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【ロックの歌詞を考える(マーシー編)】ぼくは戦争はだいきらい。

はじめまして。北海道の札幌市で絵本作家、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして活動している「やまだなおと」と申します。
記事のタイトルは僕が大好きなアンパンマンの作者、やなせたかし先生の著書から。

この本についてもいつかしっかり紹介したいのですが、今回は僕が大好きなロックの話し。それもブルーハーツ、ハイロウズ、クロマニヨンズのマーシーの話しです。とてつもなく長い記事になったので興味のある方は暇な時に少しずつ読んでみてください。

ロシアがウクライナへの全面進攻を決めて世界の情勢がさらに危機的な状況になってしまった今日(2022年2月24日)。SNS上では「第三次世界大戦」がトレンドに。

僕は本当に戦争が恐ろしいですし、誰ひとり戦争の犠牲者にも加害者にもなって欲しくないと強く願っています。

そんな時にTwitterでちらっとこんな投稿が目に入りました。たぶん「第三次世界大戦」という言葉を目にした時に以前から疑問に思っていたこの歌詞のことが思い浮かんだのかな~と予想。(違ったらごめんなさい。)

昔から皮肉やブラックジョークが理解できない傾向があります
ハイロウズの「第3次世界対戦だワクワクするぜ突撃だ」も、皮肉じゃなく本気で言ってると思ってて「愚かだ」とか思ってました(ほんとのところどうなんでしょう)

僕は普段SNS上での誰かの考えに対して直接的に自分の考えを押し付け過ぎないようにとも思っているのですが、本当に自分の考えを言っておきたい時だけ真剣に考えたうえで自分の意見を書くことにしています。

今回は僕がすごく素敵だと思う作品を作っていらっしゃる作家さんの投稿だったのと、僕は中学生の頃から今でもずっとブルーハーツ、ハイロウズ、クロマニヨンズなどの甲本ヒロトさん(以下ヒロト)と真島昌利さん(以下マーシー)が作った音楽が大好きで常にものすごく影響を受けながら生きているのでしっかりと自分の考えを書いておきたいと思いました。
(ほんとのところどうなんでしょう)と書いてくださっているので、「僕はこう思います」と書いても許していただけるはず…!
そして「愚かだ」という感想も全く間違って無いしバッチリだとも僕は思います。

この後だらだら書いていくことはあくまでも「僕はこう思います」というだけで「ヒロトやマーシーは絶対にこう思っている!」とか「僕の意見が絶対に正しい!」「あなたは間違っている!」というようなものでは全然ありません。
なんならヒロトやマーシーが本当はどう思っているかもどうでもいいと言えばどうでもいいとちょっと思っています。笑

というのもヒロトやマーシー自身が「僕らがどう考えているかじゃなくて、曲を聴いた君がどう思うかが大事なんじゃない?」みたいなニュアンスのことを常々言ってくれてるので、僕もそんなふうに彼らの曲を聴いている部分も多いからです。
めちゃくちゃ長い記事なので以下の目次ごとに少しずつ読んだりするのがオススメです。

・そもそもヒロトとマーシーは「正しいこと」を歌う人たちなのか

Talking Rock!2014年11月号(向かって左がヒロト 、右がマーシー)

ヒロトやマーシーの歌詞には強烈に皮肉の効いたものや、あえて攻撃的なこと、物議を醸すことをうたっているものも実はたくさんあるので曲だけを聴いて文字通り歌詞の一部分を受け取ると「こんなひどいことを歌っていた!」と言う批判の声が上がったり違和感を覚える人がいるのも無理もないことだと僕は思います。

ただ、ヒロトやマーシーの大ファンで彼等のパーソナリティを含めてブルーハーツ~ハイロウズ~クロマニヨンズというバンドのそれぞれの歌詞の変遷などを追いかけている僕の気持ちとしてはハイロウズの『モンシロチョウ』の歌詞

第三次世界対戦だワクワクするぜ突撃だ

ザ・ハイロウズ『モンシロチョウ』
作詞作曲:真島昌利

に関しては「間違いなくある種の皮肉的な歌詞ではあるけれども″正しくないことをあえて言う″という意志も明確にあると思うので単なる皮肉だとも言い切れない」という煮え切らないニュアンスが僕の考えです。

歌詞について考える前にまずは大前提としてヒロトとマーシーが影響を受けてきたロックンロールやパンクロック、日本のフォーク(こちらは特にマーシーへの影響が強いと思います)の多くは皮肉っぽい表現や逆説的な表現で自身や社会の状況、政治を風刺していたり反戦のメッセージを訴えたりしていることも多いという点をおさえておいたほうがいいかな~と思います。
ヒロトとマーシーは今でも作り手である前にリスナーであるという意識が強く、「強烈にロックが好き」というのが二人が作る曲の根幹だと僕は思っているので。

また、ある種のロックにはサウンドを含めて「既存の価値観や権威への反抗とそこからの自由」という文脈があって、あらゆる欲望や性的衝動、破壊衝動など「社会的、倫理的に正しくないとされていること」をあえて歌うことによって聴く人の価値観を揺さぶり、その人の心に「それまで見えなかった自由」を映し出したり、自分の衝動を音楽とステージ上のパフォーマンスに変えてたくさんの人を楽しませる表現に昇華させていたりすることがあるのでロックという音楽自体に不良性や反社会的なニュアンスが含まれていることも多いです。(それが商業化していく中で色々な矛盾や軋轢が生まれてくるのですが、その悲劇的な側面の象徴的な例のひとつがニルヴァーナのカート・コバーンの最期だったのかなと思ったりします。)

それはロックのルーツであるブルースでは黒人への人種差別や貧困、労働者への搾取が背景にある曲があったり(かつてブルースは「悪魔の音楽」と言われたりしたこともあるそうです)、ロックにはキリスト教社会における抑圧や父権的な価値観、物質主義、消費主義のような資本主義的な価値観、戦争(国家は常に戦争を「正しい」ものとして始めます)への反抗であったり自分と家族の関係やジェンダーなど個人的な生きずらさや社会との軋轢など「個人」についての苦悩を扱ったりするものも非常に多いので、中学生くらいの頃からロックからブルース、その他様々なジャンルの音楽を興味が赴くままに「掘っていく」タイプのリスナーでもあるヒロトとマーシーは歌詞やサウンドを含めてそういった文脈が体に染み付いているのではないでしょうか。
(ただし、特に昔のロックには男性中心主義的な価値観や女性差別的な価値観が深く根付いてしまっているものもたくさんあるので、そこと戦って来た女性たちの文脈もあることも押さえておくべき重要な点だと思います)

実際にこれまで2人は何度も「自由」について歌ってきましたし、特にマーシーは曲の中で「自由」について直接言及することも多いです。(クロマニヨンズが2020年にリリースしたアルバム『MUD SHAKES』の中でも「VIVA! 自由!!」という曲を書いているので「自由」は今も変わらないマーシーの大きなテーマのひとつだと思います)

その一方でひとつのバンドの中にも悩みや苦悩、政治や社会のことを忘れさせて踊らせてくれる要素が強い曲や、逆に政治性を取り去った曲しかやらないバンドもたくさんあるので、必ずしもメッセージ性があることや「正しい」ことを言っているのが正解というわけでは無いところもロックの大きな魅力のひとつだと個人的には思っています。
「言う自由」と「言わない自由」が同じ価値を持っているというところもすごく重要な視点です。

ちなみにヒロトやマーシーが好きだと公言していているバンドの曲にも皮肉や逆説、反社会的な歌詞で歌われた曲はたくさんあります。(特に昔のロックやパンクロックはだいたいそういうものだとも言えますけど)
たとえば「女王陛下万歳」と歌いながらイギリス王室を強烈に揶揄しているセックス・ピストルズの『God Save The Queen』や…(別の代表曲『アナーキー・イン・ザ・U.K.』では「俺は無政府主義者、俺は反キリスト」と歌っているので反社会的そのものですね)

機関銃を持ったテロリストを讃えるような歌詞のザ・クラッシュの曲『トミーガン』とか…(クラッシュは強烈に反戦を訴えるタイプのバンドです)

発表当時に作詞したミック・ジャガーが悪魔主義だとして猛バッシングを受けたローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』とか…(血なまぐさい歌詞で人類の暴力の歴史をたどります)

これ以外にもいくらでも思い浮かぶ曲があるのですがとりあえずこのくらいで。

このようにヒロトとマーシーが中学生くらいの頃から好きで影響を受けてきたロックには歌詞の上では正しくないことを歌っていたりミュージシャン自身が酒やセックス、ドラッグに溺れていたりして社会的には「正しくない」とされる人たちがたくさんいます。

でも、だからこそやり場のない苛立ちや傷を抱えている人、社会的な「正しさ」の枠に適応できない人たちや暴力的な衝動をもて余していたりして「社会不適合」とされてしまうような人たち、孤独だったりマイノリティの人たちの心も受け止めることができる表現が生まれるんだと僕は思いますし、ロックのそういうところに僕自身も何度も救われてきたような気がします。

ヒロトがブルーハーツの『パンクロック』という曲でパンクロックが「やさしいから好きなんだ」と歌った優しさはそいうものなのかな~と僕は解釈しています。

・文脈抜きに皮肉や逆説は生まれない

昔からよくあることだとも思いますが、現代はSNSの発達で言葉が文脈から切り取って伝えられて拡散されてしまうことがさらに増えているので皮肉や逆説がどんどん伝わらなくなっているような気がします。
なのでアーティストの発言や行動の文脈が明らかに間違って伝わってしまったりしていたら文脈を知る人たちが「この言葉の背景にはこういう文脈があった」という部分はちゃんと繰り返し伝えていかないといけない気もします。

そのアーティストがどんな思想の持ち主で、それまでにどんなメッセージの曲を作って来たのという視点が無いと作り手の意図を解釈する素材が圧倒的に足りないような気が僕はします。
まして言葉数が少ない音楽の歌詞や詩は抽象度が高く説明的ではないものも多いので一部を切り取るのと文脈を踏まえるのでは意味が180°変わってしまうことも珍しくないです。

ただ、ヒロトやマーシーもそうなのですがそこも踏まえたうえであえて歌詞の抽象度を高くして「誤読の余地を作る」「誤解されるようなことを歌う」という意志が強い曲や詩もあったりするので文脈を抜きに意図を読み解くのは難しいと思いますし、僕みたいに「意図を読み取ろうとしすぎる人」があまりに多いことにヒロトとマーシーは昔からうんざりしている部分もあると思うのでそこはヒロトとマーシーに「ごめんね」っていう気分です。笑
でも僕は自分の心を通して曲の歌詞についてアレコレ考えて言葉にするのが好きなのでこのままやっちゃいますけどね!

ということでハイロウズの『モンシロチョウ』の歌詞について考察する前にそこにいたるまでに彼らがどんなことを歌ってきたのかを紹介して彼らが本当に「第三次世界大戦にワクワクして突撃したい愚かな人たち」なのか考えてみましょう。

「もうすでに長すぎだよ!」「余計なことをごちゃごちゃ書かないで結論だけ書けよ!」という方はさすがにここまで読んでくださっていないと思いますけど、もしいたらこの文章のはじめに僕の結論はもう書いているので最初に戻ってくださいね。
これでも書きたいことの100分の1くらいしか書いてないんですよ。笑

本当はヒロト作の曲もたくさん紹介したいのですが、『モンシロチョウ』はマーシー作なので今回はマーシーの曲オンリーで紹介します。

・『モンシロチョウ』までのマーシー

さて、それでは『モンシロチョウ』にいたるまでにマーシーがどんな子供で、どんな曲を歌ってきたのかを振り返って行きましょう。
情報は1989年の『ロッキング・オン・ジャパン』10月号のマーシーへの2万字インタビューと1995年の『ロッキング・オン・ジャパン』7月号のブルーハーツ解散インタビュー、2022年出版のマーシーの著作『ROCK&ROLL RECORDER』などからです。

ROCKIN'ON JAPAN 1989年11号

子供の頃から野球が好きでオモチャの戦車で遊んだりしていた1962年生まれの少年時代のマーシー。
ある時友達の家でビートルズのレコードを聴かせてもらったことで人生が一変します。
それまで音楽を「カッコいい」と思ったことがなかったマーシーにとって「カッコいい」といえば巨人の長嶋や戦車、戦闘機だったそうです。

ビートルズを聴いた時にマーシーは身動きが取れなくなり、そのままフラフラと家に帰ると日常の景色は全て吹き飛び、ビートルズが「どうして君はやらないの?」と語りかけてマーシーの心のエンジンに火をつけたのでした。
そしてギターを手に取ったマーシーはロックにのめり込んで行き、ローリング・ストーンズやセックス・ピストルズ、クラッシュと出会い、そのたびに「どうして君はやらないの?」という声を聴き、バンドを結成してロックンロールの世界へ飛び込みます。

中学生の時に友人と組んだバンドを前身にして高校生の時にバンド「ブレイカーズ」を結成。ギター・ボーカルとして活動していたマーシーは順調に動員を増やしてRCサクセションやシーナ&ロケッツもいた事務所に所属してバンドはモッズシーンのヒーローになっていきます。
この頃に後にマーシーと共にブルーハーツを結成するヒロトのバンド「コーツ」とも度々共演していました。

ただ、高校時代から卒業後のマーシーは萩原朔太郎の詩に夢中になったりパンクロック、ボブ・マーリーのレゲエやジャック・ケルアック、ギンズバーグなどのビートニクの文学と出会ったりして大きく影響を受けてはいたのですが仲が良かった友達を含めてその感動を共有できる人は誰もいなかったのでずっと孤独を感じていたそうです。
パンクに夢中になっていた時もまわりからは「頭がおかしくなった」「変な奴」と思われていてクラスからは完全に浮いてしまっていたとか。

高校卒業後は進学せずにミュージシャンを目指して家を出てコカ・コーラの配達のバイトをしたりしていたそうですが、一緒にブレイカーズを結成した仲間とも共有できない好きなものはたくさんあったので「いつか俺みたいなやつと出会うのかな」という思いを抱え続けていたそうです。
このあたりの孤独感は初期のブルーハーツやその後のマーシーの作品にとって重要なものだと思います。

そしてブレイカーズは1983年にメジャーデビューが決定していましたがデビューシングル発売の直前にリリースの話が白紙になり、事務所との契約も解除。翌年には中学時代からの友人だったバンドメンバーが脱退してしまいサポートメンバーを入れて活動を続けますがその翌年の1985年にバンドは解散してしまいます。
(ちなみにそのラストライブにはヒロトも飛び入り参加したそうです。)

脱退したメンバーは長年の友人でもあったので、マーシーはバンドを続けるように説得したみたいですが受け入れてもらえず、解散後はマーシーはひとりで何もする気がおきないような状態になっていたそうです。(この友人は自殺未遂を起こして入院してしまったりもしていたようで、自分の悩みなどは話してはくれなかったという話をロッキングオンのインタビューでしています)

この時のマーシーはどんな音楽を聴いても生きようという気持ちにはなれなくて、いつ世界が終わってしまってもいいと感じていたそうです。(インタビュアーの「自殺といった事態にまで至らなかったのには何か理由があると思う?」という質問にマーシーは「そんなのないんじゃない?」と答えていたりあの頃の精神状態にまたいつかなってしまうのではという不安が今もあると語っています。)

ブレイカーズ時代の曲は形を変えてブルーハーツやソロでも歌われていたりするようにマーシーのキャリアのベースには間違いなくブレイカーズがあります。

・THE BLUE HEARTSの頃

ブレイカーズ解散後、同じくバンドを解散していたヒロトとマーシーが1985年に組んだバンドが「THE BLUE HEARTS」です。
マーシーは以前からヒロトのことを「すげえ」と思っていて、色々話したら同じようなものを聴いてきていて感じ方もすごく似ていると思ったそうですが、その頃はお互い別々のバンドをやっていたので一緒にバンドをやろうとは思っていなかったみたいです。

ブレイカーズ解散後ものちにブルーハーツのベースになる河口純之助さん(以下河ちゃん)を含めて何度か三人でセッションしていたそうですが、マーシーはどん底に落ちていた頃にヒロトがやっていたコーツのテープを聴いて「いきなり元気出てきた」らしいです。そして1985年の1月5日にマーシーからヒロトに「バンド一緒にやんないか?」と声をかけ、ヒロトが「うん、ええよ」「わしも今バンドやってねえし」という感じでオッケーしたのでした。
その時を振り返ってヒロトは「俺とマーシーが組めば世界は征服できるみたいな気分だった」と語っていて、音楽性も含めてヒロトのことがすごく好きだったマーシーは「やったあ。これでまた何とかなるんじゃないか」という前向きな気持ちに一気に変わったそうです。
マーシーとヒロトは一部のバンドシーンではすでにヒーロー的な存在だったので二人を身近で見ていた人にとっては二人がバンドを結成したことを聞いて「必ず成功するスーパーバンドになる」といったイメージもあったそうです。

ブレイカーズが解散したその年にブルーハーツを結成してるように、この頃のマーシーはとにかく気合が入っていたというか必死だったのではないかと思います。「今本気でやらないとこの先どうなるかわからない」という実感からくる焦燥感も初期ブルーハーツの魅力です。

やがてベースに河ちゃんを、ドラムに梶原徹也さん(以下梶くん)を迎えてTHE BLUE HEARTSは結成されます。そしてブルーハーツはライブで爆発的に動員を増やし、デビュー前からすでにお客さんがブルーハーツの歌を大合唱するくらい熱狂的に支持されていたそうです。

そしてついにブルーハーツの1stアルバム『THE BLUE HEARTS』が1987年にリリースされます。
僕は海外を含めたあらゆるロックバンドの1stアルバムの中でもブルーハーツの1stは完璧だと思っているくらい大好きな作品。ちなみにこのアルバムの最初の2曲はマーシー作詞作曲です。この2曲でマーシーがブルーハーツというバンドで何を真っ先に言いたかったのか、何を世の中にぶつけたかったのかが伝わってくると思うので紹介します。

1stアルバム『THE BLUE HEARTS』

THE BLUE HEARTS『THE BLUE HEARTS』(1987)

1曲目『未来は僕等の手の中』

誰かのルールはいらない 誰かのモラルはいらない
学校も塾もいらない 真実を握りしめたい

僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ
僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ

THE BLUE HEARTS『未来は僕等の手の中』
作詞作曲:真島昌利

うわーーーーーーーーーーーーーっっ!!!!!!!
やっぱりバンドの1stアルバムの1曲目として完璧ですよ。これは。
「誰もがポケットの中に 孤独を隠し持っている」「今ここで 僕等何かを始めよう」と歌われているように大前提として「孤独」「今」があるのがマーシーの曲の重要なポイントだとも思うのですが、ブルーハーツの初期では「僕等」や「君」といった歌詞を多用していて聴いた人に仲間意識を持たせるような作りになっている曲が結構あります。孤独で世の中に打ちのめされてしまいそうな僕等のために歌うんだっていう宣言。

その結果ブルーハーツの曲がたくさんの人たちに深く届いたとも言えると思うのですが、だからこそその後は抽象的な曲が増えていくのかもな〜という気もちょっとします。どんどん「僕等」ではなく「僕」が重要になってくるんですよね。

生きてることが大好きで
意味もなくコーフンしてる
一度に全てを望んで
マッハ50で駆け抜ける

ここの歌詞からマーシーにとってロックは「生きること」や「コーフン」「欲望」と「スピード」なんだいうことが伝わってきますし、「生きてることが大好きで」という言葉選びも本当にすごい。
その後のマーシーの曲を追っていくとわかるのですが、マーシーは内省的で繊細な部分をたくさん持っている詩人タイプのアーティストな側面も間違いなくあります。だからこそ「生きてることが大好きで」と言い切ったことに僕は強い覚悟を感じるんですよね。

個人的にはブルーハーツはベスト盤から聴いていてすでにマーシーの他の曲も聴いていたので、この曲を初めて聴いた時には「死にたい」と本当に思ったことがある人が歌う「生きてることが大好きで」のような重みを感じました。
(過去のインタビューではブレーカーズ解散後は本当にどん底まで落ちていたことも語られていたりするのですが、そのインタビューを読まなくてもマーシーの繊細さは色んな曲から伝わってきます。このアルバムの次の曲『終わらない歌』を聴けばもうわかっちゃうと思いますが。)

ここで「生きてることが大好きで」というフレーズを入れたのはマーシーにとってロックはネガティブなものではなくて、「生きる」という気持ちにさせてくれるものであり、それは誰かにとっては無価値だったり愚かな「意味もない」コーフンなんだけど自分にとっては価値があるんだという世界観を表現したかったのかなという気がします。
「一度に全てを望む」のも普通は愚かなことなんですけど、それこそがロックを聴いている時に感じる無敵感だったり万能感なんだと思います。
間違いでも勘違いでも「自分には価値があるんだ」と思わせてくれる表現がロックだと僕は思っているのですが、その感覚は間違いなくヒロトやマーシーが教えてくれたような気がします。

そして「くだらない世の中」にションベンをかけて「誰かのルール」や「誰かのモラル」「学校」「塾」を否定して「真実を握りしめたい」と願うこの青さと本気度が初期ブルーハーツの替えがたい魅力になっていますよね。

誰かにバカにされても、愚かだと思われてもどうでもいいんですよ。というメッセージ。ここでポイントなのが「誰かの」という部分で、ルールやモラルそのものを全否定してるわけじゃないんです。ルールやモラルは押し付けられるものとか与えられるものじゃなくて自分で決めるんだという意志が伝わってきます。

既存のルールやモラル、学校や塾を否定する「中学生や高校生のためのパンクロック」をやろうという想いが伝わってくるのはマーシーやヒロト自身が中学生や高校生の時にロックンロールやパンクロックから受けた衝撃を当時の中学生や高校生にぶつけたかったんだと思います。
自分たちのように本当にロックンロールやパンクが必要な孤独な人たちに向けた歌で、それは「正しさ」や「ルール」「モラル」とは別の次元からやってきた何かなんですよね。

そして2曲目は大名曲『終わらない歌』

世の中に冷たくされて 一人ぼっちで泣いた夜
もうだめだと思うことは 今まで何度でもあった

真実の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから
逃げ出したくなったことは 今まで何度でもあった

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズどものために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない
それでも僕は君のことを いつだって思い出すだろう

THE BLUE HEARTS『終わらない歌』
作詞作曲:真島昌利

ぎゃーーーーーーーーーーーー!!!
いや~~~!やっぱりたまんないっすね!
1stアルバムの1曲目、2曲目がこれですよ!?信じられます?信じられないですよ!どちらもマーシー作だということもすごく象徴的な気がしますけど、何を象徴しているのかはまだ思い付いていません。

この歌で個人的に大きなポイントだと思うのは「僕や君や彼ら」だけじゃなくて「クソッタレの世界」のためにも終わらない歌を歌っている点と「弱さ」だと思います。

1曲目で「くだらない世の中」にションベンをかけてやると言っていたマーシーが、それでも「クソッタレの世界」のために歌うこの感じ。これは「僕や君や彼ら」と「クソッタレの世界」が同等だっていうことなんですよね。
「クソッタレ」な世界はそんなに巨大なものじゃないんだぜっていう感覚と同時に「僕や君や彼ら」も「クソッタレな世界」とそう変わらないんだっていう皮肉。希望の裏には絶望が転がっているし、同じように絶望の裏には希望が転がっているのがマーシーの歌詞の世界だということを踏まえて聴くのが僕にとってはすごく重要です。

そしてこの曲で歌われる「一人ぼっちで泣いた夜」や「死ぬ程こわい」「逃げ出したい」と思う気持ちを持ったマーシーが「明日には笑えるように」という祈りにも似た気持ちをロックンロールに乗せているからこそ僕は心の底から感動するんです。痛みや悲しみを知らない人が作る曲じゃないから響く。
それは単なる強がりなのかもしれないですが、そこにある種の突き抜けた優しさを僕は感じるし、「ひとりぼっちで泣いた夜」や「キチガイ扱いされた日々」を持っている孤独な心があるからこそ「僕等」という感覚が孤独を振り払うために必要だったのだと思います。

ただ、「なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない」と歌われているのもすごく重要。
ひとりぼっちで泣いた孤独な夜と他者との強烈な繋がりを求める気持ちがありながらも「なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない」という諦観と今後も孤独を抱え続ける覚悟を持っているというこの一見矛盾した感情がマーシーの曲について回る個性であり深みだと僕は思っています。
友達や仲間に対しても抱いている「なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない」だと僕は解釈しています。

という感じで僕も思わずコーフンしちゃうくらい大好きな2曲なのですが、ここで歌われた「僕等」こそが後のマーシーを苦しめるひとつの要因だったんじゃないかという気も個人的にはしています。

こう書いちゃうのもちょっと切ないのですが、そもそも自分を含めた「ひとりぼっち」な誰かに「君はひとりじゃないよ」と言いたかった曲が大ヒットして大衆化していくことでその表現が少数派のためのものから多数派のためのものにシフトしていくことはそれが優れた表現であれば当然避けられない部分だとも思います。(自分だけが大好きだったマイナーなアーティストがメジャーになってまわりの人たちも好きだって言い出すようになるとなんとなく寂しくなったりする方も結構多いのでは無いでしょうか)

そしてミュージシャン自身にもよりたくさんの人に届けたいという思いや売れたい、成功したいという思いがあればアーティストの性格や価値観によってはその曲を作った時の自意識との矛盾、プレッシャーに苦しみますし(全然そんな葛藤は無く成功を喜び楽しめるアーティストもいると思いますが)、売れていないうちや若いうちは理解してくれない世間や大人との対決をテーマにして「VS世の中」「VS大人」といったロックが持っていた青臭い部分というかカウンターカルチャーとしての幼くも純粋な反抗心を武器に表現できていたと思うのですが成功したり年をとってしまえばそれもリアリティを失ってしまいます。

孤独な少年時代にロックに本当に心を揺さぶられて強烈に生きる意味を見出してしまったようなタイプのロックンローラーほどこの矛盾を無視できなくて自分自身が全ての人を騙しているような罪悪感を抱えたり、憎んでいた「世間」や「大人」そのものに自分自身が組み込まれて消費されていくことを実感したりするんだと思います。
だからこそ、そもそも少数派だったはずの魂が集団的熱狂に置き換えられて、孤独だった少年がいつの間にか大衆のカリスマになり、ファンたちは自分の言葉を全て言葉の通り受け入れていきながら自分たちの思いを代弁させようとしてくるような状況に対する戸惑いや危機感がマーシーの中にも生まれていったような気がします。

マーシーより5歳年下で27歳で自殺したニルヴァーナのカート・コバーンとかは遺書を読む限りまさにそういった自己矛盾と自分が信じるロックに対するあまりに純粋で潔癖な感性に押しつぶされてしまったのではないかという気もしますが、マーシーもアーティストの感性としては結構近いものがあるのではないかと個人的には思っています。
ただ、同じような葛藤を抱えた時にマーシーが実際に自分を殺すのではなくて表現の上で自己破壊を繰り返すようになっていったことはマーシーにとってロックが死に向かうものではなくて「生きる」ための表現だったということなんだと思います。

そういうふうにロックをやれたのは「お先真っ暗っていうのはすげー前向きな言葉だよ。どこがいけないんだよ。そん中にすっげー誰も観たことのない、どんなに勉強したって分かりっこない、素晴らしいものが隠れているかもしれないじゃん。真っ暗ってことは、いいねえ。みんな平等で。」とインタビューで答えるヒロトの存在と影響は本当に大きかったと思います。
もちろんヒロトにとってもマーシーの存在がものすごく大きかったのは間違い無いです。

このあたりの感情を想像しながらマーシーの作る曲の変遷を追っていくとなぜマーシーの作る歌詞には様々な矛盾や皮肉が込められているのかも見えてくる気がします。

そしてハイロウズの『モンシロチョウ』について考えるのにわかりやすく重要なのが7曲目の『爆弾が落っこちる時』ですね。
この曲を聴いてマーシーが本当に「第三次世界大戦にワクワクする」だけの人かどうかもちょっと見えてくる気がするので。

『爆弾が落っこちる時』

僕は自由に生きていたいのに
みんな幸福でいるべきなのに
爆弾が落っこちる時 僕の自由が殺される
爆弾が落っこちる時 全ての幸福が終わる
いらないものが多すぎる

THE BLUE HEARTS『爆弾が落っこちる時』
作詞作曲:真島昌利

この曲ではストレートに「爆弾が落っこちる時」に対してNOを突きつけています。マーシーにとって爆弾が落っこちる時は「僕の自由が殺される」「全ての幸福が終わる」最悪の時で、世界には「いらないものが多すぎる」のです。
このマーシーがハイロウズの『モンシロチョウ』で「第三次世界大戦だ ワクワクするぜ 突撃だ」と歌う背景に何があったのかを考えるのが今回の文章の目的です。

2ndアルバム『YOUNG AND PRETTY』

THE BLUE HEARTS『YOUNG AND PRETTY』(1987)

1stアルバムのリリースからわずか半年後にリリースされた2nd。
このアルバムではマーシーがボーカルを取る『ラインを越えて』『チェインギャング』が収録されていますが、個人的にこのアルバムでまず取り上げたいマーシー作の曲は『ロクデナシ』です。
この曲で僕はブルーハーツを好きになったし、ここに初期ブルーハーツのマーシーの魅力が詰まっているような気もします。

役立たずと罵られて 最低と人に言われて
要領よく演技できず 愛想笑いも作れない

死んじまえと罵られて このバカと人に言われて
うまい具合に世の中と やっていくこともできない

全てのボクのような ロクデナシのために
この星はぐるぐると回る

劣等生でじゅうぶんだ はみだし者でかまわない

お前なんかどっちにしろ いてもいなくても同じ
そんなこという世界なら ボクはケリを入れてやるよ

痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫
そんな事言えるあなたは ヒットラーにもなれるだろう

全てのボクのような ロクデナシのために
この星はぐるぐると回る

劣等生でじゅうぶんだ はみ出し者でかまわない
劣等生で

THE BLUE HEARTS『ロクデナシ』
作詞作曲:真島昌利

うん。やっぱり僕はこの曲が大好きです。
「お前なんかどっちにしろいてもいなくても同じ」と言う世界にケリを入れて、「痛みは初のうちだけ慣れてしまえば大丈夫」という感覚こそが「ヒットラーにもなれるだろう」と言います。

個人を蔑ろにすることや痛みを無い物にしてしまう先に最悪の独裁者や戦争があるのだという哲学が感じられます。
何より優しいんですよね。この曲も。

マーシーがブルーハーツのアルバムで初めてボーカルを取った『ラインを越えて』でもマーシーの戦争に対する気持ちが伝わってくると思います。

僕がオモチャの戦車で 戦争ごっこをしてた頃
遠くベトナムの空で 涙も枯れていた
ジョニーは戦場へ行った 僕はどこへ行くんだろう?
真夏の夜明けを握りしめ 何か別の答えを探すよ

THE BLUE HEARTS『ラインを越えて』
作詞作曲:真島昌利

子供の頃に戦車や戦闘機が好きだったマーシーがベトナム戦争を歌うのは戦争を知らずに無邪気に戦争ごっこをしていた自分と地続きの世界では戦争が起きていたことに対する罪悪感のようなものが滲んでいる気がします。

マーシーが大好きで大きな影響を受けたジョン・レノンはオノ・ヨーコさんと一緒にベトナム戦争への反戦運動をしていましたし、「ジョニーは戦場へ行った」は1938年にアメリカの脚本家、映画監督、小説家のダルトン・トランボが発表しためちゃめちゃ強烈な反戦小説で、ベトナム戦争最中の1971年にはトランボ自身の脚本・監督により映画化されました。
戦争の恐ろしさが強烈に伝わってくる本当に怖い作品なので、まだ見たことが無い方はぜひ一度見て観てください。僕は完全にトラウマです・・・。

この映画を引用している時点でマーシーが強烈な反戦のメッセージをこの曲に込めているのが分かります。そしてこのアルバムにはマーシーがボーカルを取る重要な曲がもう一曲。『チェインギャング』です。

仮面をつけて生きるのは
息苦しくてしょうがない
どこでもいつも誰とでも
笑顔でなんかいられ無い

人をだましたりするのは
とってもいけないことです
モノを盗んだりするのは
とってもいけないことです
それでも僕はだましたり
モノを盗んだりしてきた
世界は歪んでいるのは
僕のしわざかもしれない

過ぎていく時間の中で
ピーターパンにもなれずに
一人ぼっちがこわいから
ハンパに成長してきた
なんだかとても苦しいよ
一人ぼっちでかまわない
キリストを殺したものは
そんな僕の罪のせいだ

THE BLUE HEARTS『チェインギャング』
作詞作曲:真島昌利

この曲はマーシーが一番どん底だった頃に作った曲だったそうで、息苦しさや罪悪感が強烈に曲から滲んでいます。

マーシーには無敵感に溢れる痛快な曲と罪悪感を抱えた曲が両極端にあって躁鬱的な振れ幅があるのですが、そこがマーシーの曲が抱える反語的な表現や「言葉の裏側にも本心がある」という複雑さにつながっていると思います。
人と繋がりたいのに、人といるから感じる「どこでもいつも誰とでも笑顔でなんかいられない」という孤独感があって「一人ぼっちがこわいからハンパに成長してきた」僕が「一人ぼっちでかまわない」と思ってしまう矛盾やとってもいけないとわかっていながらそれをしてしまう罪悪感に押しつぶされて「生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない」「死んでしまうという事は とってもみじめなものだろう」と生きることにも死ぬことにも失望しそうになりながらも「だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し 人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ」と歌います。

ヒロトも間違いなく痛みを知っている曲をたくさん書いているのですが、決定的に違うのがこの強烈な自己矛盾と諦めのニュアンスなんだと個人的には思ったりします。

シングル『チェルノブイリ』

1stアルバムから3rdアルバムのあいだにシングル『チェルノブイリ』が出ているのですが、この曲は当時ブルーハーツが所属していたレコード会社の親会社が原子力発電の事業を展開している三菱電機だったため発売許可がおりず、所属事務所の自主レーベルからリリースされたという経緯があったみたいです。

この曲では「チェルノブイリには行きたくねえ あの娘を抱きしめていたい」と歌われるのですが、この曲もここだけ切り取って受け取るのでは無くて歌詞を全て踏まえて聴くべき曲だと思います。
ここで歌われるのは個人の不安やエゴ、葛藤と「まあるい地球は誰のもの」という地球規模での自然に対する思いだったりするので単に反原発の曲というよりも人間のエゴによる地球規模の全ての環境破壊についての違和感や疑問の表明といったニュアンスがあるように思います。

wikiによると"1988年2月12日、ブルーハーツの初めての日本武道館ライブのアンコールで甲本がこの日、新たに稼働を始めた原子力発電所の話を5分以上し、「今言った事が何の事か分からん人は、自分で調べて、自分の意見を持ってほしい」と前置きして、この曲を演奏している。"そうです。

「俺たちの言う通りにしてほしい」とか「俺たちと同じ考えになってほしい」んじゃ無くて、「自分の意見を持ってほしい」と言うのがヒロトやマーシーにとって重要な視点なんだと思うのですが、ここが思うように伝わらずに自分たちの言葉が影響力を持ってしまう現実があったのではと思います。

3rdアルバム『TRAIN-TRAIN』

THE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』(1988)

このアルバムまでが「初期ブルーハーツ」ですかね。
1988年にリリースされたこのアルバムは音楽的にも前2作よりもか幅が広くなっていて、すでにストレートなパンクロックとは違うものになっているのでヒロトとマーシーが好きな音楽、影響を受けたものの幅広さも感じられます。
後にハイロウズで一緒にバンドを組む白井さんのキーボードが印象的だったりプロデュースによってトータルの完成度が上がったような感じがします。そのぶん1stにあった荒々しさは減っている気もちょっとしますが、そこも含めてこのアルバムがある種の転換点だったんだと思います。(2ndからすでにそういう傾向は出て来ていましたが)

マーシー作の『TRAIN-TRAIN』では

弱い者たちが夕暮れ
さらに弱い者を叩く
その音が響き渡れば
ブルースは加速していく

見えない自由が欲しくて
見えない銃を撃ちまくる
本当の声をきかせておくれよ

ここは天国じゃないんだ
かといって地獄でもない
いい奴ばかりじゃないけど
悪い奴ばかりでもない

THE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』
作詞作曲:真島昌利

と歌われます。
欲しいのは「見えない自由」で、撃ちまくるのは「見えない銃」なんだという点がものすごく重要。本当の銃じゃなくてあくまでも心の中の銃。
マーシーの曲を聴く時に重要な視点が「内面世界」だと思うのですが、で自分自身の心の中で湧き起こる感情に重きを置いた世界観として歌詞を読み解かないと言葉の裏や奥にあるニュアンスを取りこぼしてしまう結果になってしまう曲が結構多い気がします。

言葉を言葉の通り受け取って解釈するのも決して間違いではないのですが、マーシーの曲のねじれ具合を考えると言葉の裏も考えないとすごくもったいないです。
「ここは天国じゃないんだ」と言いながら「かといって地獄でもない」と言って、「いい奴ばかりじゃないけど」と言いながら「悪い奴ばかりでもない」と言う感じで絶望と希望の狭間で反復横跳びするしながら本質と真実を見つけようとするのがマーシーの作家性のひとつなので、言葉の裏や反対側にも思いを馳せるのがオススメです!!!

あとは『ブルースをけとばせ』もすごくマーシーらしい一曲。

70年なら一瞬の夢さ
やりたくねえことやってる暇はねえ

冗談みたいな世の中だからさ
やりたいようにやらせてもらうぜ
やりたい放題やらせてもらうぜ

運命なんて自分で決めてやらあ
悪い日もあれば良い日もあるだろう
晴れたりくもったり雨が降ったり

あいつは寂しさに打ちのめされた
あいつはみじめな気持ちを抱いてる
あいつは不安で夜も眠れない
ブルースが俺の肩に手を回す

THE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』
作詞作曲:真島昌利

後にブルーハーツの『俺は俺の死を死にたい』やハイロウズの『即死』で歌われるような歌詞の世界。自分の死を誰かのものにしたくないという思いが伝わってきます。
そんなマーシーは戦争に行きたがるタイプではないと思うのですがいかがでしょう?

そしてこのアルバムにはシングルカットもされたマーシー作の名曲『青空』が収録されていて、この曲もマーシーがどんなアーティストなのかを教えてくれます。

ブラウン管の向こう側 カッコつけた騎兵隊が
インディアンを撃ち倒した
ピカピカに光った銃で 出来れば僕の憂鬱を
撃ち倒してくれればよかったのに

神様にワイロを贈り 天国へのパスポートを
ねだるなんて本気なのか?
誠実さのかけらもなく 笑っている奴がいるよ
隠しているその手を見せてみろよ

生まれた所や皮膚や目の色で
いったいこの僕の 何がわかるというのだろう

運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか
行き先ならどこでもいい

こんなはずじゃなかっただろ?歴史が僕を問いつめる
まぶしいほど青い空の真下で

THE BLUE HEARTS『青空』
作詞作曲:真島昌利

この曲はとにかく聴いてもらうのが一番だと思うので多くは語りません。
アルバムには収録されていませんが『青空』のシングルにカップリングで収録された『平成のブルース』は初期ブルーハーツの終わりを告げるような曲だと個人的には思っています。
当時のマーシーの苛立ちやフラストレーションをぶつけたような皮肉たっぷりな曲なのですが、その皮肉はかなり自嘲的で痛みを伴ったものだと思います。

ウソをつかなけりゃやってられねえぜ
いいわけしなけりゃやってられねえぜ
バカのフリしなきゃやってられねえぜ

ヒーローめざせとオマエが言うから
ヒーローめざせとみんなが言うから
ヒーローめざせばキラワレちまった

ヤな野郎だなとオマエが言うから
ヤな野郎だなとみんなが言うから
いい人ぶったらみんなにほめられた

駄文をつらねていい商売だな?
オマエには何も見えちゃいないだろ?
ディランのMR.ジョーンズそのもの

ヒガイ者面して何言ってやがる
ゼンニン面して何言ってやがる
痛い目に合わなきゃわからねえのか?

THE BLUE HEARTS『平成のブルース』
作詞作曲:真島昌利

うーん。。。強烈ですね。
自分たちが望まないまま「優しさロック」「優しさパンク」と一部では勝手なカテゴライズをされて、雑誌では好き勝手な解釈をされている中で自分は「いい人ぶったらほめられた」だけなんだと歌います(僕が今好き勝手書いている文章も「駄文」なのです)。
歌詞に出てくる「ディランのMR.ジョーンズ」はビートルズでジョンレノンが作った曲「Yer blues」の「Dylan's Mr.Jones」からの引用ですね。
「Mr.Jones」はボブディランのアルバム『追憶のハイウェイ61』に収録された曲『やせっぽちのバラッド』に登場する人物で「何かがここで起きている だけどあんたにはわからない」と歌われる人物です。
おそらく役人で博識で教養がある人物らしいということはわかるのですが、とても不条理な歌詞で色々風刺が込められていそうなのですが僕は今のところは全然読み解けていません。

ちなみにビートルズの『ホワイトアルバム』で歌われた『Yer blues』はすごくネガティブな歌詞でこちらは『平成のブルース』への影響がすごく大きいと思います。
かなりハードなブルースロックでビートルズの曲の中では異色とも言えるかもしれません。「俺は孤独さ 死んじまいたい」「自分のロックンロールさえ憎くなってくる」「もし俺がまだ死んでないなら 君にはその理由がわかるだろ」と歌われます。

マーシーはジョン・レノンの皮肉屋で自信家なのに弱く繊細な感性にすごく共感して影響を受けていると思います。

・マーシーのソロアルバム

ブルーハーツの中期〜後期の前にここからマーシーのソロアルバムについてちょっと触れます。
本当はもっとじっくり書きたいのでがすでに18000字以上費やしているので駆け足でいきます・・・。もう読んでる人いなそうなので気にしなくても良いかもしれませんが、一応。笑

ヒロトのソングライティングや歌詞の作り方にも大きく影響を受けながらブルーハーツ初期のマーシーの曲が生まれたとも思うのですが、マーシーの中では「俺は狡いから、こうすれば受けるんだ」という感覚も持ちながら曲を作っているという部分もあると1989年に1枚目のソロアルバムを出した時にロッキングオンの単独インタビューで語っていて、ストレートな歌詞で歌う時も「全部が全部本音で正直じゃないよ」という意識もありつつ、ただし「360°、720°くらい回った本心かも」とも語っているのでやっぱりマーシーの歌詞はただストレートに受け取るだけじゃなくて歌われていることの反対側にも強く意識があるような気がします。
そして個人的にはこれをインタビューで正直に話すあたりにマーシーの誠実さを感じるんですよね。

ブルーハーツの初期の頃の歌詞では「あえてストレートに」歌っていたヒロトとマーシーですがブルーハーツの中期〜後期になると抽象的な歌詞や逆説的な歌詞も増えてきます。
バンドとして人気が出て売り上げや動員が増えていく中で「優しさ」や「正しさ」を求められたり、ファンから神格化されていくこと、自分たちのことを「わかった気になっている」人たちが増えていくことへのフラストレーションが徐々に強まっていくのが当時のインタビューなどから読み取れます。そしてこのインタビューでは「大体”優しさ”って言葉自体がこの国では誤解されてると思ってるしさ、馴れ合いなんだもん。優しさと馴れ合いを履き違えてるよね」と言う発言があったりもします。
この発言からは「優しさロック」とか「優しさパンク」と言った表現をされていることに対する抵抗感も感じられます。

実際ブルーハーツがストレートなパンクロックをやっていたのは1stくらいで、その後は音楽的にも歌詞の部分でも色々な試みをしていたりしますが、一般的にはブルーハーツといえば1st~3rdまでの80年代末にリリースされたアルバムのストレートなパンクっぽいイメージで語られることが多いと思います。
ブルーハーツの「リンダリンダ」や「人にやさしく 」「パンクロック」「終わらない歌」「ロクデナシ」などの歌詞の一部にある「優しさ」や「僕等」のイメージだけが広がって元々そこにあった絶望感や失望感、反骨精神が無かったことにされてしまうような違和感をマーシーは抱えていたのかもしれません。そんな時期を背景に生まれたのがマーシーのソロアルバムです。

・ソロ1枚目『夏のぬけがら』

真島昌利『夏のぬけがら』(1989)

『TRAIN-TRAIN』の翌年にリリースされたマーシーの1枚目ソロアルバム『夏のぬけがら』はブルーハーツとは打って変わったようにアコースティックな曲やノスタルジーあふれる曲が多く収録されていていわゆる「ロックっぽさ」は少なくて全体的に寂しげです。
それだけにマーシーの繊細さや叙情性、文学性がより伝わってくる作品にもなっているのでマーシーファンは必聴な一枚です。

ブルーハーツ結成前のマーシーのバンド、「ブレイカーズ」で演奏していた『アンダルシアに憧れて』もカッコいいです。

フォークシンガーの友部正人さんの『地球で一番はげた場所』のめちゃくちゃ良いカバーも収録されているのですが、友部正人さんの曲を聴くとマーシーのソロへの影響の大きさも感じられます。

・ソロ2枚目『HAPPY SONGS』

真島昌利『HAPPY SONGS』(1991)

ソロ1stよりも寂しさが減ってあたたかみや明るさも漂うアルバム。マーシーらしい切なさはありつつもネオアコとか渋谷系っぽい雰囲気もあってゆったりとしています。ソロのアルバムはマーシーが好きな音楽の幅を感じられるのが楽しいです。

マーシーの1stと2ndはブルーハーツのイメージしかない人は結構びっくりしたんじゃないかな〜と思うのですが当時の人たちのリアクションはどうだったんでしょう?僕はかなり後追いの世代なのですが高校生とか大学生の頃に初めてマーシーのソロを聴いて結構びっくりした思い出があります。

ロッド・スチュワートの楽曲をカバーした浅川マキさんの『ガソリンアレイ』のカバーも収録。


・ソロ3作目『RAW LIFE』

真島昌利『RAW LIFE』(1992)

今回個人的にしっかり目に取り上げたいのはこのアルバムです。
中期ブルーハーツとも言える4th『BUST WASTE HIP』、5th『HIGH KICKS』をリリースした後のソロで、ブルーハーツの2枚のアルバムでは歌詞の抽象度が上がって聴き手をアジテーションするような曲や社会的、政治的なメッセージをストレートに盛り込むことが減ってきたのですがその反動なのかこのアルバムはユーモアもありつつすごく尖っていてストレートな社会風刺もたくさん盛り込まれています。
サウンドもバンドサウンドのロックンロールが増えていて、この辺りも「ソロではアコースティックな曲やロックじゃない曲をやる」とか「社会的なメッセージを盛り込んだ曲をやらなくなった」というような予定調和を破壊するマーシーらしい一枚だと思います。
とはいえソロの1st、2ndに通じる世界観の曲も多いのですが、このアルバムは皮肉や逆説を読み取りながら味わったほうが良い作品だと思います。
マーシーも「Don't trust over thirty」の30歳になり歌詞の目線からは「対大人」というニュアンスは減り、社会や世間の中で葛藤し押し潰されそうになりながらも「こんなもんじゃない」と自分を奮い立たせている姿が浮き彫りになります。

アルバム収録曲の中でも
・俺は政治家だ
・GO!GO!ヘドロマン
・エゴでぶっとばせ
・情報時代の野蛮人
・関係ねえよパワー
あたりはこのアルバムならではの半分ヤケになったような攻撃性があって最高です。これは後のハイロウズでも見られる皮肉的な感覚なのでこのアルバムを踏まえてハイロウズの『モンシロチョウ』を聴くとまた違った受け取り方ができるかもしれません。

例えば『GO!GO!ヘドロマン』では「環境破壊」や「消費社会」「資本主義」への批判をテーマにしているのですが、「環境破壊をやめろ!」という「正しいメッセージ」を歌うのではなくて、排気ガスを撒き散らして鯨を食いまくったり、消費や浪費を繰り返して後の世代のことなんてお構いなしにツケをどんどん回していく「ヘドロマン」に対して「GO!GO!ヘドロマン」と歌います。

これはマーシーが環境破壊や浪費社会に無関心な人たちに向けてユーモアと皮肉を込めて現状を歌っていると僕は解釈していて、特に「立派な政治家の人がちゃんとやってくれるだろう」とかは強烈な皮肉だと思います。
マーシーは正論を振りかざして「正しさ」を押し付けるのではなくて「間違っていること」をあえて歌詞にして歌うことで聴いた人に「君はどう思う?」と問いかけるタイプの曲もあると僕は思っています。

それは「ブルーハーツは正しい」とか「ヒロトやマーシーの言っていることが正論だ」みたいに思い込んで思考停止してしまうファンへのカウンターでもあり、「君が自分で考えるんだ」というメッセージでもあると思います。
だからこの曲を聴いて「マーシー馬鹿なこと歌ってらあ」と思われても良いという気持ちなんじゃないかなあと僕は思うのですがどうでしょう。

グローバルな視点なんて
都合のいい目隠しだろ
ツケばかりまわってくるが
いい思いにゃほど遠い

貧乏クジを引かされて
心配は押しつけられる
俺はわがままな野郎さ
自分の事で手いっぱい

俺は明日も働くよ
俺は明日も働くよ
源泉で徴収されりゃ
ごまかす事もできないよ

臆病風が吹き抜ける
この街を吹き抜けていく
都会は便利だけれど
一票も生命(いのち)も軽い

ヤケ酒で憂さ晴らしても
反省猿に笑われる
俺はあいつが好きじゃない
俺はあいつが嫌いだよ

俺は明日も働くよ
昨日よりもっとタフに
ビタミン剤を飲みながら
俺の事を笑えるかい?

『情報時代の野蛮人』
作詞作曲:真島昌利

『GO!GO!ヘドロマン』とは違いストレートな言葉で情報社会を批判した『情報時代の野蛮人』といった曲があるのも「全てが皮肉」とか「全てが正直」と思わせたくないマーシーの気持ちが表れている気がします。どっちが皮肉でどっちが本気と受け取るかは聴き手次第なんですよね。
あくまで主導権は曲を聴いた君の心にあるんだというメッセージを僕は感じます。

そしてこのアルバムで僕が一番好きな、というかブルーハーツ、ハイロウズ、クロマニヨンズと言ったバンドを含めてマーシー作の曲で個人的にかなり大切で重要だと思っている曲が大名曲『こんなもんじゃない』です。

"確かに本当に見えたことが
一般論にすり替えられる
確かに輝いた見えたものが
ただのきれいごとに変わる"

"百科事典を暗記してみても
俺は何も知っちゃいねぇ
知ったかぶりでいい気になって
心に風も吹きゃしない"

"愛だ幸せを君は偉そうに
雄弁に語り続けるが
そんなことはもうはるか昔に
散々親から聞かされた"

"目が眩むほど何かを信じることは
時に自由を脅かす
俺に説教垂れるその前に
鏡をのぞいたらどうだ?"

『こんなもんじゃない』
作詞作曲:真島昌利

この曲はいずれじっくり紹介したいので今回はさらっと紹介しますが、「こんなもんじゃない」という曲から溢れるニュアンスは特にブルーハーツ、ハイロウズ時代のマーシーからは強烈に感じられます。

「確かに本当に見えたものが 一般論にすり替えられる」「確かに輝いて見えたものが ただのきれいごとに変わる」というフレーズが切ないです。
これは子供の頃の想いかもしれないし、ブルーハーツの初期に歌っていたストレートな言葉なのかも、と想像してしまいます。
「百科事典を暗記してみても 俺は何にも知っちゃいねえ」「知ったかぶりでいい気になって 心に風も吹きゃしない」というフレーズは「わかった気になるな」「知った気になるな」と自分に対して言い聞かせるような歌詞です。
マーシーは現状維持や予定調和に対して強烈に抵抗感があって、それを打破するためにはファンの期待を裏切ったりバンドを終わらせることも厭わない感じ。それは「わがまま」であり「エゴ」なんですけど、ロックという表現の前では自分が思い描く自由のために誰かに嫌われたり失望されてもそれを正直に押し通す覚悟を持っていたいという想いが伝わってきます。

そして「目が眩むほど何かを信じることは 時に自由を脅かす」という感覚は宗教的な価値観や集団に対する反抗でもあると同時にブルーハーツに対するファンの熱狂に対する危機感でもあったりするのでは、という気もします。
ブルーハーツに対しても「目が眩むほど信じちゃいけないんだ」っていう思いかも。

僕は不安や無力感で眠れない夜には何度もこの曲を聴いてきました。

・ソロ4作目『人にはそれぞれ事情がある』

真島昌利『人にはそれぞれ事情がある』(1994)

ブルーハーツのラストアルバム『PAN』リリースの前年の1994年の作品。マーシーがソロアルバムを出したのは今のところこのアルバムが最後。
結果的にブルーハーツ時代しかソロのアルバムはリリースしていないです。
このアルバムはどちらかというとソロの1st、2ndに路線が近いので3rdの『RAW LIFE』が異色感が強まります。

このアルバムではマーシーはリラックスして好きなことを好きなように歌っている感じがして2ndの『HAPPY SONGS』のいくつかの曲に感じられた多幸感のようなものも感じられます。と言っても切ない曲も多いのですが、個人的には大好きな『カレーライスにゃかなわない』が収録されているのでそのイメージが強いのかも。

PVもとっても可愛いですよね。

後追いで聴いている僕としては自分がいなくなった後の世界のことも想像させる「空席」はなんとなくバンドの終わりも感じさせる気がしてしまいます。
マーシーのソロはいずれじっくり紹介したいと思いますが長くなるのでここからまたブルーハーツのアルバムに戻ります。

4thアルバム『BUST WASTE HIP』 & 5thアルバム『HIGH KICKS』

THE BLUE HEARTS『BUST WASTE HIP』(1990)
THE BLUE HEARTS『HIGH KICKS』(1991)

1990年にリリースされた4thアルバム『BUST WEST HIP』、1991年にリリースされた『HIGH KICKS』ではミドルテンポの曲やブルース、ソウル的な曲、抽象的な歌詞の曲も増えてストレートなパンクサウンドでメッセージを伝えるような曲は減っていきます。
ファンとしてはこの2枚も好きですけど、初期のわかりやすさや痛快さがあまりないので正直初めてブルーハーツを聴く人にはオススメしにくいかも。ただし名曲もたくさん収録されているのでどちらも本当に良いアルバム。ハイロウズやクロマニヨンズに通ずる部分も多い気がします。

4thアルバム『BUST WEST HIP』でのマーシーは1曲目の『イメージ』から「中身がなくてもイメージが大切だ」という歌詞だったり、11曲目の『キューティパイ』では円周率の46桁を羅列するだけで意味を拒絶するような楽曲を収録しています。ブレイカーズ時代の曲を元にした『夜の中を』やマーシーのソロアルバムに収録されていそうな雰囲気の『悲しいうわさ』など「ブルーハーツっぽさ」の予定調和を崩すような楽曲を意識的に収録したアルバムになっている気がします。

その中でもブルーハーツが強烈に売れたり、有名になったりする状況の変化について行けなかったマーシーが歯の磨き方も忘れてしまうくらいの鬱っぽい状況で激しく落ち込んでいた頃に作ったという『脳天気』という曲があります。
この曲を作った時のマーシーの気持ちは後のハイロウズでマーシーが作る一部の曲やクロマニヨンズで作るマーシーの多くの曲でも感じられる気がします。

いい天気だ いい天気だ
いい天気だ ノーテンキだ
空が晴れてる日には
どうでもいい気がする
あれじゃないこれじゃない
少しは忘れる
空が晴れてる日には
意味もなく遠くまで
行きたい気持ちがする

THE BLUE HEARTS『脳天気』
作詞作曲:真島昌利

マーシーが2015年の10月5日にNHK BSプレミアムの『The Covers』という番組に『ましまろ』として出演した時に、ゲストが埋もれた好きな曲を紹介というコーナーで「自分の曲で恐縮ですが、個人的に結構好きな歌で」とこの曲を紹介していました。

青空に救われるような気持ちはマーシーがこの後も繰り返し歌うモチーフです。大好きな曲。

5thアルバム『HIGH KICKS』ではマーシーの曲はポップなものが多い印象。歌詞も政治や社会、世間との対決といったニュアンスはさらに減っていて曲調的にはハイロウズのアルバムに収録されていても違和感がない曲が多いです。
ただ、アルバムの終盤に収録されている『TOO MUCH PAIN』はメジャーデビュー前から演奏されていた楽曲で、5枚目のアルバムに収録されたことでより感傷的な印象になっている気が。メジャーデビュー前に作った曲なのにこの青春の終わり感はなんなんでしょうという感じですがきっとブレイカーズの解散で青春の終わりを経験したマーシーの当時の気持ちが込められているのではと僕は予想しています。
マーシーは「このアルバムに入れたのは深い意味はない。忘れていた、に近い感覚」とインタビューでは答えていたそうですが、個人的にはマーシーの中ではこの段階でもうブルーハーツの終わりや限界を感じていたんじゃないかという気がします。

この曲も聴いてもらうしかないので多くは語りません。(既に文字数もすごくてすみません)

6thアルバム『STICK OUT』 & 7thアルバム『DUG OUT』

THE BLUE HEARTS『STICK OUT』(1993)
THE BLUE HEARTS『DUG OUT』(1993)

1993年にリリースされたこの2枚のアルバムはヒロトが「2つで1つのアルバム」と語っていたように、アルバムを作る時に2枚組にできるほど集まった楽曲を気分によって聴き分けられるように曲調を分けて別々のアルバムにしようという発想から生まれたそうです。

収録曲の大半は1992年11月〜1993年1月にかけて行われた「PKO TOUR (Punch Knock Out Tour) 92-93」で既に演奏されていたみたいなのですが、このツアータイトルにも時代背景があると思います。
1990年のイラクによるクウェート進攻をきっかけに国際連合が多国籍軍を派遣しイラクを空爆して始まった湾岸戦争(wikipedia「湾岸戦争より」)の際に資金援助のみで自衛隊を派遣していなかった日本に対してアメリカとイギリスを中心に強い批判が巻き起こり、自民党政権が自衛隊の湾岸戦争への派遣を可能にする国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律、通称PKO法案が1992年に可決しました。

日本が戦争に参加する不安感や危機感が日々強くなっていく中で1993年にリリースされたのがアルバム『STICK OUT』です。

こちらにはロック調の曲が収録されていてアルバム全体に戦争の影や死に対するイメージが付きまとっているのですが、そこにあるのは強烈な皮肉と疾走感と夢だったりする超名盤です。
このアルバムは前作『HIGH KICKS』でバンドに窮屈さを感じていたヒロトがブルーハーツというバンドの在り方を見せたい、バンドを再スタートさせたいという意向を持って制作されたそうで楽曲からも気合が漲っている気がします。特に『STICK OUT』はストレートなバンドサウンドが増えていて原点回帰的なアルバムになっていますし。

マーシー作の曲では『夢』や『やるか逃げるか』『台風』『うそつき』などサウンド的はストレートなロックが収録されています。ただし初期ブルーハーツの焼き直しではなくこれまでのアルバムやソロを通過した皮肉っぽい表現や逆説的表現もたくさん出てきます。

『夢』

あれも欲しい これも欲しい
もっと欲しい もっともっと欲しい
俺には夢がある 両手じゃ抱えきれない
俺には夢がある ドキドキするような
家から遠く離れても なんとかやっていける
暗い夜に一人でも 夢見心地でいるよ
たてまえでも本音でも
本気でもうそっぱちでも
限られた時間のなかで
借りものの時間のなかで
本物の夢を見るんだ
物の夢を見るんだ

俺には夢がある 毎晩育ててる
俺には夢がある 時々びびってる
何だかんだ言われたって
いい気になってるんだ
夢がかなうその日まで
夢見心地でいるよ

THE BLUE HEARTS『夢』
作詞作曲:真島昌利

「一人ぼっちで泣いた夜」や「一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた」と歌っていたマーシーが「家から遠く離れても なんとかやっていける 暗い夜に一人でも 夢見心地でいるよ」と歌っていることに個人的にはすごく感動しますし、僕もなんの根拠もなく夢だけを毎晩育てていたので(今も育てています)「俺には夢がある 時々びびってる」というフレーズに「マーシーも時々びびったりするんだ」と勝手に励まされたりしていました。

あとは『俺は俺の死を死にたい』も重要な曲ですね。

誰かの無知や偏見で
俺は死にたくはないんだ
誰かの傲慢のせいで
俺は死にたくはないんだ

俺は俺の死を死にたい

豚の安心を買うより
狼の不安を背負う
世界の首根っこ押さえ
ギターでぶん殴ってやる

俺は俺の死を死にたい

寝たきりのジジイになって
変なくだをぶちこまれて
気力も萎えきっちまったら
無理して生き延びたくはない

俺は俺の死を死にたい

いつか俺はジジイになる
時間は立ち止まりはしない
いつか俺はジジイになる
時間は立ち止まりはしない

THE BLUE HEARTS『俺は俺の死を死にたい』
作詞作曲:真島昌利

3rdアルバム『ブルースをけとばせ』で「70年なら一瞬の夢さ」と歌っていたマーシーがここで「いつか俺はジジイになる」と歌います。
30歳を過ぎて老いていくことや時間があっという間に過ぎ去っていくリアリティが強まってくる頃ですが、まだ「いつか」と言える若さがあるんですよね。老いていくことや時間が過ぎ去っていくことはマーシーの楽曲の大きなテーマのひとつでもあるので、この曲もおさえておくべきかと。

そしてこのアルバムのハイライトはヒロトの大名曲『月の爆撃機』からのマーシーの大名曲『1000のバイオリン』だと思います。

この曲については以前僕のnoteの「この曲がすごい!」のコーナーで取り上げたのでお時間がある時にそちらを読んでみてください。

心底大好きだと言える1曲です。もう完璧。


そして1993年の2月にリリースされた6thアルバム『STICK OUT』から5ヶ月後の7月に7thアルバム『DUG OUT』はリリースされました。
このアルバムにはスローテンポの曲やミディアム調の曲が多く収録されていて、制作やレコーディングは『STICK OUT』の楽曲と同時期に行われたそうです。

このアルバムでのマーシーは「夜」や「風」「夏」「雨」といったモチーフから曲の世界を描いていてアルバム全体の雰囲気もすごく夏っぽくなっていると思います。ソロで歌ってきた曲の世界観と地続きでどこか懐かしく切ない。

そしてこのアルバムはメンバー全員でレコーディングした最後のアルバムなのでブルーハーツとしては実質的なラストアルバムと言えるかもしれません。

マーシー作の曲は『手紙』『トーチソング』『雨上がり』『年をとろう』『チャンス』が収録されていますが、その中でも特に取り上げたい名曲がこちら。

『夜の盗賊団』

今夜 多分雨は大丈夫だろう
今夜
5月の風のビールを飲みにいこう
とりたての免許で
僕等は笑ってる
夜の盗賊団
たくさん秘密を分け合おう

THE BLUE HEARTS『夜の盗賊団』
作詞作曲:真島昌利

物語の終わりを感じさせるすごく切ない曲。マーシーのソロじゃなくてヒロトが歌うことでより切なさが加速していると思うんですよね。ヒロトのボーカルにからむマーシーのコーラスが胸を締め付ける映画のエンドロールみたいな美しい曲です。

「バンドを再スタートさせたい」という想いで2枚のアルバムを作り上げたヒロトはこのアルバムが出来上がった時に「これが最高、100点満点かもしれないな」とむしろバンドの限界を感じてしまったと解散時のインタビューで語っていたりするので、そのことを知っているとより切なくなります。

そして1995年5月17日。ブルーハーツ はNHK-FMの『ミュージック・スクエア』に収録でゲスト出演して、そこでバンドの今後の予定を聞かれたヒロトが「解散」と突然告げます。この収録は6月1日に放送されたのですが、5月17日の収録に立ち会っていたロッキング・オンの山崎洋一郎さんが解散の報に衝撃を受けてその日のうちに取材を敢行したのが1995年7月号のロッキング・オンジャンパンのラストインタビューです。

ROCKIN'ON JAPAN 1995年7月号

ブルーハーツのメンバーがそれぞれインタビューに答えているのですが、ここでは解散はヒロトが切り出したこと、ヒロトは自分の欲望とエゴ、ロックンロールという価値観のためにブルーハーツを終わらせて新しいバンドを始めるということを前向きに語っています。「マーシーはどういうつもりでやってたのかわかんないけども、早い時期からソロをやったりして何かに気付いていたかもしれない」とヒロトは言っているように、ヒロトがバンドに窮屈さや限界を感じていたのは本当に後期の段階だったようです。

そしてこのインタビューでは解散は誰のせいでもなく自分の欲のためだというニュアンスで語っていて、ある意味ヒロトは全てを背負ってブルーハーツを終わらせたいという気持ちもあったのかもしれません。

ベースの河ちゃんはブルーハーツでの経験やロックとの出会いよりも幸福の科学や大川隆法氏との出会いの方が重要だったと語っていたりするのですが、ヒロトからもマーシーからも河ちゃんと宗教の話しに触れることは一切ないですし、共通して解散の原因は誰かのせいやバンド内での不仲などはないことを強調しています。
ドラムの梶くんもバンドへの愛着があることやメンバーとの仲は良いという話をしていました。

マーシーは言葉では前向きと言っているのですが、かなり寂しさとか諦めも感じるようなインタビューで、カラッとしているようですけどヒロトほどの割り切りはまだ出来ていない印象。ヒロトが解散に向けてまっしぐらなのと対照的にマーシーの言葉からは解散ではなくて無期限の活動休止でもよかったのでは、という思いが滲んでいたりします。

8thアルバム『PAN』

THE BLUE HEARTS『PAN』(1995)

ブルーハーツの解散後に発表されたラストアルバム。マーシーは「ラスト・アルバムを作るつもりはなかったけどレコード会社との契約が残っていたから」とインタビューで答えています。
ビートルズのホワイトアルバムのようにメンバーが別々にそれぞれにミュージシャンを集めて楽曲をレコーディングして1枚のアルバムにしています。この頃にはもうベースの河ちゃんは幸福の科学に深く傾倒していて、楽曲にもその影響が感じられたりも。

『ヒューストン・ブルース』で「天国なんかに行きたかねえ」「神様なんかにあいたくねえ」と歌うヒロトや、『こんなもんじゃない』で「目が眩むほど何かを信じることは 時に自由を脅かす」と歌うマーシーと一緒にバンドを続けるのは河ちゃんにも葛藤があったんじゃないかなという気もしますが、それが解散の直接の原因ではなくて「こんなもんじゃない」という想いこそがブルーハーツの解散の理由だったというところが重要なんじゃないかと僕は思っています。

マーシーの楽曲はオーケストラを入れたりフィルスペクター風のアレンジだったりアコースティックな曲だったりでやりたいことをやりたいようにやっている感じですが、マーシー作の『もどっておくれよ』『バイ バイ Baby』『休日』はどれも別れをテーマにしたものでした。
マーシーの曲の演奏メンバーには後にハイロウズにキーボードで加入する白井幹夫さんとドラムで加入する大島賢治さんなのでベースとボーカル以外はもうすでにハイロウズだったりします。

ちなみに1995年は1月に阪神・淡路大震災、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件があった年でもあります。

こうしてブルーハーツは終わりを告げました。

・THE HIGH-LOWSの頃(『モンシロチョウ』まで)

さて、ついにハイロウズ結成です。ハイロウズの『モンシロチョウ』の歌詞を考えるためにどれだけ文字数をかけるんだという感じですが、本当はもっともっと書きたいことがあるのでこれでもかなり抑えているほうなんです。笑

ひとつのバンドの終わりは新しいバンドの始まりでもあります。
僕はヒロトやマーシーがバンドにこだわってくれたのが本当に嬉しいですし、また二人が一緒にバンドを組んだんだから最高じゃないわけがないです。

ブルーハーツが解散して、ラストアルバム『PAN』がリリースされたのは1995年7月、ハイロウズの1stシングル『ミサイルマン』と1stアルバム『THE HIGH-LOWS』が同時リリースされたのが同年の1995年10月なのでブルーハーツ解散からほとんどノンストップでハイロウズが始動したことがわかります。

ブルーハーツを解散した後、マーシーはラストアルバムで一緒にレコーディングしたドラムの大島賢治さんとキーボードの白井幹夫さんを誘って新バンドを結成することを決めて、ボーカルとして「バンドを辞めて暇そうにしていた(マーシー談)」ヒロトに声をかけて、ベースには80年代からいくつかのバンドで活動していた調先人さんを誘い「THE HIGH-LOWS」は結成されました。
このようにハイロウズはマーシーがメンバーを全員集めて結成しているのもポイントな気がします。

1stアルバム『THE HIGH-LOW』

THE HIGH-LOWS『THE HIGH-LOWS』(1995)

ブルーハーツの1stもそうでしたがバンド名がそのままアルバムのタイトルになっています。
このアルバムの1曲目はマーシー作の『グッドバイ』です。

サヨナラする キレイさっぱり
サヨナラする これでスッカリ
サヨナラする キレイサッパリ
サヨナラする これでスッカリ
今までありがとう
本当にありがとう
今までありがとう
もうこれでお別れですよ
サヨナラする
ダサイやつらと
サヨナラする
これでスッカリ

THE HIGH-LOWS『グッドバイ』
作詞作曲:真島昌利

この曲でこれまでに別れを告げてハイロウズは始まります。
このアルバムでのマーシーの曲はブルーハーツ後期と同じくあまりメッセージ性や意味を強調せずにバンドサウンドを強調したものが多いです。
そして時折ブルーハーツ時代にはあまり強調されていなかった攻撃性や辛辣さを感じるのもハイロウズの特徴かもしれません。

ブルーハーツ時代や過去のキャリアとの決別を歌うような『グッドバイ』からして「サヨナラする ダサイやつらと」という歌詞なのでブルーハーツ時代のファンの中にはちょっとショックだった人もいるのでは?という気が少しします。

ハイロウズの一部の曲ではヒロトやマーシーの「嫌われたってかまわねえ」という感覚やある種の破滅願望や攻撃性といった自暴自棄な感情が歌われていることも多くて、それはヒロトやマーシーが好きなロックのある種の側面でもあり、ブルーハーツではあまり歌ってこなかった部分な気がします。
ハイロウズでは語りたいヒロトの曲もあまりに多いのですがそれはまた別の機会に。

2ndアルバム『Tigermobile』

THE HIGH-LOWS『Tigermobile』(1996)

個人的にハイロウズはブルーハーツの中期〜後期で歌われたような抽象的な歌詞をハードなバンドサウンドで演奏したようなイメージがあって、パンクというよりもリフがあったりするのでディープパープル的なハードロックっぽい曲が増えている印象なのですが、その印象はこのアルバムの1曲目『俺軍、暁の出撃』、2曲目の『相談天国』のイメージが強いからかもしれません。
どちらもマーシー作で『相談天国』はストレートにディープパープルのオマージュをしています。
このハードさはブルーハーツにはなかったものですし、白井さんキーボードのサウンドがハイロウズのサウンドの重要な要素になっています。

ハイロウズはインタビューなどでヒロトとマーシーがピリッとしていて緊張感があることも時々あったのですが、このアルバムが出た後には「ライブでブルーハーツの曲をやっているという誤解がある」という話題を出されたマーシーが明らかに不機嫌な様子で「他のバンドの曲なんだから関係ない。シャ乱Qの曲をやってるっていうのと同じ次元だと思うし、そんな誤解を解くために何かを言うのも面倒だ」というようなことを言っていたりします。

このアルバムでもマーシーの曲はメッセージ性や意味を重視しないものが多いのですが、ラストの『月光陽光』にはマーシーらしいメッセージが込められている気がします。

『月光陽光』

ためこんだ知識がクサれば
知ったかぶりより直感だ
今だけが生きている時間
なのになぜ待っているのだ

安っぽい夢が輝けば
もう何もかも捨てていくよ
しがらみ足を取る生活は

月光陽光 俺を照らすよ
月光陽光 なんて力強く
遠くからは大きく見える
近づけばそれほどじゃない
からっぽに見えるけど
きれいに澄んだ水がある

THE HIGH-LOWS『月光陽光』
作詞作曲:真島昌利

「今だけが生きている時間 なのになぜ待っているのだ」「安っぽい夢が輝けば もう何もかも捨てていくよ」といった言葉からはこの頃のマーシーの正直な気持ちが感じられます。

そしてこのアルバムと同時にリリースされたシングル『ロッキンチェアー』のカップリングの『夏の朝にキャッチボールを』を紹介したいのですが、この曲については以前noteで記事を書いたのでお時間があればこちらをご覧ください。マーシー作の大名曲。

この曲は最高なのでぜひ聴いてみてください!


3rdアルバム『ロブスター』

THE HIGH-LOWS『ロブスター』(1998)

このアルバムは翌年のアルバム『バウムクーヘン』に収録された『モンシロチョウ』を理解するためにも重要かなという気がします。

1998年にリリースされたこのアルバムと1999年にリリースされた『バウムクーヘン』には世紀末ムードが漂っていて、それは子供の頃から『ノストラダムスの大予言』や超能力、UFOなどのオカルトブームや東西冷戦による核戦争や第三次世界大戦の危機、環境汚染や格差の拡大といった消費社会の破綻などがない混ぜになった世界で幼少期から過ごしてきた世代ならではの感覚もあるという点を抑えておいてもいいと思います。

マーシーの歌詞の中でもブルーハーツ時代やソロでたびたび環境破壊について言及されていたり、「信じること」を疑う視点が歌われているのはこれまで紹介してきた曲からも伝わっているのではと思いますが、このアルバムと次のアルバムには1995年の阪神淡路大震災やオウム真理教による一連の事件をリアルタイムで通過した世代のアーティストとしての言葉選びがある気がします。

『ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月,人類滅亡の日』祥伝社(出版) 小学館(発売)〈ノン・ブック〉1973年

『ノストラダムスの大予言』は作家・ライターの五島勉氏が1973年に発表した本で、オイルショックや公害問題、東西冷戦による核戦争の恐怖など当時の社会不安を背景に250万部以上の大ベストセラーとなりました。

テレビなどでも特集が組まれてオカルトブームを作り上げるひとつの要因にもなったこの本の影響はとても大きく、大人からも子供までなんとなく「ノストラダムスの大予言」というものがあって「1999年7の月に人類は滅亡する」と書かれていることは知っていたような状況だったそうです。

1962年生まれのマーシーと1963年生まれのヒロトも当然そんな時代に小学生だったので、夢中にはならなくても「1999年に人類は滅亡する」というイメージには触れて育っていたと思います。

僕は1998年、1999年に小学生だったのですが、当時は『学校の怪談』が人気で、口裂け女や人面犬といった都市伝説が小学生のあいだでも語られている第二次(三次?)オカルトブームといえる状況でした。
1999年が近づいてくる中でテレビもオカルト特集や心霊系の番組をたくさん放送していた覚えがあります。(その影響で僕は今でもテレビ的なオカルトが好きです)
ノストラダムスの大予言や過去のオカルトブームもたびたびそういった番組で紹介されていました。

ただ、1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の信者たちの多くは『ノストラダムスの大予言』を信じていたという話しもあってその後オカルトがテレビで取り上げられることは減ったというような話しもありますが、僕の記憶では1999年の前はまたオカルトが盛り上がっていたと思います。

ブルーハーツもいわゆる「信者」と言えてしまいそうな熱狂的なファンがたくさんいるバンドだったので、そこに対するヒロトやマーシーの不信感や疑念のようなものもきっとあったと思います。

社会不安と結びついた個人の不安につけ込んで忍び寄る怪しい新興宗教や集団はいつも孤独を食い物にしようとします。
そういったものに自分たちがなっちゃいけないという危機感はマーシーのソロなどブルーハーツの初期の頃から読み取れるので、ハイロウズの曲は「世界の終わりを前にしてどう生きるのか」といったことも歌詞の中で語られていることが多いように思うのですが、そう感じるのは僕だけですかね?

このアルバムの1曲目、マーシー作の『コインランドリー』

雑誌を読んでCDを聴く
わかったことが一つだけある
バカは不幸が好きなんだ

想像力 それは愛だ 歴史の果てまで
漂白剤ぶちまけるぜ 世界の果てまで

ストレスこそが活力源だ
チクロ食ってた 不死鳥の俺だ
毎日思い通りだぜ

THE HIGH-LOWS『コインランドリー』
作詞作曲:真島昌利

ストレートなロックに乗せて歌われるのはコインランドリーで服を洗濯している主人公の破れかぶれな心なのですが、それは雑誌を読んでCDを聴きながら「バカは不幸が好きなんだ」と思ったり「想像力それは愛だ」と感じながらも「漂白剤を世界の果てまでぶちまける」矛盾した心だったりします。
コインランドリーで洗濯して漂白剤をぶちまけて環境を破壊する自分の中に「世界を真っ白にしたい」というような自暴自棄で破壊的な感情を見つけるような印象。

ここで「漂白剤ぶちまけるぜ」と歌われることは、「環境破壊はいけない」と思いつつも日々の生活の中で環境破壊に加担してしまっていたり、「戦争はいけない」と思いつつも世界にうんざりして何もかも壊れてしまえと思ってしまうような気持ちだと個人的には思っています。
「愛や幸せ」を説きながら宗教や戦争は人を殺すっていうような世界の嘘や欺瞞、矛盾の真っ只中で生きている自分もその世界と同じようなものなんじゃないかっていう葛藤をロックに変換することで「ストレスこそが活力源だ」とうそぶいて生きることを選ぶというようなイメージ。

「チクロ食ってた 不死鳥の俺」の「チクロ」は砂糖の30倍から50倍の甘さを持つと言われる人工甘味料で、日本では1960年頃に食品添加物として認可されて広く利用されてきましたが、大量摂取で内臓障害や発癌の恐れがあるとして1969年に使用が禁止されました。
マーシーは1962年生まれなので子供時代はチクロが添加された食品を食べていたりもしたと思うので、「毒を食らって俺は生きているんだ」というようなニュアンスと「どうせいつか死ぬんだからストレスを活力にして思い通りにやってやる」というような気持ちを歌詞にしていると僕は解釈しています。

ただ、この歌詞が出てくるということは環境破壊や食品添加物、ストレスに対して強烈な不安や恐怖を感じたことがある証拠だと思うんですよね。(マーシーのソロでも『GO!GO!ヘドロマン』などで環境破壊はテーマになってましたね。あと食品添加物は加工食品のコストを下げるために使われるので利益至上主義の資本主義が生み出したものだとも言えます。その一部が食べた人の健康よりも企業の利潤を優先していたので消費者は「消費する側」ではなくて「消費される側」だったんだという構図も見えてきたり。)

この一歩間違うと自己破壊に向かってしまいそうなヒリヒリした緊張感が『ロブスター』と『バウムクーヘン』のいくつかの楽曲にはあるので、このあたりの攻撃性と裏表の不安感などを意識すると曲の深みや重みがグッと変わる気がします。話題にもしない無関心とは全然違うんですよね。

2曲目の『E=MC2』も歌詞の世界観としては『コインランドリー』と近いものがあります。

光速の荒野を俺は走りぬける
激しい風 漏れる放射能
激しい雨 ダイオキシンの雨
未来も過去もない 瞬間があるだけ
呼吸してる 意識もあるぜ
ただ一つの 本当のことだぜ

THE HIGH-LOWS『E=MC2』
作詞作曲:真島昌利

「E=MC2」とはアインシュタインが1907年に発表した質量とエネルギーの等価性を表す関係式(イー・イコール・エム・シー にじょう)のことで「エネルギー E = 質量 m × 光速度 c の2乗」という内容になります。
エネルギーをテーマにした曲で「漏れる放射能」や「ダイオキシンの雨」が出てくるのは環境破壊や原子力発電所の事故、核兵器に対する批判的な視点からだと思いますが、同時にそういった不安や憂鬱に押しつぶされるのではなく「未来も過去ものない 瞬間があるだけ」「呼吸してる 意識もあるぜ」と今生きている実感を掴み取ろうという意志が感じられます。

そのほか有名になりたい人の自意識を歌った『有名』という曲では自分自身のことも皮肉っているような気がしますし、『そうか、そうだ』では

活字なんかより 行政なんかより
宝石なんかより 俺の方が正しい
そうか、そうだ

ババアなんかより 哲学なんかより
苦しみなんかより 俺の方が正しい

THE HIGH-LOWS『そうか、そうだ』
作詞作曲:真島昌利

と歌われます。マーシーのこれまでの言葉の精度や歌ってきた内容から考えると「俺の方が正しい」なんて言ってしまうことの愚かさをわかったうえであえてこの言葉を選んでいると思います。

『風の王』では

強風波浪注意報 台風が来るよ
波乗りに出かけよう いい波が来そうだ

電気椅子の玉座で 思い出し笑い
断頭台のベッドで 寝タバコふかしてる

THE HIGH-LOWS『風の王』
作詞作曲:真島昌利

と歌われます。死を前にして笑いたい、自然災害や絶望や恐怖を前にしてそれでも立ち止まるのではなく加速したいという思いがこの時期のマーシーには強かったのではないかというのが僕の印象。

攻撃的な曲が多い中で『真夜中レーザーガン』は後のクロマニヨンズに通じる雰囲気があります。

加速してGがかかる
それだけが存在証明
加速してギリギリまで
それだけが存在証明

THE HIGH-LOWS『真夜中レーザーガン』
作詞作曲:真島昌利

ヒロトとマーシーはバイクに乗るので曲のモチーフになることも多いのですが、この曲もバイクに乗っている時のことだったり、自分の活動を加速させてそこでかかるストレスこそが存在証明なんだというニュアンスが伝わってきます。これは『コインランドリー』の「ストレスこそが活力源だ」という歌詞にも通じるものかも。

4thアルバム『バウムクーヘン』

THE HIGH-LOWS『バウムクーヘン』(1999)

さて、ここまで読んでくださった方がどれだけいるのか分かりませんが、今回の記事はそもそもハイロウズのアルバム『バウムクーヘン』に収録されたマーシー作の『モンシロチョウ』の「第3次世界対戦だ ワクワクするぜ突撃だ」という歌詞が皮肉なのかどうか、ただの愚かな歌詞なのかということを考えるのが目的だったのですが、結局マーシーの歌詞の変遷を追いかける記事になってたのですがついに!ついに『モンシロチョウ』にたどり着きましたね!やった!

ここまで読んでくれた方はもう心の友だと言っても過言ではないのかもしれません。(歌詞の引用があるとは言えすでに3万5千字を越えているので)

このアルバムは初のセルフプロデュース作で、自分たちのスタジオでディレクターやエンジニアも入れずに全てメンバー5人で作業を行なってほとんど一発録りでレコーディングしているのでアルバム全体にかなり生々しい感触があります。
そしてヒロトとマーシーのテンションが一致していてかなり尖った曲が多いアルバムです。ここにあるのは「正しい」メッセージを伝えるための音楽じゃなくて、あるのは不安や憂鬱を吹き飛ばす攻撃的なロックンロールの価値観です。

ヒロトが「でかいドリルで穴を掘って 地獄の門にションベンする」「天国の門をたたいて ピンポンダッシュでバカ笑いだ」「罪ならば全部認めるが 罰を受けてる暇はないぜ」と歌う強烈な名曲『罪と罰』で開幕したこのアルバムの2曲目はマーシーの『チェンジングマン』です。

変わるぜいつだって
変わるぜ今だって

あきらめる度に
何かが死んでいく
キミがそう信ずるなら
ガラクタも宝ものだろ
やさしいフリすんな
そんな気もないくせに
死にものぐるいでやんなきゃ
ダメなんだつまらなくなる

THE HIGH-LOWS『チェンジグマン』
作詞作曲:真島昌利

「死にものぐるいでやんなきゃ ダメなんだつまらなくなる」という感覚と「今が楽しければいいんだ」っていう感覚こそがこの頃のマーシーだと思っているので、この曲はすごく象徴的な気がします。

このアルバムのマーシーは本当に攻撃的で自暴自棄な感じなので歌詞を言葉通り受け取るとかなりきつい事も言っています。
ただ、そこからは「ファンがたくさんいて影響力があるから当たり障りないことを言う」という選択をしないで「嫌われても良いから言いたい放題言ってやるんだ」っていう選択をして言葉に対する自分の自由を守ろうとしているような印象をこのアルバムのマーシーの曲から僕は感じます。
ただただ色々なことにイライラしてフラストレーションが溜まっていくのをロックとして発散しようという思いが強かったのかもしれませんけど。

そしてマーシーとの関係を思わせるヒロトの『二匹のマシンガン』の後に歌われるのが『モンシロチョウ』です。ようやくここにたどり着きましたね。
それでは聴いてみましょう。ハイロウズで『モンシロチョウ』です。

・モンシロチョウの歌詞

モンシロチョウ キャベツ畑
モンシロチョウ キャベツ畑

裸になればいいのか
ポコチン出せばいいのか
存在してるだけじゃ
退屈で嫌になっちゃうよ

モンシロチョウ キャベツ畑
モンシロチョウ キャベツ畑

詮索好きのババア
男のババアが増えた
オレはひどい咳だぜ
コデインをお願いします

第三次世界大戦だ
ワクワクするぜ 突撃だ

地球にやさしくだと
余計なお世話だババア
イルカやクジラよりも
森林やオゾンよりも

第三次世界大戦だ
ワクワクするぜ 突撃だ

モンシロチョウ キャベツ畑
モンシロチョウ キャベツ畑
モンシロチョウ キャベツ畑

THE HIGH-LOWS『モンシロチョウ』
作詞作曲:真島昌利

この曲を聴いて『こいつは何をバカなこと言ってんだ!』と心底腹が立つ人もいれば『言いたい放題言ってくれてスッキリする!』という人もいると思いますがそのどちらの感想も間違っていないんじゃないかと僕は思っています。

この時期のマーシーの曲には自暴自棄な感じや「今が全てであとはどうなっても構わない」というような破壊的な感情と「バカな奴がバカなことを言っている中にふと共感する言葉があったり、本質を突く言葉がある」というようなニュアンスのものが多い気がします。
これらはマーシーが中学生の頃や高校生の頃から好きなロックの中にも間違いなくあった感覚で、日常に不安や絶望が溢れているからこそセックス・ピストルズが歌う『NO FUTURE』に共感したり、違法なドラッグや犯罪、暴力について歌われた曲や映画、小説などの「正しくなさ」にこそ自分の中の罪悪感やフラストレーション、暴力性を投影できたりといった部分もあると僕は思います。

そもそも全ての芸術や表現が「正しいこと」だけを言わなければいけない世界って恐ろしくないですか?
そしてその「正しさ」を決めるのは誰なんでしょう。
作品の中で「正しくないこと」を言った人は攻撃されるべきなのでしょうか?

マーシーが作る「正しくないこと」を歌った曲にはこういったことまで考えさせるだけの深みがあると僕は思っています。
「この歌詞が正しくないと思うなら君はどう思っているの?」という問いかけでもあると思うんですよね。

ちなみに僕はこの曲を聴いてめちゃくちゃ切ない気持ちになります。
メロディやコード、ヒロトの歌からはただ単に痛快だったり露悪的なことを言って喜んでるんじゃなくて、そういったことを思い浮かべたり言葉にして一瞬ストレスを発散してもどこかに一抹の寂しさが残っているような印象を受けます。ということで歌詞をじっくり読みながらこの曲に対する僕の気持ちを書いていこうと思います。GO!GO!

まず大前提としてこの曲の主人公を単純にマーシーと同一視するのもちょっと危険かな〜と個人的には思っています。
というのもマーシーの曲の中には小説のように主人公がいてその主人公の主観を通して歌われたものが多くあるので単純に私小説だと思うのはちょっと危ういと思うんです。(すごくわかりやすい例はソロの「アンダルシアに憧れて」とかですけど、その他の曲でもマーシー自身と重なりつつもフィクションとして主人公を描いた曲が結構あると思います)
もちろんマーシーの内面から生まれてきた言葉なのでマーシーそのものでもあるんですけど、文学や映画のセリフなどが全てが全て作者の本心や本音ではないので今回はあえて物語的に主人公がいるという解釈でこの曲を読み解いてみたいと思います。

「モンシロチョウ キャベツ畑」
このフレーズがあることでこの曲の深みがグッと増していると僕は思うのですがあんまり言及している感想や文章を読んだことがない気がします。

繰り返される「モンシロチョウ キャベツ畑」という歌詞から僕が思い浮かべるのは、だだっ広いキャベツ畑を中に佇んでいるひとりの主人公がそこに飛ぶモンシロチョウを見つけた光景です。
主人公は地方に住んでいる(もしくは都会から地方にやってきた)若い男(もしくは少年)でいつも退屈していて学歴も教養もなく、誰からも嫌われていてまわりには誰もいないタイプの不良なんじゃないかな〜と僕は想像します。

「裸になればいいのか ポコチン出せばいいのか」
これは主人公の愚かさと自暴自棄な内面を表現していると思うので、この時点で愚かで幼稚な所がある「バカな」人物であるということがわかります。
なのでこの曲を聴いて「愚かだ!」って思う感想も全然間違っていないと思います。

「存在してるだけじゃ 退屈で嫌になっちゃうよ」
ただ、その愚かさの奥に「存在してるだけじゃ 退屈で嫌になっちゃうよ」という本能的な不安感や不快感があることが描かれます。この愚かな登場人物にも一理ある感じというか共感できる部分をここでポンっと投げてくるあたりがマーシーならではの切れ味。

そしてもう一度「モンシロチョウ キャベツ畑」と繰り返されてモンシロチョウの舞うキャベツ畑の中で愚かな主人公の思考は暴走していきます。

「詮索好きのババア 男のババアが増えた」
「オレはひどい咳だぜ コデインをお願いします」
この歌詞は色々な解釈が可能なのですが、僕が思い付くものだとひとつは主人公がカジュアルドラッグとして咳止め薬の「コデイン」を求めて薬局にいった時の回想シーンだという解釈です。
市販もされている咳止め薬のコデインには若干の麻薬成分が含まれているので非行に走る若者が過剰摂取したり薬物依存に陥ってしまうケースがあります。
その場合の「詮索好きのババア」というのは主人公の主観で、コデインを求めた時に自立した雰囲気の気が強い薬局の女性薬剤師が「なぜコデインが必要なのか?」という確認をしてきて不満に思っているという想像ができます。
そこで「オレはひどい咳だぜ コデインをお願いします」というふうに内面では「詮索好きなババア」というように暴言を吐いているくせにコデイン欲しさに敬語を使っているあたりで主人公のみっともなさや愚かさが出ているっていうのが解釈のひとつ。

あとは単純にアレコレと詮索してくる人たちに対する苛立ちの表現だったり、主人公が女性の社会進出やフェミニズム運動的なものに苛立ちを覚えるような性差別意識を内面化した人物であり、決して教養があるタイプの人物ではないことを表現しているとか。もしくは仕事が見つからずに、その原因を女性の社会進出だと決めつけて逆恨みしているとかっていう想像もできます。
「オレはひどい咳だぜ」がコデインを手に入れるための嘘じゃないと解釈すると環境汚染や公害によって咳が出ているという捉え方もできるかも。

「地球にやさしくだと 余計なお世話だババア」
「イルカやクジラよりも 森林やオゾンよりも」
これらの歌詞は世界のことや地球のことなんて考えられない主人公の内面が表現されていて、大人の女性が言う「正しさ」を素直に受け取れない人物が自暴自棄になりながら幼稚な考えで大人に反抗している様子が描かれていると思います。
ここでも「ババア」なのにもきっと意味があるんですよね。少ない言葉数の中に2度も出てきているのでしっかり考える意味があると思います。

もしかしたら先に出てきた「詮索好きのババア」と同一人物で自分の身近にいる大人の女性なのかな?とか、大人の女性や環境問題や社会に強い関心がある女性への強烈なコンプレックスを感じるので学歴コンプレックスみたいなものものを抱えているのかということも感じられます。
もしくは「母親」に対して強烈なコンプレックスを持っている主人公が女性嫌悪的な価値観にとりつかれているのかもしれません。ある特定の大人の女性に愛されたかったのに愛されなかった経験があって、そこから無関係な女性たちのことも敵視しているとかもありえるのかも。

そして問題の(すでに問題だらけですが)
「第三次世界大戦だ ワクワクするぜ突撃だ」
というフレーズがやってきます。

これはここまでの歌詞でわかるように退屈で生きている実感を得られない、教養も自然や動物を愛する想像力も持てない「正しくない」孤独な不良少年が第三次世界大戦、つまり世界の終わりや破滅を夢想してワクワクしている様子を描いているようなイメージがあります。
嫌われて当然な粗暴さや自分勝手な価値観を持っているので、孤独だとしても自業自得だと思われても仕方がないような「正しくない」主人公なんですけど、彼が佇んでいるのは戦場じゃなくてモンシロチョウが舞うキャベツ畑なんですよね。

つまり彼は戦争のことなんて何も知らないし、凄惨な戦場や自分の死についてリアリィを持った想像が全くできていないということがわかります。
「地球に優しく」という感覚がわからず、自然や動物に思いをかける想像力がないからこそ誰にも愛されずに戦場にときめいちゃうんだと思います。
そしてこの「第三次世界大戦だ ワクワクするぜ突撃だ」っていう歌詞はこの主人公の自殺願望や破滅願望を象徴しているんじゃないかな〜と僕は思います。
「他人や自然、世界なんかどうなったっていい」という感覚と同時に「自分もどうなったっていい」と思っている感じ。

このあと繰り返される「モンシロチョウ キャベツ畑」のフレーズを聴いていると僕はどこまでも続くキャベツ畑の緑とモンシロチョウの白、そして真っ青な空のコントラストとそこに佇むひとりの少年が目に浮かびます。
そんなキャベツ畑の風景に正しくない人、孤独な人、愚かな人が戦場で死んでいく残酷な景色がオーバーラップするようなイメージも。

ただこの愚かな少年は実はキャベツ畑の中で舞うモンシロチョウに気が付いてそこで足を止めてしまうような感性も持っているんですよね。
「モンシロチョウ キャベツ畑」という言葉を聴いて何も感じない人や何言ってんの?という方も全然いると思いますけど、この少年はそこで足を止めて湧き上がる自分の内面と対峙します。

きっと詩や文学、ロックと出会えたらこの少年は自分の内面を芸術として昇華できる可能性もあると思うんですけど、今の彼は自己や世界の破滅を待ち望んでいるという悲しさを最後の「モンシロチョウ キャベツ畑」の繰り返しから僕は感じます。(全然別の解釈としてはこの主人公はすでに戦場に来てしまっているという解釈もあると思います)

ということで僕のこの曲に対する解釈はこんな感じでした。
この曲を作った時のマーシーの中にはこの曲の主人公みたいな「正しくない」人物にも共感してしまう自暴自棄な感覚があったり、この主人公みたいな「正しくない」内面を抱えた人のための曲も作りたいという思いもあったんじゃないかなと僕は想像します。
「正しさ」からこぼれ落ちた人たちにも最後の価値観として文学やロックがあるんだっていうのはブルーハーツの初期から一貫してヒロトとマーシーが歌ってきたことでもありますが、この曲を作った頃のマーシーは聴いた人が傷つくことになっても、誰かに嫌われることになってもそういう世界を表現したいという強い意志があったんだと思います。

文学で言うとサリンジャーとか太宰治、中原中也とかに通ずる世界観があるかもしれません。

このアルバムでマーシーは自嘲的な『ダセー』、旅立っていくキミを見送るソロのマーシー的な世界観の『見送り』、「地獄や死後の裁きとかそんなのウソっぱちだ クサい金の臭いがする」という歌詞で人の不安を煽る宗教を批判する『死人』、「ブッ壊れたっていじゃん」と暴言を吐きまくる『ガタガタゴー』などがあります。
「見送り」だけは違いますがどの曲も歌詞がすごく尖っているのでこれらの曲を聴いて激怒する人もいるんじゃないかな〜と思うのですが、このアルバムの中でのマーシーのラスト曲『笑ってあげる』がさらにトドメをさしてきます。

曲自体はゆったりしたローリングストーンズっぽいムードなのですが、マーシーの曲を聴いて真剣に怒ってる人の神経をさらに逆撫でするような歌詞。この徹底した尖っぷりがこの頃のマーシーなんだと思いますし、この曲の歌詞からなぜマーシーが身勝手さや自己中心的な欲望など「正しくないこと」を歌っているのかもちょっと見えてくる気がします。

裸足になって座禅を組んでも
結局何にもわかりゃしないだろう
日々の煩悩の中で気付かなきゃ
結局何にもわかりゃしないだろう

裸になって滝に打たれても
結局何にもわかりゃしないだろ
日々の煩悩と欲望の中に
しっかり確かな手応えがあるぜ

キミは笑われたことがないんだろ
笑ってあげる
眉間にしわを寄せてるキミを
笑ってあげる

苦行の果てには何が見えたんだ
難行の果てに何が見えたんだ
キミが偉そうに言ってることなど
とっくにオレは気付いてるんだぜ

キミは笑われたことがないんだろ
笑ってあげる
眉間にしわを寄せてるキミを
笑ってあげる

THE HIGH-LOWS『笑ってあげる』
作詞作曲:真島昌利

アルバム『バウムクーヘン』と同時にリリースしたシングル『罪と罰』のカップリングにマーシー作の『即死』が収録されています。
この曲もこの時期のマーシーを象徴する曲だと思うので紹介しておきますね。僕は大好きな曲です。

ああしなさいとか 
こうしなさいとか
もううんざりだよ

ああしなきゃとか
こうしなきゃとか
もううんざりだよ

何が正しいか知らない
何が楽しいか知ってる
何が正しいか知らない
何が楽しいか知ってる

そうして僕らは立ってる
生乾きのパンツをはき
居心地悪そうにしてる

ありもしないフツーだとか
ありもしないマトモだとか
まぼろしのイメージのなか
まったくダセーよ

THE HIGH-LOWS『即死』
作詞作曲:真島昌利

きっとこういう気持ちの中生まれたのが『モンシロチョウ』なんだと思います。

ということで『モンシロチョウ』までのマーシーの歌詞を追いかけて、『モンシロチョウ』に対する僕の解釈をダラダラ書いてきましたが、取りあえず当初の目的は達成したので今回の記事はここで終わります。

まさかの4万字(42000字超え)・・・。最後まで読んでくれた方は本当にありがとうございます。こんなに長くて読みにくい文章は僕だったら最初の2行くらいで読むのやめちゃうと思います。
個人的にはマーシーの歌詞はクロマニヨンズの時期が最高だと思っているので、いつか必ず『モンシロチョウ』以降のマーシーの歌詞やヒロトの歌詞についてもまとまった文章を書こうと思います。
それではみなさん、またいつかお会いしましょう。

ロックって本当にいいものですね。
サヨナラ。サヨナラ。サヨナラ。




僕は普段絵本やZINEを作っています。作品はこちらで扱っているので良かったらぜひのぞいてみてください。


ホームページはこちら。絵本を無料で公開しているのでご興味があればぜひ。


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