学校のある世界と学校のない世界
現代社会にはあたりまえのように学校があり、人々は学校に通い、そこで学歴を獲得して職業に就いていく。
こうした現代社会のしくみ=構造の特徴を考えたり、今と異なる社会のしくみを考えるには、学校教育と「教える・学ぶ」という営みとを分けて考えることが重要である。
わたしたちは、学ぶとは学校に通うことであり、教えるとは教師が担うものだと考える。しかし、日本で学齢期の子どもの大半が学校に通うようになったのは、1900年以降のことである。
近代化以前の農林漁業中心の社会では、多くの子どもは暮らしの中で言葉を覚え、生活に必要な知識やワザを学んだ。
また、親や身近な者たちは暮らしの中でそれらの知識やワザあるいは知恵を子どもたちに教えていった。
もちろんそうした時代にも学校はあった。学校の歴史は古く、古代ギリシャの都市国家までさかのぼるといわれる。
日本でも律令体制が整備された7世紀には官立学校が設置された。だが、ながらく学校は特定の身分の者に専門的あるいは格式的な知識を伝授するための場所であって、一般の人々とは縁遠い存在であった。
江戸時代には都市や農村で読み書きそろばんを学ぶ寺子屋が広範囲に発達したものの、教育が義務化され、学校が全国に整備され、ほとんどの子どもが学校に通うようになってからは、まだ百数十年しか経っていないのである。
学校のなかった社会では、人々は若くして労働に従事し、そこでさまざまな知識やワザを学んでいった。実はこのような営みは義務教育成立後も、農村・漁村では多く見られた光景である。
学校のなかった時代の子どもの生活を考える上で、民俗学者の文献は多くの示唆を与えてくれる。
民俗学者の文献には「働く子ども」について書かれている。ここに描かれていたのは戦後の漁村や農村の子どもの姿であるが、それらは学校のなかった頃の子どもの様子をうかがえる。
子どもたちは、家族の構成員として、生産できる人間として訓練させられていく。
それにはまず親のすることを見習うことであった。子どもたちに仕事の手伝いをさせるのは、いくらかの労力の助けになることを願っての意味もあるが、その親たちの持つ生産技術を早く的確に身につけてもらうことが親としてなによりの大きな願いであった。
とくに漁村にあっては、その念願が強かったらしい。漁民のあいだでは、技術と知識がもっとも大きな財産であった。
どういうところに魚が多いか、いつ多いか、どのような風が吹けばシケになるか、どんな雲が出れば雨になるか、潮の流れでどんな海に変化するかというようなことは、体験を通じて知ること以外には、方法のない場合が多かった。
畑の仕事は10歳くらいから手伝わされる。お茶はこび・田植えのときの苗はこび・イナゴとり・稲刈り・畑の草とり・麦ふみ・ウサギのエサとり・牛馬追い・物を乾かす手伝いなどが最初にさせられる仕事である。
そして、12歳から13歳で、やや力が強くなると、田畑のくわ打ちや田植え草刈り・田草とり・稲刈り・肥溜めはこびなどの仕事を覚えていく。
学校のなかった時代、いまの小学生から中学生くらいの年齢の子どもたちの生活はこのようなものであったと思われる。彼らは生産できる人間になれたときに「1人前」として認められた。各地には若者を1人前と認めるための儀式があり、これを通過儀礼(イニシエーション)という。
学校のある社会と学校のない社会の人々のライフコースのちがいを考えたい。
わたしは産業社会、つまり学校のある社会におけるライフコースは、子ども期、教育期、労働期、引退期の4つに明確に分割されており、人々はそれを順番に1方向的にたどっていくと指摘する。
これと対比させて学校のなかった社会を考えてみると、教育期と労働期が判然と区分されておらず、年少者も早くから大人にまじって労働しながら生活するための知識やワザを学んでいった。
学校のある社会では、教育期はその後に続く労働期のための準備期間として位置づけられる。
学歴に基づいて職業が配分されるため、子どもが将来従事する未確定である。
このため学校で教えられる教育内容は広範囲にわたる、一般的な内容が中心となる。
わたしは、産業社会では教育期と労働期が直線的につながることが一般的であることを批判している。このふたつの時間を柔軟に往復できる循環型社会を提唱したい。
だが、近年ではむしろ教育期から労働期へとすむーすに移行できないことが問題となっているとも言える。