腹心懊悩 エピローグ
エピローグ
これは遠い昔のお話です。香壇山長楽寺という場所に、一人の稚児が預けられることになりました。稚児の名前は利達。齢十歳。有名貴族の落とし胤です。男児として生まれたものの、その出自から親の威光による出世が望めません。幼い頃から母に口酸っぱく教え込まれ、この世に対する期待も、気力も失っていました。できれば何もしたくない、平穏に暮らせればそれでよいと考えていたのです。
利達の父は、利達に対して大いに期待していました。この時代は字を書くことが一つのステータスです。誰でも書けるというわけではなく、手習いのできる環境の者でなければ書けませんでした。利達の父は、利達が五歳の頃、試しに字を教えてみました。驚くことに、ものすごく上手に字を写して見せたのです。最初は簡単な漢字から習わせ、漢籍の書写をさせてみました。利達はとても楽しそうに覚えていったのです。
ちなみに、ひらがなは教えませんでした。この時代、男は漢字、女はかな文字でした。一部の教養のある人の文化でしたが、利達は父のおかげで読み書きが非常に得意になっていました。
利達の母は、農村の家系の娘でした。字の読み書きは当然できませんでした。しかし、器量がよく、心が純粋な人でした。少し聞きかじって真似してみた歌が非常に美しく、高評価されました。耳で聞いた言葉を覚え、表現する技術が高かったのです。京からたまたま通りかかり宿を取った利達の父と出会って見初められたのです。そうして、生まれたのが利達でした。
利達の母は自分の状況をよく理解していました。出自がよくないため、京に迎え入れられることがなく、我が子が京で活躍する機会に恵まれないことをよくわかっていたのです。だから、字の読み書きを修得する彼を見て非常に複雑な心境でした。このまま興味が高まり、もっと高度な技術を身につけたとしても、活躍することなく、利達の能力は宝の持ち腐れになってしまうのです。そんな思いをさせるくらいなら、読み書きではなく、畑の耕し方、わらじの編み方などを教えてやりたかったのです。しかし、利達の父が度々通い、目を掛けてくれることから、それを否定できずにいたのです。
利達が八歳になる頃には、大人顔負けの知識になっていました。利達の父が写しを持っていた書籍のほとんどは覚えてしまいました。驚異的な記憶力を見せる利達に驚くばかりでした。利達の父は心の底から利達を京に迎えたいと思っていました。しかし、京には正妻もおり、倅もすでに存在していました。その子ども達もそれなりに優秀で、自分の立場を補佐し、自分が退いた後は、政界を引っ張っていく人間になるだろうと思っていました。利達はそんな倅たちと引けを取らないくらいに優秀だと思ったのです。だからこそ、利達を政界に入れたいと思い色々と策を考えていました。しかし、正式な手段では厳しいことを身にしみていました。
そんな時、京で活躍していた万寿弥と出会いました。彼は非常に優秀な人物でした。元々は仏門に入り修行していましたが、政界への熱心な研究が認められ、還俗して京で活躍していたのです。しかし、彼は利達の父と出会った時、悩んでいました。このまま政界で活躍する道を選ぶか、再び仏門に戻るかということに悩んでいたのです。確かに、政界の研究を行い、うまく世渡りをしてきたつもりでした。ところが、ここ最近調子がよくありません。体の不調と言うよりは心の不調を感じていたのです。仏門で修行をしながら、政界の研究しているときは非常に楽しく、心がワクワクしていたのですが、実際の現場を見ると、そんなワクワクを感じず、日々摩耗していく自分がいることに悩んでいたのです。
利達の父と万寿弥は非常に仲良くなりました。利達の父は万寿弥の能力を認め、一方、万寿弥は利達の父から政界の話を聞き、情報収集できることが楽しかったのです。しばらく交友が続いた後、利達の父は万寿弥が仏門に戻ろうか悩んでいることを聞きました。万寿弥の悩みは利達の父にも心当たりのあるものでしたが、どこかで割り切らないと続かない世界であると率直に答えました。その上で、仏門から政界に入るにはどうすれば良いのか尋ねてみました。
万寿弥は香壇山長楽寺で修行をし、そこから政界に入ったことを明かしました。香壇山長楽寺は、朝廷や有力貴族達の思惑によってできた寺でした。朝廷や貴族にとって、地方の女に生ませた子どもの存在が悩みどころでした。その子どもの能力がいくら高くても、正妻の子でないという理由だけで、京に迎えることが難しかったからです。正妻との間の子のできが良くなくとも、自分の跡継ぎは長子になってしまうことに頭を悩ませていたのです。そこで、七〇一年に大宝律令が制定される時に、香壇山の僧たちを集め、宗派を超えた一つの大きな寺院を設け、そこで修行を積み、政界で必要な能力を身につけさせ、第二の出世コースを制定したのです。
香壇山長楽寺が設立されてから、数年は貴族たちの人気を集めました。出世を狙う地方豪族の子どもも預けられ、仏道、学問の両方を修め、なおかつ政界での生き方を見つけることができるからです。その中で優秀であれば京の要職へ、そこまででなくとも、僧侶として生き延びることができたからです。特に、家を継ぐことができない次男、三男がよく集まってくる場所でした。
しかし、長楽寺も年数が経つにつれて、政界に進出する者が多くなり、規制がかかるようになってしまいました。公には明かされない五位、六位あたりのポストの多くを占めていました。そこが空かない限り次の僧侶の進出が認められなくなっていたのです。
その中で万寿弥は従三位という位まで上がりました。彼の学識の高さ、災害に対する画期的なアイデア、仏門、政界における人脈の多さ、彼は本当に優秀な人物だったのです。しかし、優秀が故に、敵も多くいました。彼の足を引っ張る者、陰口を叩く者、そして、出自をあざ笑う者が少なからず存在したのです。そうしたものは、彼よりも位が低い伝統のある貴族集団でした。万寿弥の精神が摩耗してしまったのは避けられないことだったのです。
利達の父は、万寿弥の話を聞き、利達を長楽寺に入門させようと思いました。幼い頃から入門させても良いが、今は父の元での手習いに興味が強かったので、教えられる限りのことを教えようと思いました。それに、利達の母の説得に時間が掛かると思ったのです。利達自身のこれからを案じる彼女に、この計画を話すとおそらく取り乱すだろうと思いました。かわいい我が子を寺院に入れるということは、この世との縁を切るということになるので、もう二度と会えなくなってしまいます。そんなことを彼女が耐えられるとは思いませんでした。
そうこうしているうちに二年が経ってしまいました。この間に利達の父の思惑は、一つは成功し、一つは失敗してしまいました。まず利達の母を説得は成功しました。最初はかなり拒絶し、利達自身に仏門に入らないように厳しく諭しました。何度も話をすることで、利達が政界に入り還俗した折には、母と会うことを約束させるという条件をつけて、最終的に了解したのでした。
しかし、利達の父の思惑通りにならなかったのは利達の状況でした。確かに、多くの学識を手に入れていたのですが、母から京での活躍する場所がなければ、宝の持ち腐れであること、出自の悪さが必ず足を引っ張ること、そういう消極的なことを言い聞かされていたのです。
利達は自分の能力に誇りを持っていましたが、この世の中では役立てないことを知り、気力を失っていきました。村の中で畑を耕し、みんなで生きていく方が平穏な暮らしができるのではないかと考えていたのです。しかし、学問に楽しみを見つけて辞めることができませんでした。このままでは中途半端な人生になってしまう、もう生きていても意味が無いのではないかと、生きることへの気力さえも失っていました。
そんな時、利達の父から香壇山長楽寺への入門の話を持ちかけられました。気力を失っていた利達ですが、父から政界への進出のチャンスがあることを聞き、興味を持ちました。しかし、それは誰でもなれるわけではなく、仏門修行、学問修身、政界精通の三要素を満たさなければなりませんでした。学問を修められるのは非常に興味深いものでしたが、他の二つは利達にとって未知の世界でした。気力を失った利達の心は大きく揺れていました。しかし、父も母も香壇山長楽寺への入門を認め勧めていることから、彼は入門することを決めたのでした。
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