆んな他の輪に入って行ってしまった。なぜか自分はその輪には入れなかった…。元ギャルみたいな適当な感じだけど、今は落ち着いています、暇つぶしに来ましたみたいな雰囲気な女性と最後少し取り留めもないお話しした。察した通り、元バンギャらしい。そうこうしているうちに時間になった。
なんか面白くねえなと思い、トイレでも入って帰ろうと思った。その後、外にある喫煙所にいた元バンギャ含む数人となんか飲み足りねえなという話になり、居酒屋に行くことに。なんやかんやで8人ほどいたんだけど、女性はその元バンギャだけだった。ここでも男女の非対称性が表れていると感じた。
その8人は色々だった。話してみると、みんな良いやつでなかなか真面目だし、優しそうだし、魅力のある人間だなとは思った。ただ、自分も含めなんだけど、他人を強烈に惹きつける何かを身に纏っているわけではないのだろう。あのパーティに馴染めず、誰かと話し足りないなと思ってしまった集団がたまたま残ったのではないかと推測している。
みたことのない場所に潜入できたのはよかった。良い勉強にはなった。数回いかなければ良さも悪さも分からないが、自分からまた行こうという気にはあまりならない。楽しかったとしても、それ以上でもそれ以下でもない。そして思った。あの空間を構成する主たる一般的な人々とは相いれないんだ。共通点のない人と繋がることに対してメリットを感じていないんだ。自分は自分と波長の合いそうな誰かにしか惹かれないんだ…。
自分が適応できなかった以外にも、物理的な空間の特性にも問題があったようには思う。最も大事なのは密度と流動性が両立することであると思う。流動性がない空間だと声の大きい人が会話の中心となりがちである。しかし、大抵の場合は会話が上手なわけではなくただ強引なだけなのである。