父にありがとうを言ってみたけれど
もし、仮に魂というものが肉体や心とは別にあって、肉体を離れても存在するとしたら、いつだって話しかけたらそばで聞いてくれて伝わるのかも知れないけれど。
いずれにせよ、今この世で生きているわたしの父として、ひとりの人間として、目の前にいる父に残りの時間は少しでも痛みや悲しみとはほど遠い言葉をかけたい。
そう思っていたら、折りしも私が成人式を迎えた日の写真が出てきた。
祖母が、お赤飯を炊いてわざわざ自宅にお祝いに来てくれたっけ。
その祖母の息子である父と私で家の前で撮影した写真。
父は、少しふざけた目線のずらし方をして、後ろから私を見ている。
嬉しそうだ。
なのに。私はというと、なんともふてぶてしい表情で不機嫌に写っているのだ。
昔のことだけど、覚えてる。
あの頃、私は成人になったにも関わらず、ものすごく父に対して反抗的だったのだ。
あの当時の父、悲しくなかっただろうか。子どものこととして割り切れていただろうか。
当時の父のことを思うと本当に胸が痛い。
この写真を見て、決行した。
母が買い物に出掛けて、父とふたりでテレビを観ながら留守番をしていたタイミングで、父に話しかけた。もうすでにその頃は、筆談ではあったけれど。
「この前さ、成人式の写真が出てきたんだよ」
「そうか」
「あの頃はさ、私すごく反抗期だったよね。ごめんね。」
「そうだったか?おぼえてないな」
「今まで育ててくれて、自由にさせてくれてありがとうね。」
泣いたら最後の挨拶みたいになっちゃうから、ニヤッとしてみる。
父は、最後までそんなことあったか?ととぼけた表情でそれ以上特に何も言わなかった。
父に、伝わっただろうか。
あの時だけじゃない。
私が赤ちゃんの時にひきつけで白目向いたとき、舌を噛み切らないように咄嗟に親指を突っ込んで救急車を呼んでくれたことに始まり、大人になってからもつい最近まで、離れて暮らす娘を絶えず支えてくれる父だった。
社会人になってからも私が心身辛かった数年間には、毎週のように帰省してくる私を片道3時間の移動距離を惜しまずに度々実家から自宅まで送り返してくれた。
これは今となっては笑い話なのだけど、感染症の影響で我が家のトイレットペーパーが枯渇しそうと私がのんきに話をした時、父は電話越しに即座に実家のペーパーをダンボールに詰め始めた。
いつまでも、娘を想い、そしてすぐに行動に移せる父だった。
そういう父の支えあってこそ、私は末っ子らしくのんきで自由奔放な人生を送ることができたのだった。
そういうことひっくるめてこの感謝の気持ち、尊敬の気持ち、伝わっただろうか。
父は、先日自宅で息を引き取った。
もう最後のほうでは、意思疎通を取るのも難しい状態だったので、あの時に言葉にして伝えられたことは、少なくとも私自身にとっては救いだったように思う。会話ができなくなったのは、あれから数日後のことだったから。
父がこの世を去った今、じわじわと押し寄せるこの想い。
父が生きている間、私はずいぶんと大きな子どもでありすぎた。
今、もし両親や家族の介護をしている人がこの記事を読んでいるとしたら、そうでなくてもだけど、伝えたい。当たり前ではあるけれど、当たり前が難しい。
今、ありがとうと思って伝えられる状況なら、生きているうちに聞こえているうちに何回だって伝えてあげてほしい。身体が不自由になって、本人が誰かに何かをしてあげられなくなっても、無価値感を持ってもらいたくはない。「具体的に何かをしてくれたからありがとうと言う」なんて決まりもないのだから。
そして、それがきっと残される側の人にとっても、救われることになるのではないかなと思う。
私の個人的な考えではあるけれど、私が逝く家族だったなら、ごめんばかり言ってお別れするよりも、ありがとうと言い合ってお別れしたい。
人生の卒業式はお互いにいつやってくるか分からないのだから。