橋本作品との道行一年間
アドベントカレンダー初挑戦の藤原加朱代(ふじわらかずよ)と申します。どうぞよろしくお願いします。
1.はじめに
人様にお見せするような文章など小学校の感想文以来かもということで、小さな胸がドキドキしております。でも、ほら、こんなユルイ内容でもいいんだと、書こうか迷ってる方に勇気を与えられるかもしれないからね。
おまけに、noteって何ですか、何をどうしたらアドベントカレンダーに載るのかしら、というレベルのアナログさ。このご時世にして絶望的だわ。納富さん、こんな私を見捨てず辛抱強く教えてくださってありがとうございます。
どうしてアドベントカレンダーに参加してみますと口を、というか指を滑らせてしまったかは、自分のことながら、未だもって全く謎です。おそらくほぼ日の学校の授業、講師の先生方、校長先生をはじめとする学校スタッフの方々、受講生のみなさまの好ましい雰囲気および熱に憧れてのことかと思われます。
ほぼ日の学校の受講歴は、万葉集講座と橋本治リシャッフル講座です。いずれも1回目は抽選落ちで2回目の敗者復活(?)で滑り込みセーフ。持ってるんだか持ってないんだか。
今年は、私にとって橋本治リシャッフル講座で始まり、終わったと言える年でした。ずっと何かしら橋本作品を読んでおりました。
年のせいか、記憶の持久力が目にみえるように落ちてきました。容赦なく薄れてゆく記憶たちのしっぽをつかむように、心に浮かぶよしなしごとを頼りに、こちらに今年の〆として書いてみたいと思います。
2.橋本作品との出会い
みなさんの橋本作品との出会いは何ですか?
やはり桃尻娘?キンピラゴボウ?それとも男の編み物手トリ足トリ?はたまたもっとシュールな尖った作品?
マイファースト橋本治は、『小林秀雄の恵み』でした。今奥付を確認してみますと2刷で2008年1月20日とあります。確かほぼ日のおすすめ本のコーナーか、糸井さんの今日のダーリンで、強力なお勧めがあったと記憶しています。お恥ずかしながらそれまでわたくし橋本治さんを存じあげませんでした。もちろんカリスマ的に人気があることも。あろうことか私は、桃尻娘の文庫化がされた1981年、批評で引き合いに出されて橋本さんとしてはおそらくあまりいい思いをされていなかったであろう太宰治の『女生徒』が大好きな田舎の中学生でした。
この『小林秀雄の恵み』を手に取ったのも、正直に言うと、紹介されていた内容や著者である橋本さんに興味が湧いたからというわけではなくて、イケメンなのに受験生の敵で、なんか最後までやられっぱなしだった感のある小林秀雄を、大人になった今なら少しは理解できるかも、というリベンジ的な動機からでした。
そして読んではみたものの、わかるようなわからないようなややこしい本だわ、と思ったことしか覚えておらず、肝心の小林秀雄の恵みとは一体何だったのか、今ではすっかり忘れて、本棚に鎮座ましますことと相成っております。
3.橋本治講座に参加する
つまりまったくもって橋本さんの読者ではなかったわけです。ほぼ日の学校に拾われるまでは。
でも、橋本治をリシャッフルするという講座の募集があったとき、申し込むのを躊躇いませんでした。名前だけしか知らないし、読んだことがないに等しい橋本さんを旅する講座。何かスルーしておけない感覚に導かれました。
美術や編み物、枕草子、源氏物語、平家物語、歌舞伎、浄瑠璃、そしてもちろん小説という、自分が好きだなぁと思っている世界をカバーするどころか、もっともっと広い分野に非常に造詣が深い方だということで、そのオールラウンダーぶりに、そんなすごい人がいるんだとビックリして、今度こそそんな橋本さんのことが知りたい、橋本さんの書かれたものを読んでみたいと素直に思いました。
ハイ、豊饒な海へドボン。溺れましたよ。なにせ一冊しか読んだことなかったわけですから。
まずは分量に。11講座で扱われる本は読んどこう、あと学校のページにある推薦図書もね。ということで、参加が決まったその日にまず、後先考えず勢いにまかせてAmazonでポチ、ポチ、ポチ…何日か続けて宅配便のお兄さんがよいしょよいしょ運んでくれた本で、ダイニングテーブルおよび空いている椅子には、4山脈が屹立。買ったはいいけれど、それを各講座に間に合うように読み進めないといけません。分量に大きく差があるから、次の分はもう読んだから大丈夫なんて安心してる場合ではなくて、当初の予定では、源氏物語と平家物語が同じ月だったから、それを見越してどんどん読み進めないと間に合わないよーってことで、こんなに綿密に計画立てて、必死で毎日本を読んだことはありませんでした。
そしてもちろん内容にも溺れました。どのジャンルでも、知性が溢れている。私にとっては、小説は引き込まれるように読めるけれど、評論は理解に時間がかかる。知識が足りない点も多々あり。間に合わないよ〜と根をあげそうになった頃、コロナで中断。読むべき本はまだまだどっさり。「たくさん書いといたから。おうち時間心配ないよ。ホッホッホ。」って橋本さんがあたたかく微笑んでいらっしゃるような気がしました。そんな感覚に背中を押され、気を取り直してもりもり読み続けました。
4.『枕草子桃尻語訳』
これ意訳なしの逐語訳なんですよね。『「わからない」と言う方法』で、地を這うように現代語訳していけたのは、品詞分解が得意だったからとおっしゃっていました。品詞分解!30余年タイムスリップして、高校時代へ。当時週一回三時間(!)、古典の塾に通っていました。お香の燻る畳の部屋に正座。当時御歳80過ぎの生きた化石みたいな先生は、「わたくし、二度同じ間違いをする方を馬鹿って定義しているんです」と言い放ち、震え上がる私たちに品詞分解をさせ、竹取物語からはじまって、伊勢物語、それこそ枕草子、源氏物語(全巻ではないけれど)、更級日記、蜻蛉日記、徒然草などの逐語訳を命じました。本文を正確に理解していない者がどうして意訳ができる、間違いを犯すもとである、100万年早い!ということで。
懐かしさとともに、逐語訳で正確な意味をまず取ることの大変さ、だいじさが時を超えて甦りました。そこに橋本さん流の時代考証が入って、知的で機転が効いてちょっと意地悪で、でも定子さまに素直に憧れる純情なところもある、清少納言の人となりが見事に浮かび上がる。お寺に説法を聴きに行くのはライブと同じ、坊主がイケメンであればあるほど盛り上がるとか、間違いない。
5.『窯変源氏物語』
こんな男っぽい源氏物語初めてだ。って、通しで読んだのは、『あさきゆめみし』だけだけども。
性欲だけでなく権力欲もバッチリあったんですね、光源氏の君。それによって自分自身も愛する女性も翻弄されていく。絢爛豪華で雅やかな恋愛とそのもつれによる悲劇だけでなく、宿命みたいなもの、どうしようもないことがあること、理屈ではとても太刀打ちできない人の心のあり方を紫式部は描き切ってるんだよ、って橋本さんが教えてくれてる気がします。一般的にあまり人気がないとされる巻も全て全力で訳されており、読者を中弛みなく最後まで惹きつけてやまない。夢中で読みました。ただただ憧れの対象として非の打ち所がない光源氏という貴公子としてだけでなく、その影の部分も容赦なく抉り出しているところが魅力。ほら、甘いものにはほろ苦いコーヒーが一緒の方が断然美味しいでしょう。
6.『双調平家物語』
町田康さんもおっしゃった通り、え、中国から始まるの?安禄山が太ってたこととか、日本でも蘇我蝦夷と入鹿親子の確執とか、孝謙天皇と道鏡のロマンスとか、悪左府頼長の男色がひどかったとか、平氏の栄枯盛衰とどう関係が?とやっぱり最初は思いました。読んでいくうちに、面白くて橋本マジックに引き込まれてそんなことどうでもいいような気がしてくる。敢えて分析してみると、おそらくどこの国でもどの時代でも、権力闘争は存在し、むしろそれが青雲の志よりも世の中を動かす原動力となり、権力を掌握するためのスキームが清盛の時代までにどんどん洗練されはするがある程度共通で、権力への固執が滅びに繋がるという構図も同様だから、それを示すために、国を越え、時代を超えたのであろう。
ところで、歴史小説ってどこまでが本当でどの程度の脚色がされているのか、その歴史に詳しくない者にとっては判別できないから眉唾物だなと、これまであまり積極的に読んではこなかったけれど、おそらく本当のことなんて誰にもわからないし、誰のどんな点をクローズアップするかでバリエーションをつけることが可能で、好きなら楽しめばよいのだ、学問とは違うんだもん、と橋本平家を読み通すことによって教えてもらった気がする。橋本平家、私は好きだなぁ。橋本さんの徹頭徹尾やり抜くという気概が随所に感じられて、リーダーズハイ(?)を味わえる16巻です。
7.いわゆる昭和3部作と『草薙の剣』など小説いろいろ
私たちは生まれる時代、生きる時代を選べない。
もちろん、ひとりひとり違うわけで、全く同じ人生なんて存在しない。ただ、時代の空気、時代の気分といったものに影響されて、濃淡はあれど、一定の傾向のようなものが生まれざるを得ないのは確かだと思う。
ひとりひとりのささやかだけども貴い生活や人生をミクロ的視点で描きながら、同時に、ある時代の人の人生はその時代のうねりのようなものに影響されるというマクロ的視点から、大きな川の流れに流されて呑み込まれて行かざるをえない、抗い難い運命のようなもの、どうしようもなさ、を小説のテーマのひとつとされていたのではないかと思われます。
『草薙の剣』では、それがリレー形式でマルチプルに書かれるところがすごい。タイトルにもなっている草薙の剣は、攻撃を仕掛けるためではなく押し寄せる敵を迎え撃つための道具。自分の運命にがむしゃらに抵抗するのではなく、よりよく受け容れることの大切さを象徴するかのようだ。『リア家の人びと』では、学生運動華やかなりし頃の変化しつつあった女性の生き方を、静香に託して。『橋』では、一つの川沿いの別の街に生まれ育った二人の女性は、高度経済成長期を逞しく切り拓いていった両親のパワーに気圧されてか無気力で犯罪を犯してしまう。『巡礼』は、ごく普通に生きてきたはずなのに、子どもを幼くして亡くした心の空虚を埋めるかのように、街を彷徨ううちにゴミで家を溢れさせてしまう。その行為は、彼にとって心の隙間を埋めるための巡礼であり、祈りであったのだろう。ゴミを持ち帰っても持ち帰っても心に空いた穴は埋まらないから、集めることをやめられない。ビターな結末が多いなか、私は巡礼はハッピーエンドなのではないかと思っている。音信不通だった弟が現れ、ゴミをテキパキ片付け、「お大師さんに助けてもらうのよ。」とそれこそリアルな四国八十八ヶ所巡りに誘う。本物の巡礼が始まった途端この男は天に召される。もう巡礼は、祈りの旅は十分したからいいんじゃないの、とお大師さんに許されたのではなかろうか。橋本さんは優しいなあと思った。
時代とシンクロさせる小説、今のコロナ禍の状況を橋本さんならどう書かれるだろうか、と栓なきことを思う。
松家仁之さんがおっしゃっていた性的表現がいやらしくないのはなぜか、について私なりに考えてみた。いやらしくないのはその必然性にあると思う。表現自体とシチュエーションの両方が必然すぎて他の選択がないからだと思う。そこまで橋本さんが研ぎ澄ました結果だと思う。だから、逆にエロくしたければ、これらを緩めたらいいんだと思う。別に一択ではないけどという表現や状況を作ればいいんじゃないかしら。
8.歌舞伎・浄瑠璃
歌舞伎座が新しくなる前の五年ほどの間、毎月観に行っていました。型が決まっている中での、衣装や演技の華やかさ、あっけらかんとした粋な感じ、幕間に席でお弁当を使っちゃえるカジュアルさも好きで、せっせと通っていました。贔屓は仁左衛門。玉三郎も。今は亡き勘三郎。
人形浄瑠璃も、祖母が時々テレビで観ていたのに影響されて、歌舞伎に比べて少ないけれど観てました。浄瑠璃は今でも、人形を見りゃいいのか、人形遣いを見りゃいいのか、でも唸る太夫と太棹からも目が離せなくて困ってしまう。とにかくあの独特のグルーヴ感がとても好きだ。
てなことで、結構わかってるつもりだったけれども、『浄瑠璃を読もう』『もう少し浄瑠璃を読もう』『義太夫を聴こう』『大江戸歌舞伎はこんなもの』『江戸にフランス革命を!』、岡田慶夫さんの絵が神秘的で美しい絵本シリーズ『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』『国性爺合戦』『妹背山婦女庭訓』を今回読んで、見事に鼻をへし折られました。
浄瑠璃、歌舞伎が実はあんなに綿密に伏線が張りめぐらされた複雑なストーリーだったとは!お恥ずかしながら改めてとてもビックリしました。今まで何を観てきたのだろう。分かったつもりになっていたことがとても恥ずかしくなりました。次観る機会があったら素直にイヤホンガイドを借りよう。
9.道行考
義太夫の回で、義太夫に親しむには道行に注目するととっつきやすくなると橋本さんがおっしゃっていたことを知り、今まで読んだ本で道行の要素がないか、考えてみるのが自分の中でブームになりました。
それまで、雪の降る中、許されぬ仲の男女が死ににいくことだと思っていたけれど、もっと広くて旅の様子のことなのですね。別に恋人同士でなくても親子でもよいわけだし。
道行ってことで、すぐに浮かんだのは、橋本作品じゃないところが私の残念なところだけれど、これも学校長おすすめで手に取り読んで圧倒された車谷長吉作の『赤目四十八瀧心中未遂』。暑くて狭いアパートの一室で毎日黙々と病気で死んだ鳥のモツを串に刺し続ける男と、兄貴に借金のカタとして風俗に売られる迦陵頻伽の刺青を背負った在日韓国人の女が、運命から逃れようと出奔する。紛れもない道行。彼女が、一人電車を降りたときに、こりゃ純愛成立だなと思った。
10.おわりに
講座のために読み始めた年始から、今このアドベントカレンダーを書いている11月末まで、橋本作品とともに道行してきた一年。そのお人柄の優しさと懐の深さ、作品世界の豊饒さに、どれほど触れ得たのかは自信のないところだけれど、どんなときでも、本を読むことは楽しく、知性を備えることはとても大事なことで、それらは自分を救うのよと再認識させてもらいました。宝物にしたいと思います。
とりとめもない長文、最後まで読んでくださいましてありがとうございました。
コロナ禍の世界にもクリスマスは来る。橋本サンタの恵みを噛みしめる今年のクリスマス。来年は、ベリーメリークリスマスとなりますように。
お後がよろしいようで。
ふじわらかずよ