【徒然20240917】定型発達への「擬態」の話
こんなポストをしました。
「発達障害者は、定型発達に擬態すべきかどうか」という話があります。
まず、この話をこの言葉のまま進めるのは危険だと思います。「発達障害者」「定型発達」「擬態」それぞれの定義が人によってまちまちになり、誤解が誤解を呼ぶ不毛な議論になってしまうか、「ひとそれぞれ」という安易な答えに集約されてしまうか、になりそうな気がするからです。
そこで、ここでは自分にグッと引き寄せて考えたいと思います。
結論から言うと、「仕事においては」「ADHDの特性のある私は定型発達に擬態しており」「それで良かった」という考えです。
ここでいう、私にある「ADHDの特性」とは、およそ次の5つとします。
・抜け漏れ・忘れ
・先送り癖
・過度の自責傾向
・段取り苦手
・集中しづらさ
そして、「定型発達」とは、「上記5つが気にならない程度に仕事をやっていける人たち」とします。
最後に「擬態」とは、「自分自身は変えずに、やり方や仕組みを工夫することで、結果的にアウトプットを変えること」とします。
つまり、以下のようなことになります。
仕事において「抜け漏れ」「先送り」「自責」「段取り苦手」「集中しづらさ」のある私は、それらが気にならない程度に仕事をやっていける人たちの中でやっていくために、自分自身は変えずにやり方や仕組みを工夫して結果的にアウトプットを変えることをしており、それで良かったと考えている。
長いですが、自分の考える「定型発達への擬態」をできるだけ誤解なく丁寧に伝えようとすると、こんな感じになります。
「定型発達に擬態する」という言葉は、「自分自身の(弱みや強みをひっくるめた)アイデンティティーを捨てて、何の特徴もない人間になる」みたいなイメージがうっすらつきまといがちです。その意味での「定型発達への擬態」は、私はしていません。
また、仮に「定型発達的な文化」「発達障害的な文化」があるとして、私にとっては、世界はそれらがごちゃまぜになっていて、何が定型発達的で何が発達障害的なのか判別がつかないものだと感じます。
そう考えると、先に挙げた結論からはちょっとそれてしまうのですが、そもそも「定型発達への擬態」などというものは存在せず、あるのは(発達障害の診断の有無関係なく)「具体的な困りごとへの対処」のみになると考えます。
それだと、さきほど書いたような長い文章で説明せざるを得ないので、便宜上「定型発達に擬態」という言葉をあてがっている、という感じです。